第10話 お嫁さん
じーっとこちらを見つめている――らしい、目がある辺りを泉も見つめ、
「うん。だいぶ良くなったみたいだね、芥屋の奥さん」
両頬に添えていた手を離しては立ち上がり、腰を叩きつつ煙を吐き出すのは、包帯巻きの医者。定期的に訪れる彼は、夕食を終えたのを見計らったように現われ、洗い物をするワーズを尻目に、ソファに座る泉の前へ陣取った。断りもなく入って来たモクへ、ワーズはちらりと冷めた一瞥を送っただけで何も言わない。
全身包帯のため、何の種族かは判別出来ないが、人間ではないというモク。これをワーズが受け入れるのは、言ったところで無駄、でも便利だから、だそうな。
妙な診察が終わり、両頬を擦る泉は、そんなモクへ礼を述べながら、
「あの、モク先生?」
「うん?」
「その、奥さんっていうの、止めてもらえませんか?」
「どうして? 恋腐魚とはいえ、いつも一緒にいたから夫婦で良いんじゃないの?」
こちらの気も知らない、包帯越しの声の呑気さに、つい声を荒げてしまう泉。
「でも、私は、ワーズさんの奥さんじゃありません!」
「じゃあペット?」
「ぺっ!!?」
突拍子のない発想に、顔が真っ赤に染まる。
と、夕食時、竹平が腰かけていた椅子に座ったモクは、煙を吹かしつつ指を一つずつ折る。ちなみに竹平は現在、前まで泉が使っていた二階の部屋に閉じこもっている。常連になろうが、次に何をするのか検討も付かないモクが怖いらしい。
「うーん? だって泉・綾音、店主に抱きついたり、舐めようとしたり、擦り寄ったり、餌貰ったり、水も与えられてたでしょ。首に紐でも付いてるんじゃないかってくらい、店主の傍に居続けて。命令だってちゃんと聞いてたし」
「う……へ、変な言い方しないでください」
「お風呂にも入れて貰ったんでしょ?」
「違います! 髪を洗って貰っただけです!」
勢いに任せ、言わなくて良いコトを口走る。
「でも、一緒に入ろうってボクを誘ったよねぇ」
「ワーズさん!?」
台所から思わぬ茶々を受けた泉は、心の中で「あれは私じゃないんだ」と繰り返しながら非難を叫ぶ。
だが、へらりと嗤いかけたワーズは、懲りることなく、
「あと、一緒に寝ようとか」
「ぃっ」
「ボクが欲しいとか」
「ひぃっ」
「キス迫ったり――」
この後、延々続く、ぼやけた意識の下、泉がワーズへ望んだ逸話の数々。
全部が全部、本当のコトなので、否定を挟む隙もない。
「あうぅ……」
見事に撃沈した泉は、誰と目を合わせる気にもなれず、ソファの角を眺めながら、湯気の上がりそうな顔で心の涙を呑む。
トドメに、
「んー、迫られるだけ迫られたけど、恋腐魚のせいだからねぇ。ボクは一個も応えなかったよ」
そんなフォローが為され、けれど泉は気になる箇所を見つけて、ワーズの背を見つめた。
「…………ワーズさん」
「ん?」
「もしも……もしもの話ですよ!? その……せい、じゃなかったら、どうしてたっていうんですか?」
「そりゃもちろん」
「も、もちろん?」
言葉をなぞり繰り返し、泉は早い返答を促した。
「…………」
しかし、ワーズは何も語らず。
しばらくして、食器洗いに合わせてゆらゆら揺れる背から、クツクツ笑い声が聞こえて来た。
ビクつく泉の身体は、同時に、変な期待に胸を高鳴らせる。
反する心情に、青と赤の間を彷徨う顔色。
捨て置かれた形のモクは、気にした様子もなく泉へと首を傾げた。
「それで結局、泉・綾音は芥屋の奥さんなの、ペットなの?」
「違います。……奥さんでもペットでもありません。私は私です」
脱力しながらも断言すれば、包帯の顔がこくりと頷いた。
「そっか。じゃあ、私は愛人のままでも良いよね?」
「え…………うあっ」
すっかり失念していた、目の前の男の訴え。愛人と自らを売り込む割に、特別なコトを要求しないモクは、泉の反応に少し頭を傾けた。
「駄目なの?」
「い、や、あの……ど、どうして愛人なんですか?」
「だって、奥さんだと思ったから……ああ、そっか。店主は旦那さんじゃないんだから、お嫁さんにして貰っても良かったんだ」
「……あの、男の人は、お婿さんじゃないんですか?」
色々あり過ぎる言いたいことの中から、泉はソレを選んで伝えた。
するとモクは不思議そうに、首を直角に折り曲げる。
「そうなの? でも昔、私をお嫁さんにしようとした人がいたんだよ」
「…………へぇ」
「でもその人、酷いコトしようとするから殺しちゃった」
「…………」
変わらぬトーンで告げられた事柄に、泉は思わず顔を顰めてしまった。
思い出すのは、人魚の一件の最中、彼女自身が殺めてしまった相手。
「……ツェンさん」
「うん?」
小さく名を呼べば、くぐもった返事がもたらされた。
「あ、いえ、すみません。ちょっと思い出してしまって。ツェン・ユイさんって。私が…………殺してしまった人の」
残る苦味に下唇を噛めば、モクの手が顎に添えられ、皮膚を伸ばされる。
「ふーん? 後悔してるっぽいの、泉・綾音?」
歯から逃れた唇が元に戻ると、モクは手を離して問う。
一瞬、虚を衝かれたような顔になった泉は、困ったように薄く笑った。
「っぽい……そうですね。してるっぽいです。する資格はないから……フリだけ」
少しずつ、下を向く視界。
その頭に、何かが乗っけられた。
「そっか。私は全く後悔なんかしてないけど。大変だねぇ、人間って」
「……モク先生」
くしゃり、撫でられる感触に顔を上げたなら、頭上から伸びた腕の持ち主が頷き、
「で、泉・綾音。私のこと、お嫁さんにしてくれる?」
「…………全然、人の話聞いてないんですね?」
しんみり浸る機会も与えてくれない医者へ、泉は仰々しいため息を吐き出した。
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