第9話 地獄のお食事タイム
「泉嬢?」
名を呼ばれて顔を上げる。
「っ! は、はい……」
至近にへらりと笑う白い面を認めては、すぐさま顔が俯いてしまう。胸の高鳴りに合わせて火照る熱を逃がすべく、下げた視界の端に映る黒い裾だけを見つめる。
いつもコートであるはずの裾は、ここ最近着流しに似た服に変わっていた。
それが自分のせいだと知っていては、申し訳なさ半分、情けなさ半分。
どちらにせよ付き纏う後悔に、ちらりと見たのは泉が座るソファの隅。
くしゃくしゃになった黒いコートがある。
元々、目の前にいる男の持ち物だったソレは、奇妙な熱に脅かされていた泉の要望により、ずっと彼女の寝具として使われてきた品である。人間好きを豪語し、何かと世話を焼きたがるワーズは、反面、自称・人間の自分の持ち物にあまり興味を持っていないらしい。せがむ泉へコートを渡し、今の格好に着替えた彼は、首を傾げる竹平へコートはもうないんだと言っていた。
コートなしのワイシャツとスラックスでは、物足りないから、とも。
何が物足りないのかはさておき、であるならば、泉がコートを諦めるべきだろう。
だがしかし、その時の彼女は与えられたコートで、渋々妥協したのだ。
何を、と問われれば――
”……分かりました。ワーズさんと一緒に寝るの、我慢します”
(ああ、何故に私は、あの時あんなことを……?)
鮮明に思い出した記憶から、泉の顔が更に赤く、熱くなった。
原因は分かっている。
熱に浸っていた時の記憶はしっかりと残っており、ゆえに、ワーズしか入れていなかった意識外の会話も、克明に思い出せた。
恋腐魚という名の、ワーズから与えられた食物。
あれが全ての元凶。
ついで、与えられた時のコトまで浮かんだなら。
「ぅう……は、恥ずかしいよぅ」
「どしたの、泉嬢」
「!」
両手で覆い隠そうとした顔が、先に述べられた白い手に頬を撫でられ、促されてゆっくりと上がった。
「熱でもあるのかい?」
迎えるのは、困った笑いを浮かべるワーズ。
「ち、違います。大丈夫、ですっ」
喘ぐように否定を口にしたなら、床に両膝をつけたワーズが「そお?」と傾き、頬を緩やかに撫でていく。あやすような動きに、未だ治まらぬ熱が心地良さを見出し、うっとり目が細まった。これを助長させるように、泉の褐色のクセ毛を絡めて遊ぶ白い指。
知らず伸べた手が、ワーズの手に重なれば、ひくり、彼の口元が動いた。
構わず、
「あ、あの、お鍋、噴いてますけど……」
「ああ、そうだったねぇ。待っててね、泉嬢。もうすぐ晩飯ができるから」
もう一度頬を撫でて離される手の平に、心臓が激しく脈打った。
泉はその音が外へ漏れぬようにと、両手で胸を押さえる。
そうして、台所へと遠ざかる黒い背を目で追う。
恋腐魚の効果には段階があるそうで、現在の泉は、あともう少しで恋腐魚を食す前の状態に戻れるそうな。
だからと言って、素直に喜べないのも事実。
思考に自由が利く分、恋に似ていると言う身体の反応が、直で伝わってしまうのだ。離れてしまった身の寂しささえ、自分の心から生じたと勘違いするほど、しっかりと。
「…………なんてーか、大変だな、あんた」
呆れ半分でも同情混じりの声を受け、のろのろと泉の視界が動いた。見やった先では、こちらへ背を向ける食卓の椅子に横座る、赤い髪の少年が頬を掻いていた。
おぼろげな意識だった頃、聞こえた会話の中で失恋したという竹平。だというのに、熱に浮かされた泉は気後れもせずワーズに絡み続け、傷心の彼は見せつけられる光景に、何度も文句を口にしてきた。
だが、泉の意識がはっきりしてきていると聞かされた後は、徐々に同情の色が濃くなっていた。たぶん、傍から見るに、泉の状態はそれほどまでに憐れむべきものなのだろう。
ちょっぴり泣きたい気分に陥る。
「うぅうう……すみません」
「いや、責めてねぇし」
口を付いて出た謝罪は、手でぴしゃりと止められてしまった。
「まあ、もう少しの辛抱だ。……それより問題なのは」
「はい、できたよー」
やたらと楽しそうなワーズの声に、竹平の顔が物憂げな笑みを浮かべた。
「あの、台所に散乱した残骸の大本を片っ端から使った、見た目だけはまとも、味に関しては絶品な料理を、無事、平らげることだろ。なんだってワーズは、あんなグロテスクなブツばっかり使いたがるんだか……」
ふっと遠くを見る目に、こればかりは如何なる熱に浮かされようとも賛同する。
だいぶ身体の自由の利いてきた泉だが、気を抜くとどうしてもワーズの姿を追ってしまうため、料理の担当はワーズのみ。竹平は外食が多かった経緯から、簡単な調理しかできないという。
ならば提供される料理に文句を言うな、と言われそうだが、ワーズの調理では、毎度毎度、殺害現場もかくやというような解体ショーが展開されるのだ。
しかも、ソレが台所に放置されたまま、食事に突入する。
幾ら見た目や味に問題はなくとも、血生臭い惨状を傍らに楽しい食事ができる、そんな極太の神経は持ち合わせていなかった。加え、奇人街の不思議な現象により、食物の薫りで惨状の臭気が消されてしまうため、違和感からくる不快がより食欲を減退させる始末。
それでも出された分はきっちり食べなければならない。
でなければ、店主直々のお食事タイムが実施されてしまうのだ。
泉は一度だけ、この憂き目に遭った竹平を目撃していた。
いつもは殴られようが蹴られようが、へらへら受けるだけのワーズ。
けれどあの時ばかりは、暴れる竹平を椅子へ拘束。嫌がる口を無理矢理こじ開け、「はい、あーん」と地獄のネコ撫で声で料理を投入していった。
変わらぬ、へらへらした笑みで。
ちなみに当時の泉はといえば、恋腐魚に絶賛侵され中だったため、私もあーして欲しい、とかなりイタイ事を思っていた。
とにもかくにも、それゆえ竹平は以降、どれだけ心臓に悪いモノを見ても、自力で食べるようになった。
対する泉の方は――
「まあ、ワーズさんですし」
「んー、ボクが何だって?」
「はぅわっ!?」
いつの間にか泉の近くに来ていたワーズが、右手の銃を頭に押しつけて傾いだ。再来する赤らみにわたわた慌てる泉とは違い、竹平は他方を向き「なんでもねぇよ」と吐き出す。
「ふーん?」
納得したのかしていないのか、曖昧に頷いたワーズは泉を見た。
それだけで魅入られ、動けなくなった少女に差し伸べられる白い手。
「はーい、泉嬢。ご飯だよ?」
「う……は、はい」
抗えず手を取り、引っ張られた先の黒い服を、縋りつく風体でぎゅっと握り締める。一人で歩いた方が早いはずなのに、離れる気には到底なれず、寄り添える身に堪えようのない至福を味わう。
食卓を挟んで竹平の向かい側に着席。
ワーズと向かい合わせの状態にされては、「いただきます」の後、すぐさま口元へ運ばれるスープ。
「泉嬢、はい、あーん……」
恥ずかしい思いを抱きつつ、言われた通り口を開けたなら、スプーンの中身が舌の上に落ちる。心地良い温度まで下げられたスープで、火傷をする心配はない。口を閉じて咀嚼、飲み干せば、ワーズのへらり顔が深まった。
「はい、お上手ぅ」
「…………」
言いたいことは山ほどあるし、できうるなら睨みつけたいところである。
しかし、どう足掻いても、ワーズを捉える泉のこげ茶の瞳は、潤みとろける形にしかなってくれない。
加えて、
「自分で喰っても味がしないってのは、どういう効果だよ」
自分のスープから、決して視線を外さないよう努める竹平が呆れ口調で呟く。
聞こえてしまった泉が思い出すのは、意識が回復した最初の食事。
恥ずかしいからと自分で口に運んだ料理は、歯に触れる感覚さえおぼろげで、匂いもあまり感じ取れず、味に至っては空気を食べているようだった。それゆえ、もそもそと食事をする羽目になった泉に対し、ワーズは有無を言わさず、自分のスプーンを彼女の口に突っ込んだ。突然の強行に、抗議しかけた泉だったが、今度はしっかりと、否、いつも以上に美味しい料理の味が口に広がってしまう。
以来、意識を得た後でも、泉の食事風景は変わらず、ワーズに与えられる形式を取っていた。
恥ずかしさと美味しさ。
どちらか一方を取れと言われたら――
やはり、美味しさを取るべきだと泉は思う。
でなければ失礼にあたる。
作ってくれた人に対してもそうだが、食べ物に対しても。
と、思い至った泉。
次のスプーンが運ばれる合間で、止せば良いのにワーズへ問う。
「あ、の、ワーズさん? これ、なんですか?」
席につく途中、目にした台所の惨劇は、調理台を真っ赤に染め上げるばかりで、一体何が使われていたのか判別できなかった。現在、背にしている台所も、混沌の瞳と交わしては振り向くこともできず、泉はきょとんとした白い面の返答を待つ。
ちらり、ワーズの眼が泉の背後に向けられ、にやり、血色の口が嗤った。
スプーンに掬われた、やや大きめの肉を泉の口へとあてがいながら、
「んふふふふふふ……誰かのお肉、かもねぇ?」
「!!!!!」
洒落にならない言葉に、涙ぐむ泉。
しかし、拒もうとしたところで、今の泉ではワーズから与えられたモノを受け入れることしかできない。
唇を割って入る肉。
溢れる肉汁と口当たりの良さに吐き気を覚える。
美味しいのに、酷い罪悪感から眩暈を感じた。
一向に慣れそうにない、奇人街の食の成り立ちに震えが起こりかければ、
「冗談、冗談。いつかの鶏肉だよ?」
「む、惨いな、お前……」
同じ物を食しているため、手を止めてしまった竹平が言えば、ワーズはそちらへ笑いかけた。
「そお? だって泉嬢、可愛いんだもの。あ、シン殿も素敵だからね?」
「おお。…………耐えろ、泉」
戦友の如き竹平の応援を受けた泉は、怒る気力もなく憂いを帯びた瞳で頷く。次いで、「可愛い」と言われて、とくりと喜んだ胸を罵る思いで押さえる。
最中、ワーズの瞳がまたこちらを向いたなら、泉は得も言われぬ恍惚に支配され、熱い吐息がため息のように出ていった。
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