第8話 重傷人

 実は正気なのではないか。

 シウォンに押し倒されるという、からかいであってもあり得ない状況ながら、史歩に湧き起る疑惑。これをぶつけるように鋭い眼光で射貫けば、やってきたのは怖気立つ熱いため息だった。

「史歩には無縁の行動。なればこそ、お前は泉なんだ。……愛している」

「ひぃっ!!?」

 ぞわりと這う気持ち悪さに史歩の身体が固まった。

 シウォンはこれを薄く笑い、敷いた彼女の腕や頬を撫でた。

「どれほどこの時を待ち望んでいたことか。夢ですらつれぬこの身、心底恨めしかったぞ、泉。散々焦らされたんだ。しばらく俺の想いに付き合ってくれ」

「ぅっ……待つんだ、シウォン! 早まるんじゃ――」

 身じろごうとすればするほど圧迫される身体に、史歩の恐怖心が煽られた。

 これが人間なら素手でも応戦できるが、相手は人狼、それも群れの頂点に君臨する男。せめて刀に手が届けばと動かすものの、押し潰されたままでは、そこまで辿り着けず。

 焦る史歩を余所に、ヒートアップするシウォンの暴走は、さしもの剣客すら薄っすら頬を染めかける、切なげな喘ぎを奏で始めた。

「あまり俺を不安がらせないで欲しい。司楼から報告を受けたが……嘘だろう? ワーズなんぞと仲睦まじくやっているなど。それとも俺が悪かったのか? 幾らお前に会えぬ慰めとはいえ、他の女に手を出したから? だから、そんなにつれないのか? ならば謝る、済まない。今後は決して、お前以外の女には触れん」

「い、言ってる傍から、触れているだろうが!!」

「そもそも、アレらでお前の代わりになるはずもないのだ。俺の心を騒がせるのはお前しかいない。お前だけが、俺を満たしてくれる」

 絶叫の皮肉さえ通じないシウォンは、段々と、史歩との距離を縮めた。

 併せ、着物がしゅるりと軽い音を上げてずらされる。

「ひっ! ま、待て! 本気で、ちゃんと見ろ!」

「ああ。見ているさ、お前だけを」

「ちーがーうーっ!!?」

 仰け反り叫ぶ史歩。

 ――と。

「死ねっ!!」

 ごすっと鈍い音がしたと思えば、シウォンの身体が揺れた。

 途端、気を失った人狼は体重を増し、加えられる圧に史歩が呻く直前。

 ぐらり、青黒い人狼の身体が史歩の横に倒された。

 突然の開放に切らした息のまま、半ば茫然としていたなら、ひょいと顔が覗く。

「お前…………だ、誰だ?」

 そこにいたのは包帯巻きの顔。最近、似た容姿の者が芥屋に入り浸っていることも、その人物のことも知っている史歩だが、彼の医者の輪郭は人間に近かった。

 こんな犬面ではないはずだ。

 身を起こしながら着物を直す一方で、警戒を怠らない手で刀に触れる。

 しかし、包帯巻きの犬面は史歩でなく、再び意識を失ったシウォンへ舌打ちした。

「ったく、寝てると思いきや毎度毎度……大丈夫っすか、神代サン」

「……お、前…………司楼・チオ、か?」

 知った声と口調に、少しだけ緊張が緩む。

 それでも油断はならないと、横に倒れた人狼から距離を置き、改めて救い主の全身を見れば、重傷人そのものと知った。包帯は言わずもがな、吊された片腕に、ギプスの片足、支える松葉杖。包帯の隙間からはみ出した純白の毛先には、血と思しき錆色が所々付着していた。

「助かった、礼を言う。……が、お前、その姿は?」

「はあ。それが、芥屋の状況をお伝えしたら、親分に八つ当たりされまして」

「…………なるほどな」

 納得した史歩は、なんともなしに壁越し、芥屋がある方角を見た。今現在、シウォンがどういう訳だか懸想している少女が、珍妙な店主へ異様な想いを寄せている、なればこそ近寄りたくない店を。

 気味の悪い光景を思い出して眉を寄せたなら、司楼が問う。

「しっかし、何故、綾音サンはあんな風に?」

「ああ。ん?……見たまま伝えただけなのか、お前?」

「はあ。丁度いたホングスの旦那には全く相手にされやせんでしたし、芥屋の店主はこっちの話を聞かない、綾音サンもいまいち反応が鈍い、権田原とかいう従業員に至っては、人狼姿になった途端、店の奥に引っ込んじまったもんで」

「それはそれは……」

 いつも効率良く仕事をこなす司楼を知っている史歩は、さすがの彼も、今の芥屋には相当なダメージを食らったらしいと察した。

「あいつな、恋腐魚を喰わされたんだ。店主の奴に」

「……えっ!? あの御人が? な、なんだってそんなことを?」

「じっとして貰いたかったんだとよ。正式な喰わせ方じゃないから、と抜かしていたんだが、どうも綾音はその恋腐魚と相性が良かったらしい。未だにアレだ」

「な、なるほど? つまり、綾音サン、正気じゃないんすね」

「そういうこった。で? コイツはなんで、私を綾音と間違えやがったんだ?」

 指を差すこと自体が隙になりそうで、顎でシウォンを示す。

 これへ司楼はぎこちない動きで肩を竦めた。

「綾音サンに会えない反動なのか、どうも親分、ちょっとでもあの人と似てると思った女がいたら、片っ端から手ェ出している状態でして」

「……禁断症状って奴か?」

「まあ、代わりとはいえ、手厚い施しを受けて、女どもは悦んでるみたいなんすけど……綾音サンと勘違いしてるせいか、他種でも殺さねぇみたいで」

「つまり、虎狼公社には手付きの女がウジャウジャ、と?」

 見えぬ感情は声音で拾い、推測を口にしたなら肯定が首を振った。

「……へい。しかも一度につき一人きりなんで、あぶれた奴等が他で気を紛らわしちまって」

「間に合わない、か。餓鬼の養育も大変だな」

「全くっすよ。お陰で人手が足りないと、ニパの女将が嘆いてるくらいですから」

「ニパ……ってのは、アレか? 綾音を攫って幽玄楼まで持って行ったっていう」

「ええ。その節は申し訳なかったって、あの人、覚悟して芥屋に一人で行ったんすけど。ああ、綾音サンあんなだったから、帰ってきた時、あんなに強張った顔してたんすね。オレはてっきり、猫に出くわしたのかと」

「猫……そういや、対峙までしていたな、コイツ。なんというか……重症だな」

「……そうっすね」

 他の言葉が見当たらず下した評価は、妙な沈黙を二人の間にもたらした。

「だが司楼…………死ね、っていったよな、お前」

 ふと気づいた、助かった際の台詞を問えば、包帯姿が挙動不審に揺れた。

「ふ……ふふふふふ…………オレにも譲れないモノがあるって話っすよ。この身体のせいで、仕事の効率が悪くて悪くて」

 ぶちぶちと、堰が切れたように文句を口にする司楼。

 司楼の状態からして、シウォンをお持ち帰りさせるのは難しいと判断した史歩は、大きな息を吐き出した。

 人狼の回復力ならば、あと少しで目覚めるだろう男を横目に。

「……本当に、重症だな。とっとと治れ、綾音」

 治った矢先、少女を襲う受難は想像できても、他人の色恋沙汰なぞ、これ以上関わり合いたくないのだと、史歩は再度ため息をついた。

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