第7話 重病人

 夜行性である彼にとって、じりじり焼けつく、奇人街特有の濁った黄色の陽はつらいモノがあった。

 それでもここまで来たのは、偏に、愛しい女に会わんが為。

 怪我が治った後も、長い入院生活を頑固な医者から強いられ、痺れ薬や睡眠薬漬けにされていた日々は、今日まで後遺症を残していた。

 お預けを喰らっていた間、彼の慰めとなったのは、腕一本失われたからと襲撃しに来る、下克上狙いの餓鬼ども。

 お陰で、痺れの残る億劫な身体の回復が早められた。

 適度な運動は必要だとつくづく感じ、それなりに愉しませてくれた名も知らぬ屍へ、珍しく感謝の念を抱く。

 ベッドに縛りつけられていた時にも運動紛いのコトはしていたが、アレらでは彼女に会えぬ手慰みにもならなかった。仕方なしに荒ぶる本性を消し去る煙を呑み続け、渇きは美酒と評判の品々で散々誤魔化してきた。

 そうして迎えた退院直前、側近である少年が持ち寄った情報は、にわかには信じられない話であり、誤魔化しすら綺麗さっぱり吹き飛ばす類のモノ。

 そのまま、彼女の下へ直行しようとする彼を止めたのは、慌てた少年が叫んだ名だった。

”その状態で猫に会ったら、どうするつもりっすか!?”

 三凶の名も通り越し、奇人街不動の最強と謳われる影の獣と彼の因縁は、深い。

 内実を誰にも悟られたくないほどに。

 なればこそ、無様な姿を彼女の前で晒す真似だけはしたくないと、渇望する想いを封じ込めた。

 そんな過程を経、彼はようやく愛しき女の下へと――


 馳せ参じることはなかった。


* * *


 肩口までの乱切りの黒髪が床に散らばり、刃と称されることもままある瞳が、珍しく混乱に見開かれる。

 状況を、整理しよう。

 自宅の床で仰向けに倒された神代かみしろ史歩しほは、光にも似た速さで記憶を巡らせた。


 馴染みの芥屋ではない店で食材を買い、帰る途中で鉢合わせたのは、愛しのマオ――と対峙する人狼。すっかり陽が落ちたこともあって、二足歩行の獣姿に今さら驚きもないが、出かける前にいなかったその路は史歩の家に続いており、つまり、邪魔だった。

 迂回など全く浮かばず、「おい、シウォン」のかけ声と共に、鋭い一閃。鞘に納めたままとはいえ、同族の人間相手ならば死も過る重い撃だ。

 それを知り合いに背面から放ったのは、相手の力量を知っていればこそ。

 常であれば、たやすく避けた上で、反撃の一つでもしてくる場面、なのだが。

 戯れの一撃は、シウォンの失われた左腕の袖を揺らし、綺麗に脇腹を抉った。次いで、史歩より上背のある青黒い人狼の両膝が地に着く。

 ただでさえ丈夫さは折り紙つきの人狼。

 その中でも名の知れた狼首ろうしゅが、こうも簡単に土をつけるなぞ……。

 言葉を失くし、混乱し、はっとして顔を上げたが、直前までシウォンと対峙していたはずの猫はそこにいなかった。

 対峙する必要がなくなった――即ち、シウォンの意識が飛んだというのか。

 あの程度で?

 半信半疑の面持ちで、膝立ちのままピクリともしない人狼に近づき、その顔を見た史歩は若干引いた。

 これだけ近づいても動かないため、意識がないのは明白。

 にも関わらず、鮮やかな緑の双眸はカッと大きく見開かれていた。

 まさか……死んだ?

 一瞬過る考えは上下する胸により否定された。

 ならばこのまま放置しても問題あるまい。

 そう史歩は思ったのだが、そんな彼女の耳に珍しく、周囲の声というヤツが入ってきてしまった。

 ――通行の邪魔だからって、殺っちまったのか? さすが神代史歩。

 ――いくら相手がシウォン・フーリだからって、片腕でも関係なしか。

 ――手負い相手に死角から……知り合いでも容赦ない。

 称賛とも非難とも取れるそれらの声に、ダラダラと嫌な汗が全身を伝う。

 殺人狂と呼ばれようが、無慈悲と自称しようが、史歩にも一応、自分なりの流儀というものがある。ソレに当てはめれば、今回のシウォンの昏倒っぷりは全くの予想外であり、結果はさておき、史歩が意図した行いではない。

 だからこそ響く周囲の声に動揺した挙げ句、普段は絶対にしない行動を取った。

 すなわち――介抱。

 といっても人狼の回復力があれば、安全な場所に運ぶだけで事足りる。

 声をかけて肩を貸してやれば何の反射か、意識を失ったままでも立ち上がり、歩けば追随する身体。奇人街での評判はどうあれ、人間である史歩に、上背もある筋肉の塊を運べる力はないため、これ幸いと歩みを進める。

 あるいはいっそ、運べなかった方が早々に見切りをつけられたか……。

 時を置かず思い改めたのは、一度は芥屋へ向けた足の運びを自宅へ戻した時。

 いつもであれば、こんなお荷物、真っ先に芥屋へ捨てていくところなのだが、史歩にとって今現在、あの店は極力避けておきたい場所となっていた。

 仕方なく、悪態をつきつつ、周囲へは「妙な噂を立てたら殺す」と言わんばかりの眼光を振りまきつつ、ここから一番近い自宅へ向かう。


 そうして、辿り着いた玄関に買い物袋を置き、ついでにシウォンを床へ捨てるように下ろそうとしたなら、ぐるり回った視界。

 驚きに見開かれた目の前には、どろりと濁りながらも光る、緑の双眸。

(押し倒された? 何故? 私が、シウォンに、何故?)

 混乱をしていれば、こちらに向けて熱っぽく告げられた名は、

「泉……」

「はあ!? 待て、シウォン! 私は綾音ではないぞ!?」

 何をどう間違えば、あの軟弱娘と間違えられるのか。

 似ているところなぞ、人間であることと年格好ぐらいなもの。

 正気に戻れ。と言うつもりで張り上げた声は、哀しいかな、上の重石には届かず、

「泉……史歩の姿だろうが、俺には分かる。お前は泉だ。俺の腕を取るような真似、あの傲岸不遜、極悪非道、己以外はゴミ同然に扱う史歩が、するはずがねぇ」

「っの野郎! お前にだけは言われたくない!」

 噛みつくように叫べど、トリップした面持ちのシウォンはなおも言葉を重ねる。

「鬼の眼にも涙という場合もあるかもしれんが。万が一、いや、億が一、いやいや、兆……それでも足りんな。何にせよ、史歩が俺に肩を貸すなぞ、天地が引っくり返ってもあり得ん話だ」

「……てめぇ、分かってて言ってるだろう?」

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