第6話 盲目の恋心
頭がふわふわする。
けれど、それは決して不快なモノではない。
ゆるゆる視線がたゆたい、辿り着く先は決まって彼の人。
すっかり自分の寝床となってしまったソファに深く腰かけ、ぼんやりその黒い背を見つめていたなら、白い面が振り返った。
「泉嬢、待ってね。もうすぐご飯ができるから」
「……はい」
へらり笑う顔に合わせ、ふにゃっと頬が緩む。
同時に、とても幸せな気分を味わった。
これは今に限らず、ここのところずっと続く現象。
その都度、何故、という思いが巡る。
何故、彼が自分に気づいてくれただけで、こんなにも嬉しいのか。
何故、泣きたくなるくらい恐ろしく、満ち足りた気持ちになれるのか。
いつだってこの人は、私を――人間を気にかけてくれているのに。
まるで、元居た場所に戻ったような感覚だった。
あの場所で、得た、あの人と、共に、在った、時間の――……
「………………あの、人?…………て、誰……?」
途端、消え去る幸福の感触。
後に残るのは寒々しい思い。
毎回、何故と考えた先に待つ、空虚な胸の内。
表情を失くし、背もたれへ頭を預け、宙を仰いだ。見るともなしに見つめるのは、木造の天井と昼ではまだ明かりのない、古ぼけた電灯。
少し前までは全く分からなかったが、今の自分が可笑しいのは、何となく、分かるようになっていた。もし、きちんと残っている今までの記憶を、この可笑しな状態から脱した自分が振り返れば、羞恥から身動き一つ取れなくなるだろうということも。
「御免くださーい」
「おう……って、あんたか」
そんな声が聞こえて、天井に向けていた視線を右へと向けた。
奥のくすんだ陽から現れた、冴えない顔つきの青い着流し姿の男が、こちらへ背を向け座る赤い髪の赤い衣の少年へ、ますます冴えない表情で言う。
「あんたか……って、夜と昼とじゃ、ずいぶん対応違わないか、お前」
「るせーな。んなこと言ったら、あんただって昼と夜とじゃ外見のギャップ、激し過ぎるじゃねぇか。まあ、中身同じってのが、救いなんだか間抜けなんだかって話だが」
「……同じ中身と知りつつ、夜じゃへっぴり腰になるお前に言われたかない」
気安いやり取りの内容は、結局どっちもどっちという話なのだが、この二人にとっては常に相手の方が情けないらしい。しばらく、どちらも似たような言葉で貶しあっていたが、着流しの男がこちらに気がついた。
「あ……こ、こんにちは」
「こんにちは…………ランさん」
表情のないまま、軽い会釈だけをする。
名前まで間が開いたのは、相手の名をド忘れしていたためだ。
不思議な食材を口にして以来、台所で調理する彼へあらゆる意識を費やしているので、どうも他に対する認識が薄くなっていた。彼が口にした直後の名や言葉は鮮明に思い出せるのだが、しばらくするとすっぽり抜け落ちてしまう。
しかし、相手はそんな事情を知っているのかいないのか、ほっと息を吐いて、どう足掻いても冴えない顔を、灰色の髪の下で笑みに彩る。
「だいぶ良くなったみたいですね、泉さん。前に来た時はワーズにべったりで」
「ワーズさん……はあ、そうでしたか?」
彼の名を復唱しただけで、身を柔らかく包まれる感覚に浸り、顔が緩む。
これへ着流しの男は苦笑を示し、振り返った赤い髪の少年は茶の瞳で、じろりとこちらを睨んだ。
「まあ、確かに前よかマシだが、べったりってのは変わんねぇよ。今は炊事の邪魔になるから離れてるだけで、食事もまだワーズからしか受け付けねぇし。全く、少しはこっちの気も察しろっての」
「ふーん。まだ癒えないのか、失恋の痛手」
さらりと吐かれた言葉に、赤い髪の少年がピシッと固まった。
「ぐっ…………そ、そういうお前はどうなんだよ」
「何が?」
一転、意地悪く笑む少年の綺麗な顔に見上げられ、着流しの男がたじろいだ。
「最初会った時、ようやく逃げて来たって言ってたけどよ? その後で、また不自由強いられてたって、クァンから聞いたぜ?」
「うっ……く、クァン、まだ緋鳥のことで怒ってるのか?」
「緋鳥……って、あの、ヤバそうな奴のことか。あの人魚の時、地面にめり込んでいたからクァンは助けようと思ったのに、ランが放置を提案したとか。んで結局、後でクァンが見に行ったらいなくなってた、っていう」
掻い摘んで話す少年の表情は苦いモノであったが、これを言われた着流し男はそれ以上に苦い顔を浮かべていた。
「言うなよ。風の噂じゃ、どっかで保護されたって聞いたけど」
「でも、あいつ、
ますます少年の顔が歪めば、今度は困惑を浮べる男。
頬を掻きつつ、
「うん、まあ。いや、でも、緋鳥は三凶だし、羽渡も身体に持ち合わせているから、余程の命知らずじゃなきゃ食べようなんて思わない、はず」
「……本当に、嫌な街だな。そういう言葉がさらりと出てきやがる。しかも同じ住人相手に。……ところで、そのサンキョウってのは? ワタリってのも初めて聞いたな」
「あ、そっか」
小首を傾げる少年に金の目を丸くした男は頭を掻いた。
「えーっと、三凶ってのは、要するに、喧嘩を売っちゃいけない相手って意味だな。とりあえず、売ったら死ぬの前提になるから」
「……へぇ」
「この言葉自体は結構前からあるんだけど、今現在、三凶の地位にあるのは、緋鳥の他に史歩」
「ぃいっ!? ま、マジか? 俺、あいつに色々教えて貰ってんだけど?」
少年が思いっきり仰け反れば、男は慌てたように言葉を付け加える。
「いや、面倒見は良いんだけど、一度機嫌を損ねると厄介でさ。あいつ、手を払い除ける要領で人の首刎ねるんだよ。ちなみに、三凶って言ったら機嫌悪くなるから、史歩の前じゃ言わないように」
「……とんでもねぇ女だな。美人なのに」
「全くだ。美人なんだけどな……」
どちらともなく、惜しい人を亡くしたもんだ、とでも言うような、辛気臭いため息が吐かれた。
史歩、と呼ばれた少女をふっと思い浮かべ、すぐさま消えようとするその袴姿に、当人が聞いてたら間違いなく怒るだろうと想像する。あまりにも真実味を帯びて再現された想像は、袴姿の記憶はもうないのに、刃の冷たい記憶を首へと押し当てた。
それも霞の如く消え去れば、少年と男の会話が再開される。
「……ん? 三ってことは、もう一人いるんだろ?」
知人に殺人狂がいたと知らされた怖気を払うように少年が問う。
対し、男は複雑な表情を貧相な相貌に乗せた。
「いる……というより、いた、かな。人狼、なんだけど……前回の人魚騒ぎの時、腕を跳ね飛ばされてさ。今は療養中だけど、片腕失ったから、下克上狙いで色んな奴に襲撃されそうなんだよね」
「そうか……人魚関係ってことは、俺にも一因があるんだろうな」
思い耽り項垂れる少年に、男は失敗したと慌てて弁明を図る。
「いや、気にしなくていいと思うよ? あの人、三凶って呼ばれるようになってから、誰も自分のトコに来ないって嘆いてたからさ。根っからの喧嘩好きで性格悪いから、襲って来た奴全員、虐め抜いて殺すの愉しめるって、悦んでるくらいじゃないか?」
「……ありがとよ。全然、慰めにならねぇのがすごいな」
捲くし立てる男へ、少年が疲れた吐息を漏らす。
「え? あ、そう? うん、ありがとう」
「…………」
照れくさそうに礼を述べる男へ少年が向けるのは、言いたいことが山ほどあるような顔つき。
全て呑み込んだ沈黙が保たれれば、男は話を続けた。
「まあ、そんな訳で、三凶は今のトコ、ニ凶、って話で」
「緋鳥って奴が無事じゃなかったら、史歩だけってことになるよな」
「……そこを蒸し返すな。で、羽渡というのは、頭さえ無事なら身体を幾らでも再生できる種族のことだ。ある意味、とっても奇人街向きの奴らだな」
「奇人街向き?」
「ああ。身体を売るんだよ。比喩じゃなくて本当に、頭から下をこう、すぱんっと」
「げ」
少し伸び気味の男の爪が、自身の首を横に薙いだ。
少年から上がる短い呻き。
「でもさ、やっぱり痛いらしいんだ。しかも、もう一人誰かいないと売りに出せない。だから、羽渡って関係はどうあれ、ペアが基本なんだ。ある程度親しい奴じゃないと、そこまでしなきゃならなくなった場合、頭まで売られる可能性あるからさ」
「……なんつーか、聞くだけで胃の痛くなる話だな」
嫌気が差しているような少年の口調に、男は愛想笑い。
「まあ、そんな訳で、緋鳥は無事だと思う。それに緋鳥は――」
「御免くださいっす」
「お、いらっしゃい」
続けようとする男の話を遮り、赤い髪の少年は彼の後ろからやってきた、そばかすの浮いた三白眼の少年へ声をかけた。白髪の一房伸びた後ろを縛った、濃紺のスーツ服姿の少年は、客としての扱いを手の振りで違うと示し、彼らへ一礼。
こちらへ気づいては、ほっと息をついた。
「お久しぶりっす、綾音サン。ここんとこ、戸締り厳しくて、誰も綾音サン見てないから、ちょっと心配だったんすよ。……特に親分が煩くて」
「……ああ、そういえばシウォンの奴…………」
三白眼の少年が余所へ文句を零せば、着流しの男は憐れむ目で彼を見つめる。
これを取り除くように少年はため息をついた。
「失った部分は戻りませんが、腕の調子はもうイイんすよ。ただ、何度も脱走繰り返すし、女も呼ぶし、酒も煙も持ち込むから、とうとうモク先生がぶち切れちまって。あと一週間は絶対安静って、強制的にベッドに縛りつけられまして。まあ、それも今日までで、明日がいよいよ退院なんすけど」
「なるほど。それで敵情ならぬ……ってわけか。大変だな、お前も」
「ははははは……そうっすね。別の仕事なら喜んで引き受けるんすけど。でも、良かった。綾音サン、元気そうで。これでオレも安心して親分へご報告に――」
男と少年のやり取りを見ている内に、ようやく、三白眼の少年の名を思い出した。
ついでに、片腕を失ったという親分の名も思い出せば、
「泉嬢、ご飯だよ?」
「ワーズさん!」
視界を通った腕を知り、元を辿ると見つける、開かれた黒い胸。
かけられた声により、一切が彼方に吹き飛んでいった。
他の眼なぞ気にもせず、思いっきり首へ抱きつけば、ひょいと両足が彼の片腕に掬われる。
「えええっ!!? な、な、な、何が、どうなって!?」
「うわー……本当だ。こりゃ、まだかかりそうだな。……報告、頑張れよ、司楼」
「…………さて、俺も飯か……はあ」
外野が何かを喋っているが聞き取る耳はなく、ふらふら身体を運んでいく彼だけを一心に見つめる。
椅子に落ち着いたなら、彼が食べ始めるまで膝の上でじっと待つ。
「いただきます……はい、泉嬢?」
あーん、と運ばれるスプーンを口に含んでは、咀嚼。
呑み込み。
「美味しいかい?」
尋ねられ、コクンと頷いた。
それから続く食事風景には、ただただ彼のへらりとした白い面だけがあり――
これ以上の幸せを彼女は知らない。
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