第5話 八つ当たり

 夢を見ていた。

 それは、遠い日の夢。

 色づいた世界、華やぐ風は今よりもっと鮮やかに。

 けれど、そこで知ったのは、知らないままでいたかった、真実――……



 クン……と鳴らした鼻。

 嗅ぎ取ったのは、それまでいなかったはずの、よく知った匂い。

「……起きた?」

「……何故」

 私はここにいる?

 お前なんぞの処に。

 続かぬ言葉を引き継ぎ、相手が呆れたため息をついた。

「何故って。あんなところで倒れてたんだから、当たり前だろ?」

(あんなところ……ああ、そうか)

 意識が途絶える直前の記憶を辿り、行き着いたのは容赦のない力。知覚するよりも早く全身を圧し、留まらず地まで――地ごと潰された瞬間。

 とはいえ、恐怖に震える隙さえなかった過去に、今更怯えることもない。

 それも、この者の前ならば、なおさら。

「……また、拾われたわけか」

 抑揚のない声で言えば、相手から伸びる手を感じた。

 顔にかかった髪を除けるため。そう先読み、自分の手をその前に持っていく。

 素知らぬていで自分の髪を払えば、手を引っ込めた相手はため息をついた。

「簡単に言わないでくれ。身に羽渡ワタリが入っているからって、していい無茶じゃないぞ? 頭が無事なのが不思議なくらいだったんだから」

 案じにも似た言葉をかけられ、死にすら凪いでいた心が揺らぐ。

 ――憤怒に。

 だが、表に出すのも癪だ。

 代わりにせせら笑って鼻を鳴らした。

「ふん。そう易々と死んでたまるものか。我が種の成就は未だ果たされておらん」

「またそんなこと言って……相手が悪いって、まだ分かんないのか、お前は」

 油断していたわけでもないのに、ぺちりと額が弾かれた。

 ムッとして押さえたなら、仰々しいため息まで吐かれる。

「全く、彼らのどこがそんなに良いんだ? 種族も地位も申し分ないが、性格はどちらも難ありだろ? 片や男好きの中年、片や人間好きの人間外嫌い。そりゃ、お前は僕たちより、彼らに近しい距離に居るかも知れないが……傍から見てると、すっごい滑稽だぞ?」

「……それで? それがお前にどう影響を及ぼすと?」

「……そりゃ、影響はないだろうけど」

 尻すぼみになる相手の返答に、口の端をにぃ……と皮肉げに上げた。

「安心していいぞ? お前が所望する我が血肉、どうあっても最終的には届くのだから。約束は果たす。なればこそ、文句はあるまい? 私が誰を選ぼうが」

「……まあ、それはそうだけど」

 はっきりしない、愚痴るような話し方。

 苛々する鬱陶しさを感じ、身を包む柔らかな布を引っ張り、相手へ背を向けた。

「眠い。言いたいことがあるなら、後にして貰おう」

「あ、うん。分かったよ」

 背中の気配は素直にそう頷いたが、いつまで経っても去る素振りを見せない。

 呆れたため息はこっそり枕へ零し、

「心配せずとも逃げはせん。見張ってなくとも良いぞ?」

「……そういうつもりじゃ、ないんだけど」

 困惑に続く、頬を掻く音。

 椅子を引く音を立てて、相手は立ち上がる。

 それでも背を向けていれば、一度歩みかけた足が止まった。

 やっと一人になれる、とつきかけた息を呑み込む。

「君は……まだ、ツェン・ユイを覚えてる? 君が拾ったあの子ども。……いや、今はもう」

「何の話だ?」

 相手の語る名が理解できず、眉根が寄った。

 残ったのは、拾った子ども、という言葉。

 いつかの己に似た、笑えるほど小気味の良い音だった。

 いぶかしむ傍ら、口の端を持ち上げたなら、他方を向いた声で相手は言う。

「やっぱり、忘れてるんだ。……いいや、何でもない。じゃあ、治るまでゆっくりしていきなよ。お休み、緋鳥」

「…………」

 扉の開く音を背に聞く。

 躊躇う間を置き、閉まる音が重々しく響いた。

 本当は、とても軽い音だったのにも関わらず。

 震えて、しまった。

 見捨てられるような思いを不覚にも抱いて。

 八つ当たりで枕を投げかける緋鳥。

 しかし、その前に再び扉が開いたなら、枕を頭の下に置き直して寝たふりをする。

 生きた年月にそぐわない自分の行動を恥じ、傷つけられた自尊心のために、戻ってきた相手を詰る――が。

(……二匹、か)

 相手の思考では増えるはずのない人数を感じ取り、冷静さが取り戻される。

 嗅ぎ馴染みのない二人の男。

 この部屋の意味を知らない新人が迷い込んだか、あるいは――この部屋が誰に宛がわれているか、ソレがどんな状態か、知っていて、わざわざご丁寧に真正面から訪れた、侵入者か。

 答えは愚かしいほどに、あっさりと明かされる。

「はっ……いくらお気に入りったって、劣等種族の住まいなんざ、こんなもんだよな。見張りもいなけりゃ、鍵もかかってねぇ」

「ちょっ、もう少し静かにしろって。見た目ガキでも、三凶さんきょうだってのに」

「今更何言ってんだよ。大体、コレが運ばれて来た時、お前も見ただろ? 辛うじて身体の形が残ってるぐらいで、頭以外の中身はぐちゃぐちゃ。まあ、あれからいくらか経ってっから、羽渡入りなら回復してはいるだろうが……俺の見立てじゃ、まだ本調子じゃねぇよ。精々、人間の女程度だろ? よっと!」

 かけ声と共に、緋鳥を覆っていた柔らかな布が取り払われる。

 ゆっくり身を起こして顔を向ければ、にやついた気配が臆していた男からも纏わりついてきた。

 黒く長い前髪から、への字に曲げた唇。細い首を辿り、薄いシャツ下の薄い胸元。覗く腹を通り、ショーツ越しに尻をなぞり、細い足を撫でていく、無遠慮な視線。

 性別を語るには華奢な身体だが、生唾を呑む音と、舌舐めずりをする音が立つ。

「ほら見ろ。起きてたってのに、この通り、何もしてこねぇ。つまり、何もできねえってことだろ? 例えば、多少治りが遅くなるような目に遭っても」

「な、なるほど? へへ、じゃあ、早速試してみようぜ。こんな薄っぺらいガキで、骨の髄まで愉しめるって噂をよ」

 自分の優位を確信できたのか、臆していたはずの男が、終始驕る男より先に緋鳥へ近づき手を伸ばす。

「現金な奴だな。大丈夫って分かった途端にコレかよ。ああ、でも、ヤり過ぎて殺さねぇようにな。なんたってコイツは――っぶね!!?」

 注意を口にしながら、加わるべく、緋鳥が横たわるベッドへ足を乗せた男は、唐突に飛んできた塊を避けた。裂かれた頬。だが、その正体を追う真似はせず、前にいた男を払い除けると、何かを手にする緋鳥をベッドに組み敷いた。

 折る力に痺れた手から、楕円形の鉛の塊が落ちる。

「このガキ、自分の立場ってモンを、分か、ってぇ……な……あ……?」

 激昂した男は緋鳥へ腕を振りかぶるが、自由に動けたのはそこまで。

 倒れもせず留まる男を上にしたまま、取られた手を引き抜いた緋鳥は、もう一方の手で具合を確認した。

「ふむ。ヒビが入ったか。まあ、この程度、一刻もあれば戻る。――さて?」

 にやりと笑えば、死人に似た牙が覗く。

 引き抜いた手を男の手に戻し、硬直した太い指に指を絡ませた緋鳥は、驚きから混乱、恐れに移り変わる男の硬い首へ細い腕を回した。

「残念ながら、私は私の立場というものを知っている。お前たち雑魚には分からんだろうが。まあ、せっかくここまで来たんだ。褒美として特別に教えてやろう」

 鉛の投擲で裂けた傷口へ唇を寄せる。緋鳥の体内で生成された鉛は、触れるだけでも効果を発揮する毒を持つが、緋鳥自身には無害だ。

「私がこの部屋を宛がわれているのは、アレの傍では中枢に近すぎるから。見張りがないのは私が喰うから。鍵がないのは……退屈しのぎの玩具は、必要だろう?」

 丁寧に優しく教えてやったはずだが、教えれば教えるほど、男の息づかいが荒くなる。その分だけ優しく、柔らかく微笑む緋鳥は、絡ませた手を離し、ベッドの上で膝立ちすると、愛し子を抱くように男の頭を胸に招いた。

 顔は、床に仰向けで倒れるもう一人の男へ向けつつ、

「丁度、ムシャクシャしていたところだ。願い通り、骨の髄まで私を味わわせてやろう。じっくりと、丹念に、時間をかけて、死を乞うほどに、な」

 声にならない二つの音色を聞き、思わぬ八つ当たり先を得た緋鳥は、歪に嗤う。

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