第4話 恋腐魚

 赤く煤けたソファに深く腰掛けるのは、帯締めの黒い服を来た男。病的とは違う白い面に血色の口。黒いシルクハットから覗く髪は闇の深さを保ち、奥に控える瞳は混沌と表せる不安定な色を示す。右手には銃を持ち、爪には黒いマニキュア。

 それと気づけば、やや男性寄りの中性的な美貌の持ち主だと分かる彼の名は、ワーズ・メイク・ワーズ。人間以外が多い街で人間好きを豪語する、食材店・芥屋の店主である。

 この店主、通常は人間以外を無下に扱うのだが、

「で、どう? 泉嬢の具合」

 今回ばかりは、へらりとした笑みに珍しく縋る色を多分に載せ、人間ではないモクを頼っていた。

 ワーズ言うところの泉嬢とは、彼の膝の上に座り、胸へ頬を預ける少女・綾音泉のことである。

 モクは案じるワーズの問いには応えず、ソファ前の食卓の椅子の一つへ座り、泉の右手を取った。抵抗なく、だらりと垂れる藍染めの浴衣の袖が捲られると、包帯の巻かれた腕が現れる。

 モクはこれを解き、傷の具合を確認。

 後、新しい包帯を巻きつけ、

「……右腕はもう少し」

「じゃなくてさ。この子、まだ?」

 ワーズの重ねての問いかけに、泉の袖を戻しつつ、モクは煙管の先を彼女へと向けた。ぷかりと浮かぶ煙は、人間に対して喫煙者の意思を反映させる効果があるのだが、モクには望むことがないらしく、ぼんやりとした泉の眼差しに変化は見られない。

「んー……泉、私の患者。……店主の奥さん」

「おい」

 モクの呼びかけに対し、過剰に反応したのはワーズ。

 口元は笑みを浮かべた状態で、不愉快そうに眉を顰める。

「ちょっと待った。泉嬢はボクの伴侶でもなんでもないよ。そういう風に彼女の意思を無視する話は――」

「わぁずさん……わたし、要りませんか? いない方が、イイですか?」

 抗議するワーズへ、今までピクリとも動かなかった泉が、潤んだ瞳を上げて訴えかける。

「わたし……わたし…………わぁずさんにいらないって言われたら……」

 一拍間を置き、

「…………死のう」

「い、泉嬢っ!」

 ぽつり、不吉を語っては、離れようとする肩をワーズは慌てて留めた。

「待って、待った、待つんだ。い、要るよ。君は要るから」

「…………本当?」

 恨むような上目遣いが、引き攣る店主の混沌を射た。

 これを見たのが竹平だったら、白目の多さと垂れる長い褐色のクセ毛に恐れ慄きそうだが、相手はそうそう物事に動じないワーズ。

 それでも恐々肩から左手を移動させ、泉の頬をぎくしゃく撫でた。

「うん、本当。だから、じっとしててね?」

「……はい」

 するとふんわり笑んだ泉、再びワーズの胸へ頬を寄せては、彼の言葉通り、じっと動かず待つ素振り。

「ふぅん? ずいぶんと重症みたいだねぇ?」

「……なんだ、クァン・シウ。いたのか?」

 店先からの声を見もせず、店主は面倒臭そうに言う。

「こっちは立て込んでるんだ。お前なんかに構ってる暇はないんだから、さっさと去ね」

「うっさいねぇ。アタシャ、アンタじゃなくて、泉に用があってきたんだよ」

「……くぁんさん?」

 呼ばれた自分の名に、くてんとワーズへ頭を寄せつつ、後ろを振り返る泉。

「はぁい、泉」

 合った目にクァンがそう、手を振れば、

「まだいたんですか? わぁずさんが帰れって言ってくれたのに」

「ぐ……本当に、重症だよ」

 心底不思議だという顔つきの泉に対し、クァンが苦い顔をする。

 そんなやり取りを全く視野に入れぬモクは、クァンを怪訝に見つめる泉を呼ぶ。

「泉・綾音、こっち向いて」

 併せて頬へ触れたなら、泉の顔に困惑が浮かび、伺うようにワーズを見つめた。

 白い面がへらりと頷けば、にっこり笑ってモクの言う通り彼の方を向く泉。包帯の指の腹で頬を撫でられても、ぼんやり、モクではない遠くを見るこげ茶の瞳。

「……頬の傷も治ってるね」

「じゃないだろ」

 ぽつりとした囁きに、ワーズが呆れた声を上げてもモクは気にせず、するりと包帯の手を泉の首へ持っていった。片手で顎を上に向け、もう一方で着物の首元をずらす。

 露わになる白い頸。

 そこへ埋めるようにモクの顔が寄せられ、

「……なんか、ヤバい図じゃねぇか、コレ」

「そうかい? まあ、見ようによっちゃ、男二人に弄られる直前って感じだけど」

「……ストレートに表現すんなよ」

 竹平とクァン、二人の外野による茶々も取り合わず、モクは煙を口の端らしき辺りから吐き出した。

「うん。赤い痣も無くなったね」

「……この藪。そうじゃないって言ってるだろ?」

 マイペースを貫き通すモクの姿勢に、さしものワーズも声に苛立ちが滲む。――顔全体は変わらぬ笑みを貼り付けているため、感情を正しく伝えるのは難しいが。

 けれど、モクはやはり気にする素振りを見せず、再び泉の頬を捉えては、口付けするように顔を近づけた。

 吐息が掛かる距離でぴたりと止まり、

恋腐魚リゥフゥニ……摂取の仕方によって効果を変える、奇人街の三大珍味の一つ。柚姻ユインと同じ、媚薬の位置に列せられるが、的確な表現は惚れ薬。恋する相手を見つけた人魚の肉を、海中にいる内に採取。保存する際に必要なのは、その人魚が在った海の水。保存期限は採取からニ、三日。摂取には三パターンあり、一つは自力で食す方、もう一つは誰かから与えられて食す方、最後の一つは口移しで食す方。正式な食べ方は口移しとされている。効果も口移しが一番強く、これは、人魚が視線を交わすことにより、相手の心を掌握する術を持つ点が関与していると考えられる。昔は体液が関連していると思われたが、過去の実験結果から、皆無との判断が下された」

「……実験って、何の実験だよ」

 淡々とした説明を泉の眼前で披露するモクへ、竹平が呆れた声を上げた。

 構わず、説明は続けられる。

「具体的な効果は、与えた相手への恋慕に似た身体機能の変化と、食物摂取の際に感じられる味覚の変化。精神面で表すならば、絶対的支配者への隷属、もしくは洗脳。効果が切れても、その間の記憶は鮮明に残っており、場合によっては、恋腐魚不使用でも同じ症状が継続される。効果の持続期間は、その人魚がどれほど相手に恋焦がれ、放置されたかに左右される。しかし、これは正式によるモノであり、自力摂取で効果は皆無、与えられた場合であっても、その効果は長くて十日程度――のはずだけど、私が君を診てから十日以上は経過してるし」

 ここでモクは首を大きく傾げてワーズへ問う。

「正式な食べ方はさせてないんだよね?」

「させてない。させるわけないだろ? 大体ボクは、少しの間だけ泉嬢に芥屋でじっとして貰おうと思ったんだ。なのに、ずーっとこのまんま」

「んー……じゃあ、問題があるのは泉・綾音の方かな?」

「……どういう意味だ?」

 ワーズの眉間に皺が寄った。

 迷惑顔のワーズから目を逸らしたモクは、包帯越しに顎を撫で、衣擦れの音を立てながら泉を見やる。

「たぶん、相性が良かったんだ。食した恋腐魚と泉・綾音の。誰に向けられた想いかは知らないけど、泉・綾音にも焦がれる想いとやらがあるんだと思う。……ねえ、泉・綾音?」

 名に疑問符が付いても泉の瞳は何も映さなかったが、

「店主のこと、好き?」

「はいっ、もちろんですっ!」

「…………」

 尋ねられた途端、焦点の合っていなかったこげ茶の眼が力強く輝き、笑み綻ぶ。

 当のワーズは、常時携えた笑みを消し去り、口をへの字にひん曲げた。

「何のつもりで、そんな質問を」

「じゃあ、私のことは?」

「……あいじん?」

 ワーズを綺麗さっぱり無視したモクが、どさくさに紛れて尋ねれば、泉の指がモクを差した。その指へ、同じ形を真似た指が当てられた。

「うん。そう。店主が君に聞けって言って、君は好きにして良いって言ったから、私は君の愛人。だから私は愛しの君に告げておく」

「?」

「君のためにも思いっきり、店主を愛して?」

「! ちょ、ちょっと待て、この藪――」

 モクの言葉に珍しく慌てたていのワーズ。

 身を乗り出し――かけ。

「思いっきり……えいっ」

「どぁ!? 泉じょっぃだ!!?」

 泉を抱えたまま重心をずらしたところを狙われ、押し倒されたワーズは肘かけへ思いっきり頭をぶつけた。いつぞやはここで意識を失ったワーズだが、今回は眠気も何もないため、起き上がろうと身体を動かす。

 ――が。

「あのね、店主。早くその状態から抜けさせたいなら、泉・綾音の気が済むまで、その想いを汲んでやるのが一番なんだよ。幸い、君は人間相手に、私の患者、シウォン・フーリみたいな無体を働かないでしょ? だから」

 ソファで自分より上背も体重もない少女に組み敷かれた男を余所とし、帰り支度をする医者。

「い、泉嬢! 早まったら駄目だよ!? くっ、藪医者! なんてことを!」

 ワーズが殊更珍しい悲鳴にも似た抗議を上げても、医者に関心は在らず。

「……忘れて貰っちゃ困るけど」

 展開される痴態を隠すように、竹平とクァンの前を行くモクは、咥えていた煙管を放すと、煙と共に吐き出した。

「君が人間を贔屓するように、私も私の患者を贔屓するんだよ。それがどんな状態の望みであろうとも、ね。優先されるべきは患者の身体、そして意思」

「ま、待――――」

 追いかける声をガラス戸でぴしゃりと遮ったモク。

 不満そうなクァンや気まずそうな竹平が、何やら文句を言おうとするのを感じ、煙管を咥え直しつつ言った。

「現在、居間で治療中。ゴタゴタが終わるまで面会謝絶。覗きは厳禁。やったら――強制的に私の患者になって貰うから」


 その日、芥屋へ訪れた客は、居座るモクと彼に怯えてクァンを引き止める竹平、店との板ばさみに喘ぐクァンという、珍妙な三人組を目撃することとなる。

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