第8話 認識の差

 大丈夫と彼は言った。

 大丈夫。地上にさえ着けば――


 猫がなんとかしてくれる。


 しかし、彼女は怖いと思ってしまった。

 彼女を助けてくれる存在に対して。

 その、己を理解する行動が。

 彼女を喰らうと明言した人狼よりも。


 怖かった。


 猫に汲まれる、自身の意識に戦慄を覚える。

 いつもいつも、助けてくれるから。

 いつか、手放される時が怖い。

 その身の欠片を持って、人狼を撥ね退ける力を与えてくれた存在であっても。

 否、だからこそ、思う。

 これを餞別としていつの日か、別れる時が来るのだと。

 己のことは己で出来るようにと、全て教えてくれたあの人のように。


 ずっと会えない日が、いつか、来てしまう。


 嫌なのは、別れの時ではない。

 本当に嫌なのは、いないと知っていて、解かっていて。

 縋りつき、留まろうとする、その時。

 だから――



 静かに見つめる金の双眸から、泉は視線を逸らした。かといって、手を伸ばしたまま動かない、不自然な格好のシウォンを見ることもない。

 夜風の冷たさを浴びながら、街灯に照らされた青白い地面を視界に入れる。

「泉……」

 小さく呼ばわる声には、ビクッと身体を震わせ、身を抱く腕に力を込めた。

 傾ぐようにまた一歩下がったなら、焦燥に駆られた低い声が言った。

「怒ったのか? 俺がからかうような真似をしたから……。違うんだ、泉。俺はお前を、そういう風に思ってなどいない。俺は、ただお前を――」

「違います」

 泉は誰とも目も合わせぬまま、静かな声を被せた。

 誰の声を聞くのも拒んで両耳に手を押し当て、地を睨みつける。

「違うんです。今のは……シウォンさんのせいじゃない。私の――私だけの問題なんです。だから……気に、しないでください。留めないで。気に留めて貰えるような人間じゃないから。私の、存在だけ、そこに在ると認めてくだされば。……嬉しいんです、それだけで。それだけで良いからっ」

 顔を上げ、物言いたげなシウォン、その背後の猫を見つめた泉は、表情を失くしたまま、乾いた瞳で続ける。

「もう誰も私に――」


「はい、ストップ」


 告げる前に届いた制止。

 銃を携えた病的ではない白い手が、泉の目を閉ざす。

 引き寄せられてよろければ、ひんやりした熱が背後に被さった。

 耳に当てていた手を覆い隠す手に重ねれば、同時に語ろうとしていた口がもう片方の手に阻まれる。

「ちょっと、黙っててね?」

 へらりとしつつも有無を言わさぬ口調が、熱の籠もった耳に当てられると、急速に泉の身体から力が抜けていく。体重を預ける形になっても、ふらふらした動きが常の身体は、これをしっかりと支えた。

「全く……どうもシウォンは、君を無意識に逆撫でしちゃうきらいがあるねぇ」

 冗談めいた「よしよし」とあやす言葉をかけられ、泉から安堵の息が零れた。

「なっ!? ワーズ、てめぇにそんなことを言われる筋合いは……いや、それよりも何故この場所が?」

 対し、シウォンの声は忌々しくも悲愴に満ちた音を奏でる。

 これへ、泉ごと背後が傾いで答えた。

「んー? 何故って当たり前でしょ? ボクは芥屋の店主で、猫は芥屋の猫なんだから。芥屋の意思は、この子が食べた猫の欠片より、ずっと強く深く、ボクたちを繋いでいるんだ」

「……ガウ」

「だから、猫が誰とドコで接触しているって、ボクには筒抜けなんだよ」

 クツクツ愉快そうに笑う男と嫌そうな声で同意を示す猫。シウォンから「猫の欠片……泉のあの力はそういう意味か」という納得が漏れるのを聞きながら、背後のワーズに合わせて揺れるだけだった泉は、はたと気づいた。

 緩められた手の内で、小さく呟く。

「……じゃあ、もしかしてあの時」

「ん?」

 黙っている時間が終わったのか、離された手により取り戻された光の下、ワーズに向き直った泉は、黒と白のぼやけた輪郭を睨みつけた。

 その目に、先程までの乾きはない。

「あの時……シイちゃんが幽鬼に追いかけられていた時、本当はワーズさん、猫の居る場所、知っていたってことですか?」

 泉が問うたのは初めて幽鬼と遭遇した際、自身を助けてくれた子どもを助けるため、猫に助力を請おうとした時のこと。はぐれてしまっていたがために、猫を求めて右往左往する泉へ、この店主は芥屋へ帰ることだけを強要してきたのだ。当時は繋がりという、個体同士の意思の疎通が可能となる現象を知らなかったため、ワーズへは無茶を頼んだ罪悪感ばかりが起こったものだが。

 それもこれも、猫の居場所をワーズは知らない、という前提の話である。

 知っていたと知らされたなら、何故あの時言ってくれなかったのだ、という思いだけが積み重なる。

 徐々に吊り上っていく視界の中で、へらりと笑う黒い肩が竦められた。

「んー、君って意外に執念深いねぇ。ま、いいじゃない。過ぎたことで終わったことなんだし」

 悪びれもせず告げられた真実。絶句した泉は、ワーズのあっけらかんとした言い草に、口をぱくぱく開閉するばかり。

 しかし、それも長くは続かず。

「あ、泉さん。良かった、無事だったんですね?」

「……ランさん」

 自分の名を呼ぶ声に過剰な反応を示した泉は、凶悪な獣面を見て一歩下がった。

 これを知って立ち止まったランは、突然視界に入れた自分の容姿に怯えられたと思ったのか、少しだけ傷ついた表情を浮かべ、鼻先を気まずそうに掻いた。

 酷い反応をしてしまった。そう思う泉だったが、謝罪も違うとも告げられずに目を逸らし、

「泉……」

「っ」

 下がった分だけ近くなったシウォンの声を聞いては、そちらを振り返って、また下がる。ランの比ではない、嘆き求める緑の双眸と交わし、喉に悲鳴が上がりかけた。

 名を呼ばれるのは、己の存在がちゃんと在ると知れて嬉しい。

 反面。

 名を呼ばれるのは、己を求められているようで恐ろしい。

 認識なら、群衆を形成する一個体だけで十分。

 行き交う、通り過ぎるだけの他人で。

 ただその人とて、その人の考えがあるのだと、思ってくれたなら。

 それ以上はいらない、望まない、期待もしない、したくない。

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