第7話 一方通行

 綾音泉という少女は基本的に、会話が成立する相手への警戒心が薄い。

 このため、散々注意するよう言われてきた相手が、目の前で自分を熱心に見つめていようとも我関せず、

「近くに虎狼公社の方がいて良かったです。お水だけじゃなくて布まで貰えました」

「……ああ」

 にこにこ無防備に笑う頬へ乳白色の爪が伸ばされても、不審に思いもしない。

 ピチャリ、桶の中に水音を落とし、絞ったタオルを緩める。先に少しだけ水を付けては汚れへと宛がった。

 現在、泉たちがいるのは、街の喧騒から少し離れた水路の近く。

 壁に寄せられた木箱へ、丁度良いからとシウォンを座らせた泉は、自らの恥を文字通り自分で拭おうと、着物を緩く羽織る青黒い上半身に向き合っていた。

 背を壁にくっつけ、両足を外へ開いたシウォンへ寄り添うように。

 空いている手を艶やかな毛並みに埋め、汚れだけを見つめる泉は、毛の流れを崩さぬよう、注意を払って布を動かす。

「うわ……結構ぱりぱり…………は、恥ずかしいなぁ」

 今の彼女の頭にあるのは、シウォンというより動物に付けてしまった汚れを取る感覚だった。声に出した羞恥とて自身の所業に対するものであり、こんなモノを相手に付けてしまった後悔は、思いの外、薄い。

 目に見える汚れが薄まったところで、拭き取りに使っていない部分に手酌で水を染みこませ、再び宛がう。これを数度繰り返し、完全に汚れが取れたと判断したなら、桶の中に布を放って、手持ちのハンカチで水気を拭き取った。

 最後に手櫛で毛並みを整えつつ、ハンカチを仕舞う。

(凄い……なんて良い触り心地なの)

「一体、どんなブリーダーが……あ」

 つい呟き、そこでようやく思い出した、今の状況。

 奇人街の喧騒を耳にしつつも、視界に入れていたのは艶めく毛並みだけ。触感さえ、手入れの行き届いた動物の地肌に等しかった。泉の脳内ではすっかり、大型犬を相手にしている図が完成していたため、今更ながらにシウォンを意識しては、撫でる手を止めて固まってしまう。

 次いで、シウォンの隻腕が、いつの間にやら腰に回されていると気づく。

(ぜ、絶体絶命……?)

 あまりに無防備だった己を呪いがてら、汚れを拭っている最中、一言も発さなかったシウォンへ、勝手な非難を胸内でぶつけてみた。

 どうして、何も喋ってくれなかったんですか?

 そのせいで、すっかり勘違いしてしまったじゃないですか。

 ――――犬と。

「……うっ。言えない。特に最後は絶対、言っちゃ駄目」

 シウォンの胸に埋めた手を見つめながら、泉は小さく首を振った。

 と、そんな泉を宥めるように、腰へ回された腕が、彼女の身体をシウォンへと押しつけた。隻腕の肘を腰に宛がい、泉の右肩を乳白色の爪でそっと抱きながら、

「何が、言えない? 俺のことなんだろう? 聞かせておくれ、泉……」

 うっとり半分、ねっとり半分。

 ぞくりと悪寒めいた肌の粟立ちを感じさせる不可思議な低音が、背筋を伸ばした泉の耳の下を撫でつけた。

 これに震えで反応した泉は、恐る恐る、強張った顔をシウォンへと向け、

「ひゃぅんっ!?」

 途端、首筋から頬にかけてをぺろりと舐められては、眦に涙を溜めた泉、潤んだ瞳でシウォンを見た。長い舌を仕舞った彼は喉を鳴らし、泉以上に濡れ澱んだ双眸で、座った目線より少し上にいる彼女を見つめ返す。

「ふ……ククククククク。ああ、イイ気分だ、泉。お前をこの腕に抱き、お前から触れられ、声を聞き、瞳に見つめられ、そして味わえる。夢でさえ叶わなかったことが今、現実に」

(味って!?)

 静かに近づくシウォンの鼻先。

 独白の中の単語に慄いた泉は、ぎゅっと目を瞑り、上擦る声で言った。

「ひぃいっ! 食べられる、殺される、死んじゃう!! わ、私なんて美味しくないです、シウォンさんのお口には合いません!!!」

「…………は?」

 ぴぃぴぃ喚く内容に、若干耳を伏せたシウォンが困惑を浮べても、視界を閉ざした泉は知る由もなく。

「きっとお腹壊しちゃいますよ!? いえ、絶対壊れます! いいえ、壊します!! 私、基本的に幽霊とか信じていませんけど、食べられたら絶対祟って――」

「……何を言っているんだ、泉?」

「やぇ? な、何って…………だってシウォンさん、私のこと、食べるつもりなんでしょう?」

 口づけるに似た位置で、黒く濡れた鼻を擽る呼気が問う。

 震えるこげ茶の瞳は、けれど、逃げを忘れてシウォンに寄り添うたまま。早い鼓動を聞く手の平はあっても、極度の緊張状態に陥った泉は感知できず、知らぬ内に艶やかな毛並みを微かに撫でており――。

「っ」

 ふいにシウォンの鼻先が逸れた。

 行動の意味を量りかね、伺うように泉が首を傾げたなら、人狼なればこそ、より一層鮮やかな緑の眼光がちらりと彼女を捉えた。

「お前は…………誘っているのか?」

「へ?」

 責める言い草に、何の話だろうかと丸くなる泉の目。

 向き直ったシウォンは、柔らかな笑みを瞳に携えて言った。

「望むところだ。喰ってやるさ、泉。余すことなく、お前のすべ」

「ぃ、嫌っ」

 否定して欲しいところを肯定され、自分の身体とシウォンとに挟まれた両手を忘れた泉は、大きく振りかぶった頭をシウォンの鼻面に叩きつけた。

 が、相手は人狼である。

「だっ!!?」

「でっ」

 人間にない丈夫さの煽りを喰らい、打ちつけた分だけ己に返ってくる鈍痛。これを抱えた泉は、シウォンの肩に頭を預けて低く呻いた。

 唐突な攻撃を受けたシウォンも、語りの最中であったためか、軽く舌を噛んでしまったらしい。泉の身体はしっかり内に留めつつも、顔を横に背けては舌を出し、痛みを逃がしていた。

 それぞれの痛みが過ぎるまで数秒。

 先に引いたのはシウォンの方だが、顔つきは増して傷つき、ともすれば憤怒とも取れる程、歯を剥き出していた。

「嫌……か? ここまで来て、ここまで傍にいて。何故、お前はそこまで俺を拒む? 好きと言ってくれたあの言葉は、嘘、だったのか?」

「くぅううううう…………………………は、はい? 好き?」

 響く痛みに顔を顰めつ、シウォンを見やった泉は、至近の牙に上がりかけた悲鳴を呑み込み、

「好きって……ああ。はい、好きですよ、知人として。私のこと、食べ物扱いしないでくださったら」

 半ば自棄気味に言葉を投げつければ、今度はシウォンの方が、何かを丸呑みにした顔つきとなった。

「ち、知人……!? いや、それ以前に、食べるってのはそっちか? 確かに…………お前の血肉はそそるものがあるな。なるほど? そっちの喰うでもありか」

「ひっ!?」

 じたばたじたばた。

 急に、にたりと恐ろしい笑みを浮かべたシウォンに対し、一気に青褪めた泉は手足をばたつかせて逃走を試みた。

 しかし、いかに隻腕と言えども人狼の男、それも大勢の群れを今なお率いる狼首相手に、人間の小娘が敵うはずもない。耳朶に生唾を呑む音が届けば、恐怖に歯の根が合わなくなり、がちがちと異様な響きが口内に伝わる。

 最中、シウォンを見た泉は、その目の中にからかう光を認め、ぐっと奥歯を噛み締めた。

 まるで、怯える様子を愉しんでいる風体。

 このままでは悦ばせるだけだと察した泉、どうせ逃げられないのなら、と動きの一切を取り止めて、笑う緑の瞳を睨みつけた。

 自身でも怖いとは思えない表情を実感しつつ、忌々しげにシウォンへ吐き捨てる。

「そ、そんなに私を怯えさせて愉しいですか!? 馬鹿にして……無視して!」

 上擦る声の覇気のなさを補うように、ぐっと握り締めた左の拳。

 対するシウォンは肩を竦ませ、ため息混じりの苦笑で泉に応じた。

 抗議などしても、無駄。

 聞く耳もないと暗に示されて。

 生じるのは、途方もない無力感。

 ネエ、私ハココニ居ナイノ?

 貴方ノ――貴方ガタノ中ニ私ハ……?

「ぐっ……こ、のぉ!」

 瞬間的に熱くなる頭。

 反し、冷え切った身体が強くシウォンを押した。

「なっ!?」

 本来、小娘の細腕で屈強な人狼を突き飛ばせるはずはないのだが、腕を突き出した泉はシウォンの腕からあっさりと逃れた。思いも寄らぬ腕力に驚くシウォンだが、頭に血が昇ったままの泉には気づく由もない。

 はっとして、追い伸ばされるシウォンの腕。

 泉はこれを左手で鋭く撥ね退けた。

 驚愕から更に見開かれるシウォンの目を睨みつけ、腹に力を込めて言った。

「触らないで! 私の自由を奪うというのなら最初から、見ないで聞かないで認めないで! 話しかけないでよ、言われなくたって私はっ!」

「い、ずみ? どう、したんだ、お前……?」

 不安定な言葉の積み重ねに再度、シウォンの手が伸ばされるが、これを嫌う泉は後退り己の身を抱いた。

 眼前の人狼ではない、別のモノを瞳に映しながら。

「……お願い、します。何も望まない、何もいらない、今更、期待なんてしない。だからこれ以上、私に……っ」

 ――関ワラナイデ。

 言葉にできなかった独白が喉に詰まる。

 顔を覆えば、茫然としたシウォンが一歩、泉へと歩み寄る。

 乳白色の爪が、視界を塞いだ泉の頬へ伸ばされたなら、

「くっ…………この、感覚は」

 切羽詰ったシウォンの声を頭に聞き、泉はゆるゆると顔を上げた。

 触れるか触れないかの位置にある止まったままの爪に、攻撃の意思を感じずとも怯えて一つ下がる。

 と。

「……猫?」

 シウォンの背後に虎サイズの影の獣を見つけ、その名を呟いた。

 応えるように細まる金の眼。

 動かないシウォンを鑑みるに、猫が何かをして彼を止めてくれたのだと察した。

 しかし。

「っ」

 それにすら恐れをなした泉は、また一歩、彼らから距離を置く。

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