第6話 追う者

 塗り潰された夜空の下、目移りするような煌びやかさに色めく街並み。その中で、自らを埋没させて佇む少年の、白目を黒とした金の瞳が、ともすれば目こぼししそうな存在を捉えた。何ともなしに動きを追う。

(この時間にあの姿は……人間? 伴もなしに?)

 昼間であれば人狼と見まがう種族だが、夜の奇人街を単身で歩けるほどの力は持ち合わせていない。例外はいるにはいるが所詮例外であり、世情に疎い少年の耳にも届く、彼の剣士の特徴は視界の中の少女とはかけ離れていた。

 とはいえ、服装は街に馴染んでおり、足取りにもおかしな点はないため、特別目を引くこともないだろう。彼とて周囲を警戒しているからこそ、目を止めたに過ぎないのだから。

(もしかして芥屋の従業員かな。ということは、店主が近くに……ん? 従業員? それも女の子……ということは、まさかあの子が噂の――っ!?)

 気づきに見開いた眼が、突然の異変で更に大きく広がった。

 少女の姿が路地裏の前を通りかかった瞬間、そこへ吸い込まれるようにして消えたのだ。いや、消えたように見えただけで、視力に優れた同族の中でも格別に目が良い彼には見えていた。

 路地裏から伸びた手が彼女の腕を掴み、そのまま引きずり込んだ――と。

「な、なんだ、今の……」

 見間違いでなければ、彼女を連れ去った腕の持ち主は……。

「……いやでも、奴らがコソコソ動く謂れなんか」

 惚けた声を上げつつ、少女が消えた路地裏を目指す。

 別に物見遊山のために向かうわけではない。目撃しなかったらこんな行動はしないだろうに、目撃した以上は気がかりで仕方がないのだ。これはもう生まれ持った性分であった。

 弱肉強食の奇人街において、笑ってしまうほど弱い自分と知っていても、何か彼女の助けになれないかと考えてしまう。例えば相手が、粗野だけが取り柄のような人物ではなく、もう少しまともな、少しくらい考える脳みそを持っているなら。

 貧弱な彼でも、どうにかできる方法が一つだけある。

 あまり褒められた方法ではないし、情けないことこの上ない方法ではあるが。

(……アイツに知られたら、また馬鹿にされるんだろうな)

 向かう途中で思い浮かべたのは、目深帽を被った同い年の少女。

 ――うつけめ。

 吐き捨てるような幻の罵声に、知らず口許が苦笑を象っていた。

 要は知られなければ良いだけのこと。

 しかし、きっと彼女はどこからか聞きつけ、わざわざ彼の前に現れては御丁寧に詰っていくだろう。

 弱いくせに、と。

 否定はしない。

 真実、彼は弱い。

 身体も、心も。

 弱くて、未熟。

(それでも)

 無情な現実を振り切るように足を踏み出した、矢先。

 続けて思い出された彼女の言葉により動きの全てが止まった。

 ――籠の鳥は大人しく籠の中におれば良い。

「……そうだ。すっかり忘れていたけれど」

 呟き、少女が引きずり込まれた路地裏とは別の、入ってすぐ壁が見える路地裏に身を潜めた。

 おもむろに空を見上げる。

 人間の少女に気を取られてしまったが、彼は今、追われている身であった。一応、置手紙はしたものの、あれで納得するとは到底思えない。現に街へ降りてからというもの、同族に会う度、指を差されては制止を叫ばれていた。

 思った以上に知られている己の顔へ、少年は小さく歯噛みする。

 少女が路地裏に連れ込まれてからの時間を考えると、正直、助けに入ったところで彼女の心身が無事とは思えない。その場でどうこう、ということになっていなければ、まだ無事と言えるかも知れないが、そうなると残る可能性で一番有力なのは、どこかへの連れ去り。無事どころか、彼では助けることすらできないだろう。あの腕の持ち主は、彼程度が追いつける種族ではないのだから。

 こうして考えている内に向かえば良い、と誰かに言われそうな状況だが、少年は空を意識した途端、少女を助けるという考えを捨てていた。

 彼には彼女を救う手立てはないと検討がついてしまったがために。

 なればこそ、少年が物陰で描くことは、少女の不運な最期。

 追っ手がおらずとも自分では少女を助けられなかった、という慰めが欲しかった。

 卑屈なまでの――。

 気づいてしまった後では、そうすることしかできない。

 彼が少女を助けられる方法は、この状況下、確実に彼女を殺してしまう。

 彼を追う相手は彼を見つけたと同時に、周囲の関係のない者たちを殺す。

 空がある限り。

 少年は経験で知っていた。

 過去、置手紙の相手から自分本位に離れ、振り返って悪戯な笑いを投げかけたことがある。その瞬間、周りは全て血の海と肉塊の山に成り果て、降り注いだ槍の中央で、彼は茫然と立ち尽くすしかなかった。優しく諭す腕に抱き締められても、案じる声が聞こえても、運ばれていく身を知っても、無力感だけが押し寄せて……。

 お陰で、諦める術だけが身についてしまった。

 動いたところでお前にできることは何もないと、動いた分だけ他に迷惑だと。

 実際、目にし。

 お前は何もするなと、お前の手足となれる者は山ほどいるが、お前の代わりになれる者など誰もいないのだと。

 聞かされ、続け。

 以前に一人だけ、無力な自分でも救えたと思った子どもがいたけれど、それすら、その時以上の深い傷を負わせてしまっている。今もあの子が抱える傷を知りながら、どうすれば癒せるのか、少年には分からないまま。

 本当に無力だと、己を卑下することしかできないでいる。

「……ごめん」

 空虚な謝罪を口にする。

 一番低い可能性だが、連れ去ったのが彼女の知り合いなら良いと思う。

 この謝罪が本当に意味を為さなければ良いと。

 少年の周囲の者がこれを聞けば、皆一様に奇異な視線を彼へ向けるだろう。

 奇人街は弱肉強食が基本。何故、貴方が悔やまねばならぬのでしょうか?

 心底、不思議だと言わんばかりに。

 それでも彼は謝罪を口にし、切り替えて、元々向かう予定であった人混みへ、小柄な身体を潜り込ませる。

 何も知らぬ周囲に危険が及ぶと知りながら、彼が歩みを進める理由は、

「あの人の所に辿り着くまでは、絶対、捕まるわけにはいかないんだ」

 呟けども未だ彼しか知り得ず。


* * *


 引き摺り込まれた路地裏奥で、泉は相手の顔を確認する前に鼻を潰された。

「ぶべっ」

 年頃の娘が上げるにしては色気もへったくれもない声が、押し付けられた何かに埋まり、くぐもった音となる。

 強く打ったせいでツンとする鼻の奥に、くしゃみが喚起された。

 これは危険だと埋もれた場所から離れるべく動く。

 が、頭と背を押さえつけられてはもがくしかない。

 しかも鼻を擽る毛の感触に、どう足掻いてもむず痒くなるだけ。

 かくして鼻の主張は受け入れられ、泉は固定された身体の下、「ふ、ふ、ふ」と妙な声を上げる。そんな泉の様子に気づく様子もない、引き摺り込んだ相手は、陶酔を含んだため息を混じらせて頭上で問う。

「泉……どこへ行こうと」

「ふぇっくしゅっ!!――あぅ、し、シウォンしゃん……?」

「…………………………相変わらず、イイ根性してやがる」

 くしゃみの着地点が振り切ったはずの人狼と知ったなら、反動で顔を上げた泉の目がぱちくりと瞬いた。

 煙管を吐き捨てたため、人狼姿に戻ったシウォンの胸板。艶めく青黒い毛並みに、点々と浮く不恰好な汚れはそのまま、泉の目線まで屈んだ彼は、黒い服のどこぞから取り出した布を彼女に宛がった。

「ほれ。これで鼻をかめ」

「……ぁい」

 乳白色の爪に鼻を抓まれ、逃げられない状況から泉は仕方なく鼻をかんだ。

 ワーズにも以前、同じことをされた憶えはあったが、あの時のような恥ずかしさは不思議とあまり感じない。

 何故だろうと考えた泉。

 ぱっと出た答えは、鼻の下を綺麗に拭くシウォンへ。

「シウォンさんて、世話好きのお父さんみたいですね」

「っ!……よ、よりにもよって…………」

 昼の姿が美丈夫であろうとも間違いなく年上と分かる言動のせいか、面倒見の良い父親像を見た泉に対し、当のシウォンはうなだれてしまった。

 泉個人としては褒めたつもりだったため、想定外の反応に目を丸くする。

(世話好きって禁句だったのかしら?)

 尻尾云々で人狼の習性に疑り深くなった頭に、”お父さんみたい”がうなだれる原因という考えはない。肌触りの良い布を当てて拭くシウォンに首を傾げたなら、吹き終わった人狼の目が泉の鼻より下へ降りていく。

「……小娘」

「はい?」

 綺麗になった鼻の下に触れた泉は、シウォンがじーっと見つめる先を知って身を小さくした。脱げば破れた先に下着がすぐ見える、応急処置としてワーズに縫って貰った胸元。指摘されなければ気づかない縫い目なのだが、シウォンは目ざとく見つけてしまったらしい。

(シウォンさんて、小姑タイプ……?)

 じりっと僅かに後退した泉。それとなく、身を縮めるようにして胸を隠す。

 これを咎めるように、じろりと睨みつける緑の双眸。

 ひっと喉が引き攣れば、剣呑な声が問う。

「どいつだ? この、面白味の欠片もねぇ縫い目はワーズに違いないが……破れた形状は人狼の爪によるモノだろう。……誰がやりやがった?」

 なんて的確な見解。

 ゆえに、うっかりでもランの名を挙げられない泉は、空気を丸ごと呑み込んだような沈黙を保つ。転じ、シウォンは目を細め、鋭さを欠く口調で続けた。

「しかも――この芳香。裂かれたのは上着だけじゃねぇだろ? 中も……血は、出ていないようだが」

 今にも滴りそうな涎を絡ませた、心此処に在らずの良からぬ声。怯える箇所を別に感じた泉は、そんなシウォンへ思ったままの言葉をぶつけてみた。

「し、シウォンさん? 何だか……言い方が変質者っぽいです」

「へ、変質者……?」

 すぐさま反応した耳が、萎れ倒れた。

 ショックが大きかったのだろうか。シウォンは服を裂いた相手をそれ以上探らず、逆に泉から逸らした目で、地面を右往左往見つめ出す。傍からも丸分かりな動揺に、泉が(言い過ぎたのかしら?)と頬を掻いたなら、シウォンの手に握られたままの布がその懐へ。回収されそうな布に慌てた泉、コレをがしっと掴んで引き止めた。

「あ、待って下さい。洗ってお返ししますから」

「グゥ……こんな状況じゃなけりゃ」

 ぶつくさ文句を言うシウォンには首を傾げつつも、醜態と言っていい証拠品を貰い受ける。ポケットにこれを仕舞い、改めてシウォンを見やった泉は、うっと呻いて引き攣った笑いを浮かべた。

 何も、首の一振りで復活したていの、自分を見つめる鮮やかな緑の双眸が、熱に潤んでいたせいではない。「泉……」と仕切り直しに呼ぶ、ねっとりとした甘く響く低音のせいでもなかった。

 偏に、乾きつつある自分の不始末を、シウォンの胸に見たためである。

「し、シウォンさん。すみません。それ、拭いた方が良いと思うので、どこかからお水を貰ってきても?」

「…………そうだな。これではゆっくり話も出来ん」

 指を差されてそちらを見たシウォンは、もう一度泉を見、何とも言えないため息をついた。

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