第5話 追われる者
広大な奇人街を特定の扉で結ぶ”道”は、芥屋の物置にそっくりの赤と黒の空間で出来ており、目にした瞬間、恐れを抱いてしまうところもそっくりだった。
ただ、物置と同じ点はそこまで。
踏み入れた靴底には、意識しなければすっぽ抜ける不安定な地面ではなく、しっかりとした感触が返されるし、左右には見えないが確かに壁が存在する。
(……とりあえず、息を整えよう)
見送る人狼たちに軽い会釈で礼を伝えつつ、閉めた扉に手をつく。
案内のお陰で比較的早く辿り着けたとはいえ、運動不足の身体に急な全力疾走はなかなかの負荷であった。
しかし、
「わわっ!?」
手を着いていたはずの扉の感触が突然消えて、たたらを踏む。崩れたバランスを立て直した泉は、扉の代わりに膝へ手を着いた。
再度息を整える傍ら、そう言えばと思い出すのは、繋がっていた扉を閉ざすと、しばらくして扉自体がなくなってしまうという話。
「あとは……頭の中に目的地を、思い浮かべるんだっけ……」
どういう仕組みかは分からない。いつから存在しているのか、常用している奇人街の住人さえ知らない”道”ならば、何故と問うのも不毛だが、ここと指定して思い描けば、”道”はその扉へ繋がるようにできている、らしい。
しかも、繋がった感覚は何となく分かるそうだ。
不思議な話である。が、今の泉にとって問題はそこではない。
(でも、どこを思い浮かべれば?)
奇人街に来てよりこの方、ほとんどを芥屋で過ごしている泉には、コレという場所が思い浮かばなかった。
できることなら芥屋に直行したいのだが、聞くところによると芥屋の物置は偏屈な造りをしているそうで、思い浮かべても”道”は繋がらないという。証拠に、芥屋や周辺を思い浮かべても何の感覚もなかった。
では、と行ったばかりのラオの周辺を思うのだが、扉という扉が背を向けている立地のせいか、それらしき感覚は終ぞ訪れず。
他に泉が知っている場所と言えば――……。
(いや、クァンさんのところは論外なんで)
初めて”道”の存在を知り、向かった目的地にぶんぶん首を振る。
あの時は同行者がいたからこそ何もなかっただけで、泉が単身で向かえば、どう明るく見積もっても面倒は避けられないだろう。件のパブ経営者は、今でも泉の来店を心待ちにしているのだから。もちろん、店の唄い手として。
(ほ、他に、良いところは……。うぅ、私一人でどこを思い浮かべられるって言うの? それもこれも全部――あ)
不意にとある場所が思い出された。
以前、同じようにシウォンから逃げ回っていた際、乗り込んだ地上までのエレベーター、その先にあった殺風景な小部屋。しかし、一息つく暇もない状況は変わらず、そうこうしている内にエレベーター横の扉から、地下にいたはずのシウォンが現れて――つまり、あそこには、地上も地下も関係なしに繋げる”道”があるということ。
途端、歩けば辿り着くという確信が泉の中に生じた。
これが”道”が目的地と繋がった感覚なのだろうか。
「や、やった……。ありがとう、シウォンさん」
誰から逃げているのかを忘れたわけではないが、そんな感謝を口にする泉。
とにもかくにも、地上でさえあれば良いと定めたなら、泉は歩き出し、
「あてっ!?」
曲がり角の見えない壁に額を打ちつけた。
* * *
宛が外れた、とでも言うべきか。
シウォンと対峙したランは、己を完膚なきまでに叩き潰してから泉を追うと踏んでいた。証拠に、殺気立つ先制の一打は重く、次いで襲いくる蹴りの予備動作を目視しては、両腕を咄嗟に構える。
だが――防御を優先する余り、作ってしまった死角で勢いよく踏み込まれた足音の意味に気づいた時には遅く、青黒い体躯はあっさり横を流れていった。
刹那、交わされた金と緑の瞳は、一方に驚愕を、もう一方に優勢を宿す。
それだけで伝わる、お前の命なぞ後で幾らでも屠れる、という意。
事実、取られた背に慄く間も惜しんで振り向けど、追うべき人狼の脚力は廊下の曲がり角を機敏に折れていった。
束の間、呆然と立ち尽くすラン。
その姿は現在、一の楼を飛び出し、虎狼公社の中をひたすらに走り続けている。
理由は簡単。
「「「「「ホングス様! お待ちになって!!」」」」」
「「ラン・ホングス! その首、寄越せ!!」」
割合にして、十:一か。
人狼最強の名「狡月」を求めて襲いかかる男たちと、上回る勢いで群がる、別の意味で「狡月」を求める女たち。
虎狼公社の狼首の不在を示すように、一斉に押し寄せてきた二種類の危機は、我先にとランへ拳や手を伸ばしては、弾き飛ばされ、払われていく。
延々に続く走りながらの攻防では、合間に”道”へ逃げ込む暇もない。
一瞬たりとも気の抜けない状況下、ランの背後から呑気な感嘆がやってくる。
「いやあ、すごいすごい。何がすごいって、こんだけモテても人狼ってだけで全く羨ましくないところなんだけど」
「ワーズ……お前な」
白い目を向ける隙を狙い、繰り出された蹴りを片手で封じ、無造作に投げ飛ばす。
「というか、なんでお前まで同じ方向に走ってんだよ。お前をマークするヤツなんかいないんだから、さっさと泉さんと合流しろよ」
「はっ、誰が好き好んで人狼なんかと併走したがるって? しかもこんな人狼臭い場所で。ここでお前を置いてったら、泉嬢が今日中にお前にクッキー渡せなくなるだろ。そんなことも分からないのか」
「クッキー、俺の分もあったんだ……」
そういえば、何度か泉に呼び止められていたことを思い出す。その都度、手提げ鞄に手を掛けていたところまで思い起こせたなら、同時に、その都度ワーズが止めていたことにも気づいた。
(……大方、俺を対シウォン用の盾として巻き込むために止めてたってところか。泉さんのことだから、俺に渡したらそれで満足しそうだもんな)
ワーズの目論みを思えば少なからず苛立ちを覚えるが、泉のことを考えたなら仕方ないとも思う。彼女のことだ、ランへの用事が済んだなら、助力を申し出たところで大丈夫と断るだろう。その断りを覆してまでついていく自分ではないことをランはよく知っていたし、ワーズも人間の考えを無下にはできまい。
だから、前もってワーズが手を打っていたと気づいても、仕方がないと割り切れる。シウォンのように特別な想いはなくとも、ランにとって泉は、それなりに貴重な友人なのだから。
思考に耽る傍ら、敵意と好意を物理的に捌くランは、一つだけため息をつく。
――と、そんな耳に届く、へらりとした呟き。
「そーいや、泉嬢、どこにいるんだろうね?」
「どこって…………………………はあっ!?」
障害物を払い除けながらとはいえ、人狼のランと同じ速度で走る割に、息も切らさぬ世間話然の疑問符。振るった腕の一撃で吹っ飛んだ相手が、他を巻き添えにしたのを端に、ランの顔がワーズへと向けられた。
その際、ステップを踏み、死角から襲おうとした相手を見もせず、くるりと一回転。蹴りつけた足裏に引っ掛けて地に叩き伏せ、後ろ向きになった身体を前に戻したところで、飛び出してきた相手の胸を思わず衝いてしまった。
「うえっ!!? ご、ごめん! 死なないでおいて!」
黒い爪にべっとり着いてしまった血に対し、おざなりの謝罪を口にする。
ちらりとそちらを見やれば、地面に伏した血の持ち主がランへ手を伸ばしていた。人狼嫌いではあっても同じ種に属するため、恨み言を口にできる状態が致命傷ではないと察せてホッとする。
改めてワーズを見れば、小さく眉根を寄せる笑い顔があった。
「同族嫌いのくせに。そんなに齢は取りたくない?」
「うるさいな。そうだよ、取りたくないよ。あの人に勝ってから、狡月の肩書きが欲しいってだけで、青春どころか二十代のほとんど、あっという間に終わっちゃったんだから」
「挑んできた相手を殺すって条件だっけ? そのせいで今じゃ、半殺しの熟達者」
「はいはい、そうですとも! 全く、向かってくる奴ら全員、本気で沈められたらどれだけ楽か……」
ぶつくさ口の中で呟く言葉は、常日頃のランしか知らない者が聞けば目を剥く内容だが、紛れもない本音である。自身では物騒を吐いていると思っていない人狼は、感傷をあっさり捨てて、ワーズに問うた。
「それよりワーズ。泉さんと落ち合う場所を決めていたんじゃないのかよ?」
「んー……そもそも泉嬢、”道”の使い方って詳しく知らなかったかも」
「おい?」
「もしかしたらあの子、”道”と通ずる扉自体が記憶にないといけないって思ってたりして。……いや、絶対そうだな、これは。目ぼしい場所に行きたいって思い浮かべればいいだけって教え忘れてた」
困ったと笑う男に対し、半ば肩を落としたランは問う。
「……どうするんだよ。シウォンの探知能力だったら、そろそろ泉さんを見つけても良い頃合だぞ?」
「んー。せめて史歩嬢が近くに居てくれたら良いんだけどねぇ。彼女の住まいも芥屋の周辺だから、”道”少ないし、望み薄かな?」
言葉の割に、どこまでも呑気な語りが続く。
段々と半眼になるランを見たワーズは、心外だとばかりに肩を竦めてみせた。
「シウォンをあっさり通したお前に文句を言われる筋合いはないけど。ま、大丈夫でしょ。何せ泉嬢は今、地上にいるんだからさ。シウォンもそう簡単には手出し出来ないって」
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