第4話 人狼の解
「!」
気づいた時には遅く、シウォンが泉の手首を掴む。
――直前。
「ああ、そう言えば」
「なっ!?」
ひょいと横合いから伸びた赤いマニキュアの白い手が泉を通り過ぎ、クッキーの入った袋を攫っていった。これに動転したシウォンは、掴みかけた泉の手首から離れ、奪われたクッキーを追う。
「ワーズ! お前、何を」
「いやぁ、泉嬢。すっかり忘れてたけどさ? シウォンてうわばみだから、甘い物得意じゃないんだよね。てなわけだから、コレはやっぱり、美味しく食べられるボクが貰っとくよ」
言って、シウォンをのらりくらりと避ける黒一色の男は、にたり笑う混沌の目でランを示した。ランと一緒に行けという意を受け取った泉は、囃し立てるワーズへ心の中で感謝を告げ、シウォンの視界に入らぬよう、ランの下へと向かう。
途中、
「くぁっ!? わ、ワーズ! 何を喰ってやがんだ、てめぇ!?」
「ふ? もひふぉん、ふっひーらほ?」
「っ、行儀の悪いヤツめ! 口の中に物を入れたまま喋るな! 何を言っているのかわからん――じゃねぇ、喰うなと言っとろうが!!」
大人げない男たちのやり取りを耳にしつつ、
「ランさん」
ひそひそ話す声では逆に耳についてしまう人狼の性質から、通常の声量でランに話しかける。
が、一点を凝視し続ける彼はこちらを見ない。
訝しみながら、泉は薄青の袖を小さく引っ張った。
今度は反応を見せるラン。音がしそうな程、錆ついた動きで泉を確認した金の眼に、泣く一歩手前の揺らぎがある。
「ふ……ふふふふふ。初恋は実らないって聞きますけど、酷いですよね」
「え、ええと……?」
言いたいことがわからず、泉はランが見ていた先を確認しようとする。しかし、そこには寝台しかなかったと思い当たる前に、泉の目を覆い隠すようにランの手が伸び、頭ごと鷲掴んできた。
「……行きましょう。泉さんには目の毒です。空気も悪いですし。用が済んだのなら早く逃げないと」
「ひゃ、ひゃい……?」
静かな声と共に頭だけ後ろに引き摺られ、ランの手を押さえた泉は足をもつれさせながら、身体の向きを進行方向へと変えた。
扉の傍で待機していた司楼に目礼し、廊下へ足を下ろした矢先。
「このっ――――!? い、泉……? 泉はどこだ!?」
響く、悪態から戸惑いに変化した声。
気づかれたとランの身体が震えたなら、
「やばっ! 走って、泉さん!」
視界を取り戻しても振り向くなと添えられた手に、頭がぐいっと押し出された。よろけながら少しだけ肩越しに後方を確認すれば、辺りを忙しなく見渡すシウォンの横で、袋を小脇に抱えつつクッキーを頬張る白い面を見る。
どうやらワーズの足止めは終わったらしい。
「…………」
ただ単に、クッキーが食べたかっただけとも取れる様子を受け、顔を前に戻した泉に諦めの笑みが浮かんだ。
ある意味、期待を裏切らない人だと思う。
なので泉が祈るのは、こちらに背を向けシウォンを足止めするつもりのランの無事。痛がりはしても、人並みはずれた丈夫さを誇るワーズとは違い、ランは先の人魚騒動で腕を失ったシウォンと同じ人狼。
過去に勝てたとは言っても、本人曰く、まぐれらしいので心配は尽きない。
「あ」
走って更ける傍ら思い出す、ワーズが預かっている手提げ鞄の中身。渡そうと思い立っても渡せず仕舞いだったランの分のクッキーに、泉はまた、視線をそちらへと戻しかけ、
「待て、泉っ! どこへ――邪魔だ、小僧!」
「ぐっ……行かせるわけにはいかない!」
煙管を吐き出したシウォンの怒号を受け、泉の身体がびりびりと震えた。
余所見をしている暇はない。
理解し、長い廊下を走っていく。
人間の足でシウォンから逃げ切れる自信はないが、足止めしてくれているランには報いねばなるまい。
荒い息をつきつつ、前だけを見て走る。
程なく分かれ道にぶち当たり、どちらか迷った泉は右に曲がり――かけ、
「違う、奥方! 左、左!」
「はぇっ?」
聞いたことのない声にそちらを向けば、やはり見覚えのない人狼の姿がある。
酸欠の頭で思いっきり眉を顰め、何なんだと目だけで問うたなら、また別方向から違う人狼が指を差した。
「そっちは行き止まりです。壁にぶち当たっちまいますって。”道”を目指しておいででしょう? なら、こっちが正解!」
「は? へ? な、なんで?」
親切心丸出しに、下心はありませんと示される方向に惑う泉。
大体、ここは虎狼公社で、属する人狼は狼首であるシウォンに従うはず。
騙すつもりなのだろうか?
そんな風に思えば、焦れた鋭い爪にぐっと腕を引っ張られた。
悲鳴を上げそうになったなら、慌てて口を塞がれてしまう。
「しぃーっ! 止めてください、奥方。こんなトコで悲鳴なんかあげられちゃ、頭の逆鱗に触れちまう! ラン・ホングスのせっかくの苦労が水の泡だ。俺たちだって死にたかないんですよ!?」
耳を伏せ、怯えを表す相手に目を見開き頷いた。
するとあっさり手が放され、背中を押される。
「ほら、さっさと行ってください。道順がわからなけりゃ、その辺の奴らが教えてくれますから」
「え、で、でも、どうして?」
一の楼の人狼全員が味方してくれるような発言に、足取りが遅くなったなら、また新たな人狼から舌打ち混じりに声が届く。
「あーもうっ、ぐずぐずしている暇はねぇってのに! だがこの際だ、はっきり言っておきやしょう、奥方。この楼に限らず、虎狼公社に属する人狼は全員、あんたを微力ながら手助けすることになってんすよ。もちろん、頭のお耳にゃ入れられねぇ話ですがね」
次いで、別の人狼が口々に告げた。
「なに、理由は簡単でさぁ。奥方の、頭に対する影響力が大きいんで、憶えめでたくありゃ、後で甘い蜜が吸えるかもしれねぇって寸法で」
「だからと勘違いされちゃ困りますが、俺らは奥方にどうこうして欲しいなんて思っちゃおりやせん。言うなれば、まじないってヤツですかね」
「そうそう。なんでどうぞ、気兼ねなく先にお進みくだせぇ」
ずらっと乱れなく先を示され、困惑しつつも礼を言った泉は、もう一つだけ彼らに問うた。奥方、とは以前、クイたちにも呼ばれた憶えがあるため、何のことかと尋ねる真似はせず。
「あの……いいんですか、その……私、逃がしちゃって。自分で言うのもなんですが、捕まえた方が――」
「いや。んなことしたら、逆に殺されちまいますし」
「奥方の意思を無視していいのは頭だけでしょう」
「あたしらは奥方に付きますよ。なんせ」
すっと一呼吸置き、彼らは一様に口を開く。
「「「そっちの方が面白そうですからね」」」
「……はあ」
呆れ返った泉の気のない返事に、うんうん頷き、
「なんせあの頭が、ですよ」
「人間の小娘風情――っとと、失礼。とにかく、奥方の行動に一喜一憂されるなんざ、甚大な被害があろうとも、見世物以外の何者でもありやせんし」
「いやぁ、長生きってのはするモンですなあ」
「…………」
しみじみ語る彼らを泉は沈黙により、横へと流していく。
一応、礼は告げつつも、やり切れない思いからため息が自然と零れ出る。
そうか、これも娯楽なんだ。
(人狼って…………変)
彼らと別れて後も迷う度、こそこそ案内してくれる他の人狼の存在に、泉は心強い反面、今後どう接したものかと悩む羽目に陥った。
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