第3話 見舞いの効果
目と鼻の先――程、近くはないが。
「っ野郎! よくもよくもよくもよくもよくも!! 泉に、アイツに、恋腐魚なんぞ喰わせやがったな!?」
押し倒した店主の頭を床で捩じる、上半身裸の美丈夫。
煙管を咥えたまま彼がつく悪態に、件の泉は戸惑うばかり。
ワーズへ悪質な嫌がらせをしていることは知っていても、こうも直接的に何かをする場面は見たことがなかった。どちらかと言えば、こういう役回りは宿敵と目されているらしい、ランに訪れそうなものだが。
そう思い、行動を考えあぐねた泉はランを見上げた。
が、その視線はシウォンと対面した場所を見つめるばかりで、こちらの騒動には尖った耳さえ向けられていない。身体の震えもそのままだ。
どうやら震えの原因はシウォンではなく、他にあるらしい。
一体、何を見つめているのか。
気にはなったものの、泉が優先すべきは現在危険に晒されているワーズの身の安全。猫に容赦なく叩かれても傷一つ付かない、丈夫の一言で片付けられない身体を持っていようと、痛みはあるというのだから。
「ぉおおおおっ! 痛い痛い痛い痛い。み、みしみし言ってるよ、シウォン!」
ともすれば愉しんでいるようにも聞こえるワーズの声に、煙のせいで人間に似た姿となっているシウォンが歯を軋ませる。
「やかましいっ! 痛いだと? ったりめぇだろうが! 何故この俺が、てめぇなんぞに加減せにゃならん!? お前のせいで、俺は、泉に、会うこともままならず!」
隻腕の身であるにも関わらず、弾みが付く度、ワーズの周りの床が軋みを上げて沈んでいく。どれだけの力が込められているかは知らないが、普通の人間なら死んでいてもおかしくない状況に、ようやく感情の追いついた泉が、青褪めた顔で足を踏み出した。
(これ以上やったらワーズさんが死んじゃう――ことはないだろうけど)
「し、シウォンさん! 止めてください! 私ならここに」
「うるせぇ! 邪魔するな!」
「ぅぐっ!?」
シウォンの肩に触れようとした瞬間、ワーズを押し付けていた腕が泉を叩く。咄嗟に後ろへ退いた足のお陰で、受けた衝撃は半減したものの、跳ばされた身体が床か壁に叩きつけられるコースを変えることは叶わない。
奇人街最強の猫から知らぬ内にその一部を与えられ、危機に際して敏捷に動ける泉だが、身体の造りに劇的な変化はない。掛かる負荷の大きさに意識が遠退きかけた。
(死ぬのかな、このまま)
今まで、何度も直面してきた死の危機。それらを乗り越え、だというのに、迎えようとしている結末は激情に駆られた腕の一振り。気高い死に様を望んだ憶えはないが、非日常を重ねた分だけ、呆気ない幕切れに対する切なさが込み上げてきた。
足掻くことすら出来ず、閉ざされていく視界。
と。
「っぎゃ!?」
突然、反対方向に片腕が引っ張られ、脱臼寸前の嫌な響きが肩に走った。
次いで放り出されれば、肩が柔らかく抱き止められる。
唐突な動きの連続に、ぐわり揺れる頭を振っては、のろのろと顔を上げる泉。
目を瞬かせたなら、至近に緑の双眸が揺れており、
「泉……? 来て、いたのか……」
「うぉわ、シウォンさん。ど、どうも……」
なんとも間の抜けた返事が口をついて出てきた。
額に敬礼の手なんかも付けつつ。
ふざけたその態度がいけなかったのか、それとも良かったのか。数秒の間、泉を見つめていたシウォンは、少々乱暴に彼女を己から付き離した。とはいえ、見境なしに腕を振るった時とは比べ物にならないくらい、丁寧な動きではあったが。
自分の足できちんと立った泉は、よろける姿勢を正しがてら、ワーズへと視線を向ける。沈み込んだ床から、自身の身体を引き剥がすように身を起こす様を見、ほっと胸を撫で下ろす。
「……何しに来た、小娘。俺が……死んでいるかどうかを調べにか? 残念だったな。まだこうして、生きていて……」
「ええと……?」
煙を燻らせ、背を向けるシウォンの言葉に、そちらへ意識を戻した泉は眉根を寄せた。
何故、シウォンの生死を確かめるために、わざわざこんなところまで来なくてはならないのだろう? 奇人街の常識とまで認識されている存在ゆえに、死を迎えたならば情報は素早く行き渡るに違いない。
いや、そもそも。
「まだ……って、シウォンさん、病気か何かに掛かっているんですか?」
「…………」
気遣わしげな声音で問う泉だが、思いは半信半疑。
シウォンの応えも、肩が少しばかり下がっただけなのでよくわからない。
(病気? それにしてはずいぶん……)
泉の目がランと同じ方向を見やった。
薄暗い部屋の更に滲むような闇の中、巨大な天蓋付きの寝台の上に、影の輪郭だけでも際立つ女の姿が幾つもある。
それもたぶん、ひと目で女とわかることから、一糸纏わぬ姿で。
艶かしく蠢く彼女らは、泉のその視線に対し、様々な反応を示していた。
突き刺さる憎悪や邪魔されたことへの不快。振って湧いた展開へ面白そうに笑む者もあれば、狡月のランに色目を使う者もある。くすくす笑う最中、賭け事紛いの話もちらほら聞こえてきた。大多数を占める感情は好奇心だが、晒された泉は居心地の悪さに目を逸らした。
代わりに、寝台にあれだけの女を侍らせていたシウォンの、色んな意味で健康そうな後姿を見る。
荒々しい雰囲気そのままに乱れてはいても、青黒い髪は薄闇の中でしっとりとした光沢を放ち、均整の取れた裸の背は、滑らかでありながら程好く引き締まった筋肉を浮き彫りにしている。腰から下を覆うのは、見慣れた白の衣ではなく、髪の色によく似た青い線を描く黒の衣。
まじまじと眺めた泉、はっと我に返っては視線を逸らした。つい見惚れてしまったが、上半身だけとはいえ、男の裸を見慣れている憶えはないのだ。
遅れてやってきた羞恥の熱に両頬へ手を当てる。
やはり病気ではないだろう、と記憶の中の後姿を冷静に見つめながら。
するとシウォンから、ぽつり、非難染みた声がやってきた。
「お前……忘れているのか? あの葉を使いの女に持たせたのは、お前だろう? 俺が……嫌だと。死を願う、と」
「?…………ああ、あれ。恵明の葉の事ですか?」
「ああ、あれ……って。……お前にとって俺の求愛は、その程度のことなのか?」
「求愛……あー」
傲岸不遜な態度を常とする美丈夫の悲嘆に暮れた姿を受け、泉の目がすーいと宙を泳いだ。結局ワーズに読んで貰ったニパが持ってきた手紙は、シウォンの言う通り、身の毛がよだつ程、粘着性の強い想いに彩られていた。
周りからシウォンが自分を好いていると聞かされても、自分では読めない手紙から告げられても、いまいち要領を得なかった泉。
だが、本人から直接、求愛などと素面で言われたなら、返事に窮して言葉が詰まる。まだ食べ物扱いされている疑いは晴れないが、それを抜いても、衆目に晒された状態でどう答えていいやらわからない。
はっきり言ってしまうと、シウォンのことは嫌いではない。
知り合いの分類なら好きに属するだろう。
が、しかし、恋愛云々の対象として見ろと言われたなら……。
(シウォンさんて、そういう相手として想像し難いタイプじゃないかしら?)
どちらかと言えば一人の女に愛を注ぐより、万年女をとっかえひっかえ自由に傲慢に突き進んで行く方が似合っている。
勝手な思い込みではあるが、話で聞く限りの遍歴や現状況を鑑みるに、どうしても泉にだけ愛を囁くような男とは思えない。仮にそうだったとしても一時だけで、飽きたらさくっと終わりそうなイメージがあった。
無論、終わるというのは関係その他諸々、泉の命も含めて、である。
碌でもない発想に至った泉はその頭を軽く振り、シウォンへ視線を戻しては頬を掻いた。恋愛等の話は一先ず置いておくとして、まずは誤解を解こうと軽く息を吸う。
「……シウォンさんは、恵明の葉の言葉、知っているんですよね?」
「ああ。だからこそ、俺は」
「実は私、ニパさんに渡した後で知ったんです、その言葉」
「後、だと?」
被せるように告げた真実は、苦しそうだったシウォンの頬を若干解した。
ついでに身体まで泉を正面に捉えたなら、思わず一歩、大きく下がる。
浮かぶ愛想笑いのこげ茶の眼で、シウォンの眼の下にある隈を確認して、
「ええと、なんと言いましょうか、物に託された言葉を大切に為さるのは良いことだと思うんですけど、今後はもう少し、広い視野をお持ちに為られた方が、よろしいのではないでしょうか?」
揉み手の勢いで、決してそのままを言わずに婉曲した表現を用いた。
察しが良いのだろう、泉の意を汲み、段々とシウォンの顔に精彩が取り戻される。
「つまりそれは……恵明の葉の効用が睡眠を誘発すると知って? 眠れないという俺のために?」
どんぴしゃり。
当てて貰ったは良いが、おずおず確認を取りつつ近寄ってくる、喜色一歩手前の男はどうしたものか。
しかも、彼の口には未だ燻る煙があるのだ。
種によって効能が変わる煙は、人狼ならば本来の獣の姿を奪い、人間であるなら喫煙者の意を汲む動きを強要する。
シウォンの好きの種類がどうあれ、あまり近づかれるのは不味い。
そう考えた泉は明確な返答を避け、また一歩距離を取っては、動かした手の中のクッキーを思い出した。
「そ、そうだ、シウォンさん。あの、コレ、今更ながらご挨拶なんですけど」
「挨拶? 俺とお前の仲なのに? 律儀な奴だ」
完全にペースを取り戻したと思しき笑みが、歩みだけでは飽き足らず、腕まで差し伸べるシウォンに浮かんだ。
(シウォンさんと私の仲って……何?)
もの凄い見解の相違を感じる言葉に口角を引き攣らせた泉は、それについて追求したい気持ちと訂正を入れたい気持ちをぐっと堪え、逃げ腰でクッキーの袋をシウォンへ向ける。
「ええと、クッキーです。まあ、私が焼いたんで、味の保証は奇人街の材料任せになっちゃいますが」
「お前が? わざわざ俺のために……」
対し、煙を横に逃がしたシウォンは、いよいよ壮絶な笑みを熱病に熟れた緑の眼に携え、伸ばした手でクッキーの袋を取る――ように見せかけて、その実、泉の手へと指先を滑らせた。
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