第2話 隔てた先

 この先に何が待ち受けていようとも。

 クッキー渡してさっさと帰れば問題ないはず。

 心意気は魔王の城に乗り込む勇者だが、実行しようとしているのは逃げの一択。

 そこではたと気づいた泉。

 行く覚悟はどこへやら、話は終わったと去りかけるニパへ声をかけた。

 手提げ鞄をがさごそ漁りつつ、

「あ、ニパさん。クッキーいかがですか? 遅ればせながらのご挨拶なんですけど」

「……あたしゃ、あんたを攫ったっていうのに。相も変わらずお人好しだねぇ?」

 呆れながらもしっかり受け取ったニパに、泉は申し訳なさそうにもう一言。

「あと、クイさんとレンさんっていう、ええと、前に私を……こ、殺そうとしたっていう人たちにも、コレ、渡しておいてくれませんか」

「殺……て、毒でも入ってんのかい、このクッキー?」

 余分に渡した二袋どころか自分の分まで訝しむニパに、慌てて否定する。

「い、いえっ! そんな物騒なモノは入っていません! ただ、そう言った方が伝わりやすいかなって。あの後、色々あって助けて貰ったりもしましたから」

「ふぅん? なるほどねぇ。だからあいつら、戻って来れたって訳かい」

「あいつら……って、クイさんとレンさん、シウォンさんのところに?」

 ちらりと見た、奥の扉。

 視線の意を汲み取り、ニパは首を緩く振った。

「いんや。あっちにゃいない。てぇより、あいつら、戻ってからずいぶんな厚遇を受けてね。今は、なんつったか……ほら、あの包帯巻きの」

「モク先生がどうかしやしたか?」

「そうそう、そのモクのとこに――おや司楼、今戻りかい?」

 会話に混じった新たな声を受け、ニパが半身を逸らしたなら、ぴっちりスーツをもこもこさせた白い人狼が、ひょこひょこやって来た。

「へぇ。ただいまっす。綾音サンがいらしてるって聞いたモンですから」

「司楼さん……その足は?」

 最後に見た時、顔に貼り付けてあったガーゼは取れているものの、少しばかり引きずるような右足の動きが気になった。

 司楼は挨拶を返しつつ答える。

「不手際っす。ちぃと油断したばっかりに、逃げ遅れてこの様っすよ。全く親分には困ったもんです。人狼の回復力任せだと、砕けた骨とかズタズタになった繊維とか、治るまでに時間かかるんで、モク先生んトコに通院中の身の上です。あともうちっとで完治なんですがねぇ」

「……そ、そうなんですか」

 思ってもみなかった惨状を聞き、泉の視線が右足に集中する。

 人狼の回復力もさることながら、あのモクがそんな怪我の治療をできる腕を持っていたとは。問診時の対応を思い出したところで、凄腕の片鱗も感じられないのに。

 などと、半ば失礼な感想を抱く泉を余所に、ワーズが首を傾げて呟いた。

「親分ってことは、あの手紙が原因か」

「手紙?……って、あれのこと、ですか……?」

 あなたの願いを叶えるつもりはありません、とだけ認めて貰った手紙。

 あの一言だけで、司楼はこんな目に遭ったというのか。

 遅れて知った事実に泉は頭を下げた。

「す、すみません、司楼さん。私が手紙を渡したばかりに」

「へ? いえ、全く。これもオレの仕事の内と思えば苦になりませんから。幸いにも、今回は足一本で済みましたんで」

「……今回は?」

 不穏な響きに顔を上げる泉。

 対する司楼は、失言だったと言わんばかりに一瞬だけ鼻面を押さえた。

 が、すぐさま取り繕うように、無表情はそのまま声だけ明るく問うてきた。

「で? そーいや、モク先生がどうとか。どーしたんすか?」

 黒いくりくりした目が愛想笑いに似せて細められた。どうしても「今回」の意味を語りたくない様子は気になるが、突っ込んだところで躱されるのは目に見えている。このため泉はモク関連の話題に応じかけ、その前に思い出してはクッキーを手に取った。

「あ、そうだ。司楼さんにもクッキーが……遅ればせながらのご挨拶で」

「お、こいつはどうも。有難く頂戴しときます」

 渡せばひょいと抓み上げ、さっさともこもこの懐にしまう。

 呆気に取られた泉はしばし瞬いてから、促す黒い目に気づいて答える。

「ええとですね、クイさんとレンさんっていう人たちが、モク先生のところに――あれ? 厚遇だったって聞いたのに、どうしてモク先生のところに?」

 口にして可笑しな点に気づき、ニパを見やれば、肩を竦めた彼女は言う。

「何事も過ぎるとねぇ。あんたと繋がりあるってだけで、あの二人――特にあんたと直に接触したって方は、未だかつて誰も体験したことのないような目に合ったらしい。なまじ同族だったのもいけなかったんだろうね。他種なら傷つけないように注意を払われて、そこまで到達しなかっただろうに。……ま、要するに、だ。重度の疲労持ちになっちまったんだよ。長期療養が必要なくらいの。あれからだいぶ経ったものの、未だ面会謝絶だから、行ったところであんたじゃ会えないし」

 だからこのクッキーはあたしが責任持って届けてやるさ、と手の中の袋を弾ませつつ、今度こそ去ってしまったニパ。

 見送るだけの泉は、残された彼女の言葉を噛み砕く傍らで、司楼、ラン、ワーズの顔を順に巡る。一人だけ目を逸らさなかったワーズが、その肩をぽんっと抱いて、奥の扉に向き合わせた。

 その際、固まった手から手提げ鞄を外し、クッキー入りの袋を一つ泉に渡しては、残りを黒い懐にしまう。

 身軽になった分だけ、ずしりと重く圧し掛かる、手の内のクッキー。

 次いでランへ先頭を行くよう指示したワーズは、司楼に扉を開けるよう命令しながら、薄青の背中へ泉の身体を押した。

「泉嬢。ここまで来て帰ろうとしたら、たぶん、シウォンの代わりに大勢の人狼と対峙する羽目になるよ。しかも奴らの狙いはボクらの命なんかじゃなく、君をシウォンのところに連れて行くこと。幾らランが、最強だなんだと持ち上げられていても、押し潰されちゃ身動き取れないし、知っての通り、ワーズ・メク・ワーズは身体が丈夫なだけで強くない」

 囁き声にも関わらず、硬直する泉の耳にワーズの言葉が浸透する。

 緊迫を含みつつも、おどけた穏やかさを保つ声音は続けて、

「だから、シウォンに会おう。ボクらがいる内に。一人で会うよか、数段マシなはずでしょ? でね。ボクの予想通りだと、シウォンは絶対君に手を出す。間違いないから、クッキー渡したら、すぐ”道”を使って一人で地上に戻って? ボクらはそれまでアレを足止めしておくから。たぶん、他の人狼たちはシウォンに会った君を追いかけたりはしない。好き好んで災害に遭おうとする奴はいないからさ」

 励ますようにぽんぽん、肩で弾む赤いマニキュアの白い手。

 肩から覗く微笑みは安堵を招くでもなく、ただその形を維持し続けるのみ。

 知らず知らず頷けば、ワーズの言う通りに動いた司楼が扉を開く。

 途端、鼻を衝く、煙と酒の匂い、むっとした熱気。

 咽ないよう細心の注意を払い、ランの広い背中に隠れて進む。

 司楼の横を過ぎる傍ら、交わした目に強い光を見た。

 幸運を、とでも言いそうな眼差しであった。

 これに緊張を高めたなら、耳元でワーズが告げる。

「大丈夫。地上にさえ着けば――」


「何の用だ、ラン?」


 ふいに被せられた、ねっとり絡みつく陰湿な低音。艶やかさは、泉の記憶にあるより一層濃いはずなのに、声だけで切り刻まれるような迫力を感じた。

 密かにごくりと喉を鳴らせば、「んん?」と訝しむ声。

「何だ、他に誰か連れて来たのか? まさか立会人とでも? ようやく、ケリをつける気になったってんなら、俺は大歓迎だぜ?……狡月こうげつ様と一戦交えられるなんざ、光栄過ぎて、暇つぶしにしちゃ上等よ」

 寝転がってでもいたのだろうか。

 起き上がるために弾みをつけた、声質の変化を会話の最中に聞き取れば、同じ方向から数名の「きゃっ」だの「やんっ」だの、甘ったるい声が重なる。

 瞬間察せた熱気の正体に、泉の顔が真っ赤に染まった。

 ランという壁がなければ入ることも躊躇われる光景が、薄青の着物向こうにある――臆した足がじりっと音を立てて退いたなら、肩をランの方に押されてしまう。

 弾みでその背に手を着いた泉は驚きに顔を上げた。

(ランさん……震えてる?)

 ――シウォンに対し、恐怖を感じている。

 そう理解しては、この場まで彼を巻き込んだ自分が、恥ずかしがっている場合でも、引いている場合でも、怖がっている場合でもないと知った。

(どうせ、クッキーを渡して帰るだけなんだから)

 腹を決めた泉は、ランの背後から身を躍らせようとし、

「やあ、シウォン」

 だが、泉より先にワーズがひょっこり前へ出ては勢いを削がれ、

「てめぇは――ワーズ!!」

 空気を震わせる怒声と共に、へらりとした白い面が何者かの手に攫われ、薄暗い部屋の中、床へ叩きつけられるのを目の当たりにしたなら、

(……な、なんで?)

 急すぎる展開に置いてきぼりを食らい、完全に出遅れてしまう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る