第三節:人魚の御業
第1話 魔性の異称
泉の元居た場所では、首を縦に振った場合を「いいえ」、横に振った場合を「はい」と捉える国があった。しかし、泉の生活していた国は縦に振ることを「はい」、横に振ることを「いいえ」と捉えており、幸い奇人街もそちらで統一されている。
――このため。
「あら、あんた……子どもができたら、すぐにお言いよ? でなけりゃ、あっという間に潰されちまうよ?」
ランを先頭に進み、出くわした人狼の中年女・ニパから、開口一番、そう助言された泉は、横に振っときゃ良かったと早々に後悔した。
倒れたまま手を振るキフに見送られ、ランを先導として”道”経由で地下の虎狼公社、幽玄楼を囲うように配された四つの楼の一つ、一の楼へ訪れた泉たち。
自身の記憶になければ繋がらないという”道”であるにも関わらず、ランが彼を宿敵とするシウォンの洞穴に来られたのは、偏に望まぬ女性遍歴の為せる業だという。この何とも言い難い情報をラン自身が語るはずもなく、へらりと語った黒一色の店主は、ニパの言葉に肩を竦めた。
「だってさ。泉嬢、やっぱ帰っとく?」
「は……ちょ、ちょいとお待ちよ!」
これに対し、過剰に狼狽えたニパは、ワーズを通り越して泉の肩を掴む。
朱を造りの基調とした一の楼は、ラン曰く、幽玄楼を除き、シウォンが頻繁に訪れる場所であると共に、それなりの実力者が揃う場所らしい。以前、シウォンに命じられて泉を攫ったニパが、屈強な人狼を顎で使っていたことを考えれば、彼女の地位も推し量れるというもの。
が、今はその権威も形なしに崩れており、逆に縋るような色が茶色い毛皮と青い目を持つ彼女に宿っていた。
「勘弁しておくれ。あんたが来たってのに、フーリ様のトコまで連れて行かなかったら、あたしらが後で八つ裂きにされちまうんだ」
「はっ。いいじゃないか。人狼なんて掃いて捨てる程いるんだから。少しくらい減った方が世のため人のため」
心底楽しそうに、悪辣なまでに笑うワーズは、謳う声音で高らかに皮肉った。
しかしニパはこの宣言を大きめの三角耳には入れず、泉へ必死に訴えかける。
「ねえ、お願いだよ。あたしらを助けると思ってさ」
「は、はあ……」
ぐらぐら揺さぶられて懇願され、無下にできない泉は、首を縦に振るような状態のまま曖昧な返事を発する。
すると、ぱっと明るくなるニパの顔。
元より、来てしまった以上、後悔はしても帰るわけにもいかないと思っていた泉、ありがとうと大袈裟に手を振られては、疲労感たっぷりに笑ってみせた。
そうしてニパが案内してくれたのは、ここのところシウォンが過ごしているという一の楼の奥の部屋の扉前。
ここに辿り着くまでの間で見た一の楼の造りは、シウォンの来訪が頻繁である証明のように、造形のどれもが秀逸だった。凝った意匠は彼の住まいである幽玄楼にも引けを取らず、普段であれば圧倒されるところだが、泉の気を引いたのは別の事柄。
何やら視線を感じるのである。
最初は前を行くランや後ろのワーズのとばっちりだと思っていた。
しかし、次に泉の耳が捉えたのは、黄色い悲鳴でも厭う呻きでもなく、
これにより思い起こされる、海辺では白い美貌、陸上では幽鬼に似た姿と為り果てる化け物・人魚――を、知らぬこととはいえ、食してしまった己。と同時に、元居た場所にあった、似たような存在を食した際の効用が頭を過る。不老不死だか長寿だか、とにかく、凡そ人とは呼べない身体になってしまう逸話に、泉の想像力は別方向へと飛躍した。
人魚を食べた人間は人魚になる――……。
竹平の恋人だった少女がいつの間にか、人間から人魚になっていた前例があるため、その詳細を知らない泉には、これを否定できる要素がない。
ゆえに、案内はここまでと告げたニパへ、泉は慌てて問いかけた。
「あ、あの、ニパさん。さっきから、人魚って聞こえる気がするんですけど……どこかにいるんですか?」
否定が欲しい泉に、ニパは呆れた様子で目をぱちくり。
「いるんですかって、あんた……そりゃ、あんたのことだろ?」
「!?」
あまりの驚きに声も上げられず、泉は咄嗟にワーズを振り返った。
予期していなかったのだろう、きょとんとした表情を浮かべたワーズは、数度、闇色の髪が掛かる目を瞬かせ、何かを思いついた節を見せては、片眉を上げて首肯した。
「ああ。そう言えばそうかもね。泉嬢は人魚かもしれない」
「ええ!? め、
「ん? 何が?」
意味が分からないと首を傾げるワーズへ、泉は先程の考えを述べた。
「だって、人魚を食べさせたの、ワーズさんじゃないですか! それなのに、わ、私……人魚だなんて…………」
思わず自分の両手を見る。何の変哲もない見慣れた自分の手だが、この皮膚の下は、陸に上がった人魚と同じゼリー状の肉になっているというのか。
泉が茫然自失となれば、ワーズののほほんとした声が掛かった。
「ん?……んー? 泉嬢、もしかして、すんごい勘違いしてない?」
「……へ? 勘違い?」
掲げた手はそのままにワーズを見たなら、黒い肩が竦められた。
「話聞いてるとさ、まるで、人魚を食べたから人魚って呼ばれてる、と思っている風に聞こえるんだけど」
「え……ち、違うんですか?」
「っぷ」
目を丸くして問うたなら、背後から噴出す音が聞こえた。
訝しんで振り返れば、灰色の強面が嘲笑う金の眼でこちらを見ている。
喉を衝く悲鳴を、相手がランであると気づいてすんでのところで止めた泉。対し、そんな心情に気づきそうにもないランが肩を震わせたまま言う。
「い、泉さん……知らなかったとはいえ、発想の飛躍がすごいですよ。人魚っていうのは、凪海に生息するヤツのことを指す以外に、もう一つ、意味があるんです。魔性の女の代名詞っていう」
「魔性の、女?」
(……誰が?)
示された先に自分がいることを認めたくない泉は、ぐるり、周囲に視線を巡らせた。シウォンが居るという深紅の扉を背に、続く白の壁を左右に辿り、ワーズとニパ越しに通ってきた廊下をなぞる。
途端、天井からぶら下がる等間隔に並んだ灯りの下、ささっと隠れる影をいくつも認めた。かと思えば、恐る恐る覗き見、泉と目が合ったなら、また隠れるを繰り返す。毛並みの色こそ違えど、もぐら叩きの要領で現れたり隠れたりする相手が全て人狼と知ったなら、泉の気が段々と滅入ってきた。
奇人街で目覚めた時、最初に害をもたらした忌まわしき種。
幾ら人狼に知り合いが増えたとはいえ、今もって、易く付き合いたい相手ではない。が、だからと怯えられて嬉しいものでもなかった。
目ぼしい”魔性の女”とやらを捜せなかった泉は、視線をランへ戻すと、思いっきり眉根を寄せて問う。
魔性の女、イコール、自分、という面白構図をないものとして。
「あの、どこに魔性の女がいるっていうんですか?」
「あー……まあ、そうですよね。普通、そういう反応しますよね。特に泉さんはシウォンについて、一般に流通している程度の認識しかありませんし」
「はあ!? 一般って、あれだけ気にかけていただいているのにかい!?」
鼻面を掻くランの言葉に、ニパが責めるような呆れを背後から投げつけてきた。
驚いて振り返れば、かぱりと口を大きく開けた、ふくよかな人狼女の姿があり、
「そう言うなって。俺もついさっきまではそう思ってたけどさ。泉さんの話聞いてたら仕方ない気もするんだ。ほら、彼女って芥屋の従業員だろ? 前例があるし、それでなくても他種。応えたら殺されるって思っちゃうよ。しかも、猫っていう熱烈な誘いの理由になりそうな存在だってあるし」
「猫、ねぇ?……そりゃあ、確かに。あたしらも最初は純粋にそっち狙いと思ってたからさ。だが、あの痛々しい荒れ様を目の当たりにしたら……フーリ様が不憫で不憫で」
口調は哀愁を帯びたものだが、反し、ニパの表情は硬かった。
一の楼という建物内に地上から直接来たため、洞穴の様子は分からないものの、ニパの言はここに来る前のランの忠告を事実と伝えてくる。
魔性の女――そんな得体の知れない者に為った憶えはないが、しかし。
人魚と呼ばれるだけの理由はあるようで、今一度、シウォンが控える扉に向き直った泉は、拳をぐっと握り締めた。
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