第16話 骨の髄まで

 本当に泉に好意を寄せているというシウォン。

 だとするなら理由は――もしくは切っ掛けは、なんだろうか。

(……それ以前に、どの時点から好かれることになったのかしら?)

 思い返してみても、毎度誘いに抵抗した憶えくらいしかない。

 大抵の女はシウォンの誘いを受けるというから、それが珍しかった?

 いやしかし、シウォンは誘いに乗らない相手に固執しないとも聞く。

 では何故――?

 泳ぐ視線が止まったのは右手の甲。

「…………ま、まさか……」

 記憶を探る最中、辿り着いた一つの答えに泉の顔が青褪めた。

 ここを舐めた緋鳥曰く、美味しそうだという右手、引いては泉の身体。

(そーいえばシウォンさん、どさくさに紛れて肌の味がどうのと……)

 ついでに、シウォンに連れ去れられた雨の日、身代わりとして置いたクッションが食い千切られたシーンも浮かんだ。

 ――これで、身体の部位を差され、「この辺が美味しそう」と言われたなら。

 エンに好意の理由を問うた時、想像した言葉が泉に圧し掛かってきた。

 そもそも相手は芥屋の従業員を文字通り食い物にしてきた人狼である。違うとは言い切れず、泉の眦に涙が滲み始めた。味と言っても、自分ではさっぱりわからないため、シウォンと同じ種であるランへ問う。

「あ、あの、ランさん」

「はい」

「わ、私って……美味しそうなんですか?」

「……はぇ? お、美味しそうって……」

 上から下とうろつく視線に対し、泉は否定を欲して胸の前で両手の指を絡ませた。

 涙に潤む瞳は自然と上向き、引き結んだ唇は震え、緊張から頬が薄ら赤く染まる。

 ふいっとランの眼が逸らされたなら、泉は絶望的な気分を味わった。

「ら、ランさんから見ても、美味しそうに見えるの……?」

「お、俺は、他種族に免疫なくて……。いやでも、それは決して泉さんに食指が動かないわけじゃなくて……。寧ろその逆というか、えー、あのー、そのー」

「しょく、し…………食……死……?」

 俯き、青褪めた顔で頭を抱える泉と、他方を向いて鼻の頭を掻くラン。見ようによっては、逃げ切れなかった獲物と捕食者の関係にも、甘酸っぱくも青臭い告白場面にも思える立ち位置である。双方、大いにズレた互いの見解を知る由もなく、異様な空気だけが辺りを包み込んでいく。

 これを取り払う者がいるとすれば、それは、

「……はぁ。ねぇ、そろそろ行かないか?」

 至極面倒臭そうな声に、泉とランがワーズを見やった。

 二人の視線に、こめかみへ銃口を突きつけた男は困り顔でへらりと笑う。

「泉嬢、無駄に考えたって仕方ないでしょ? そんなに気になるなら、アレ自身に聞けばいい。ランも。くだらない勘違いはその辺にしろ? 泉嬢の質問は正しく解せ。彼女はお前に、自分が食物として美味そうかどうかを聞いたんだ」

 呆れ返ったワーズの言葉に、ランの耳がピンと上に立った。

「えっ!? そ、そうだったのか……いえ、だったら全然! 俺は泉さんのこと、食べ物としてなんか見れませんよ?」

 力を込めて言い切られ、泉は安堵に頷いた。

 どういう勘違いだったかはこの際置いておくとして、

「そうですか。まあ、そうですよね。ランさんは普通に接してくれていますし。緋鳥さんとかシウォンさんみたいに、人のこと舐めたりなんだりしませんから」

「ふぅん? 良かったね、ラン。人畜無害のイイ人認定で。信頼されてるね、男として見られていないくらい」

「うるさい。べ、別に俺はやましい気持ちがあるわけじゃない。当たり前だろ?」

「――の割には、耳が萎れてるけど」

「わわっ!」

 ワーズの指摘に慌てて耳を押さえたランは、泉と目を合わせるなり背を向けてしゃがみ込んだ。突拍子のない様子へ首を傾げた泉は、へらりと笑う白い面が隣に来たことで、眉を寄せてため息をついた。

「ワーズさん、ランさんからかうの止めて下さい。……でも確かに、考えたって仕方ないですよね。ここはワーズさんの言う通り、シウォンさん本人に直接聞いて……聞いて、頷かれたらどうしよう。ばれたからには仕方ない、その場で食ってやる、なんて」

 碌でもない自身の想像を口にした泉は、乾いた笑いを貼り付けて顔を上げた。

「い、いや、幾ら何でもそれは、さすがにない……ですよね?」

 確認を取った相手はワーズとラン。

 だがこの二人、先程までのやり取りはどこへやら、揃って泉から顔を逸らした。

 思ってもみなかった肯定を目の当たりにし、泉の頬が引き攣り青褪めた。

 慰めるように、誰かが彼女の肩をそっと抱く。

「さすがにその場はないだろうね。あの子のことだから、荒ぶる想いを堪えつつ、お嬢さんがベストな状態になれるよう、最善を尽くして」

「き、キフさん?」

 肩に置かれた指輪だらけの手を辿れば、ランの靴跡を顔につけたキフ。

 引いた泉を腕の中に留め、爽やかに微笑む中年は茶目っ気のあるウインク一つ。

「お嬢さんの頭の先から足の爪先まで、ぜーんぶ、食べちゃうだろうねぇ」

「っ!?」

「そりゃあもう、骨の髄までしゃぶり尽くす丁寧さでね。おじさんが自信を持って、絶対の保障をつけてあげよう」

 そんな保障、欲しくない。

 ワーズとランが明言を避けた断言に、泉は石のように固まってしまった。

 これを見越し、「よぉし、我が娘にエールを込めて、パパのキッスを」と、ぶよぶよの唇を突き出すキフを目にしても、動く事ができず。

 反応しない泉の代わりに視界の中、白い手の鈍い銀と、灰の手の黒く鋭い爪が、近づくキフの頭と首を捉えた。

「どさくさに紛れて泉嬢に何しようとしてんだ、この変態」

「気色悪い顔を近づけるな。泉さんに迷惑だろ、この変態」

 ほぼ同時に、似通った感情の籠もった声が別々の口からキフを非難。間髪入れず、示し合わせたかのように、それぞれ捉えた箇所を思いっきりぶっ叩く。

 鈍器で殴った音と肉の潰れる音が揃って聞こえたなら、声も上げずにキフの身体が地面に転がった。

 突然の暴力風景へ、ランの時とは違い、数秒遅れてぎょっとする泉。

 その肩が白い手に軽く払われたなら、辿った先にへらりとした、しかし、何やら酷く怒った様子のワーズを見る。

「全く……油断も隙も、ついでに分別もないな、お前は!」

 倒れるキフへびしっと黒い爪を突きつけたランは、先程泉を盾にしたことも忘れ、今度は彼女を庇うように中年との間に立った。警戒心を強める薄青の着物の背を見やれば、その向こうから弱々しい声がやってくる。

「ふ……おじさんは常に博愛主義者だからね。その辺にぬかりはないよ。尤も、君への愛は特――べ」

「……黙れ」

 一瞬の出来事であった。

 目の前の背が消えたと思えばキフの顔が踏まれており、これを理解するより先にまたランが泉の前に立っている。

 人間では決して為し得ない刹那の動きに、驚いた泉の口は開くばかり。

 当のランは背を向けたまま、苛立たしげに泉へ問うた。

「で、泉さん、どうします? シウォンのところへ行きますか? どちらにしても俺は早く、この変態中年から離れたいんですけど」

「はあ……」

 何とも気の抜けた、どっち付かずの声が泉の口から出る。

 と、金の瞳がじろりと睨みつけて来たため、まだ決めかねていた泉は慌てて首を振った。


 ――縦に。

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