第9話 良くも悪くも
――と。
「泉嬢」
「っ――――てっ!?」
ワーズにまで名を呼ばれて怯え、そちらをもう一度見やれば、顔面に柔らかな布がぶつけられた。中身には軽い固形が入っており、衝撃はそこそこある。
引っ込んだ感傷の代わりに、顔を覆うそれを受け取ったなら、へらりとした顔が言った。
「シウォンにクッキー渡したし、ボクらも追いついた。なら、とっとと挨拶回りに戻ろうか」
「…………」
受け取ったモノの正体は、シウォンを尋ねる際にワーズが予め自身の懐に仕舞っていた手提げ袋だった。
だが泉は動かず、じっとその袋を見つめる。
ワーズに止められなければ、シウォン、引いては猫に吐いたであろう言葉。
――私に関わらないでください。
感情に引っ張られる形で表出したものだが、それは泉の中に元々ある思いだった。本当に、自分が帰るべき居場所が見つかるまでは、通過点でしかない内は――
誰人にも深く、関わって欲しくない。
直前で留められたとはいえ、浮かんだ言葉を忘れることはできない。
関わるのを厭う自分を感じながら挨拶回りなどして、今更何になる。
「……泉嬢?」
呼ばれてのろのろ顔を上げたなら、銃を頭に突きつけ傾ぐ、赤い笑みが言う。
「今更挨拶回りを止めるなんて言わないよねぇ?」
「!」
思っていたことをなぞられ、ぎくりと泉の身体が固まった。
猫以上に近く感じた意識を恐れて一歩退こうとすれば、その前に頭から目元にかけてをわし掴みされた。瞼に押しつけられた、ひんやりとした大きな手のひらに戦いたなら、頭を這う指が力を込めてこれを止める。
作られた闇の中で、へらへらした声だけが耳朶を打つ。
「何か、妙な感傷に浸っているみたいだけどさ。手遅れ、だよ? 他者の動向なんて、特別な能力もない人間の君に制限をかけることはできない。誰も私に……続く言葉は何にせよ、君自身が誰かに関わってしまった時点で、相手はすれ違うだけの他者ではいられないんだ。良くも悪くも、ね」
言いたいことだけ言った店主は、突き放すように泉から手を離した。聞くことしか許されなかった泉は取り戻した光によろけながら、改めて黒一色の姿を視界に入れた。
「ワーズさん……」
「ん?」
試しに名を呼べば、応じて深まる笑み。
確かに、手遅れだと感じられた。
個を示す名を知り、呼び合い、言葉を交し合う。
作り上げたわけでもない、自然に生まれた関係。
自分一人否定したところで、もう遅い。
相手がいる時点で、それはもう、双方の問題なのだから。
仮に、相手からも否定を下されたところで、築かれた過去はなかったことにできない、ならない、なってくれない。
決別すら、今の自分を形作る要因の一つ。
タトエ、忘レテシマッテイテモ……重ネタ想イハ、ドコカニ必ズ在ル。
相手の中に。
あるいは、等しく無情に過ぎゆく時の中に。
すとんと腑に落ちたなら、ひんやりとした熱を馴染ませるよう額を擦る。
「……すみません。変な反応しちゃって」
憑きモノの取れた顔で惚けた謝罪を述べれば、ワーズは一つ笑い、銃口をランへと差し向けた。いきなりのことにぎょっとし、情けなくも短い悲鳴を上げる人狼を泉が視界に納めると、端で首を傾げたワーズが言う。
「んじゃ、再開。まずはお待たせラン・ホングスからー」
「あ、はい」
軽い口調に背中を押され、後退してしまった分を取り戻すように、大きく一歩踏み出す。
ランの前で止まっては小さく頭を下げ、
「すみません、ランさん。さっきは私――」
言って元の位置に頭を戻した泉。思ったより近い場所にある、お前を喰ってやると言わんばかりの相貌を前に、ついつい一歩、本気で後ずさってしまった。
「…………」
お陰で意味を為さなくなった謝罪。目を逸らし、なかったことで通しては、若干落とされた厳つい肩も見なかったこととし、手提げ鞄からクッキーを取り出した。
「あ、あの、遅ればせながらクッキーです」
「なっ!? 泉!? アレは俺のためだけに焼いたのではなかったのか!?」
「「ひっ!?」」
途端、シウォンから生じる悲哀混じりの怒声。浴びせられた泉とランはそれぞれ戦くが、黒い爪はちゃっかりクッキーを失敬していた。軽くなった手を胸の前に持っていき、小さく握った泉は、次にシウォンの下へ小走りに向かう。
伸ばされた乳白色の爪の近くで止まり、ランへしたように頭を下げた。
「すみません、シウォンさん。先程は失礼な真似をして」
「泉……。まあ、いい。構わんさ。お前さえ俺の傍にいりゃあ。ランに菓子を渡したことすらどうでも――く、猫! 放しやがれ!」
途端に怒気を和らげたシウォンは、泉へは慰めるように、背後の猫へは焦れたように叫ぶ。
物理的に押さえつけられているわけでもないのに、どうしたのだろう?
伸ばしたまま動かず、震えるだけの爪先を疑問に思っていれば、ぽんっと泉の両肩に白い手が置かれた。振り返ればワーズがクツクツ笑う。
「シウォンはねぇ、人狼の中でも危険に敏感だから、危険そのものの猫が睨むと、過剰に反応しちゃって動けなくなっちゃうんだ。ホラ、泉嬢のところにもことわざがあるでしょ? 蛇に睨まれた蛙っていう」
「そうなんですか……だから、放せって」
感心した声を上げ、再度シウォンを見つめた泉は、歯を剥き出し鼻面に皺を寄せる姿を目にし、大きく仰け反った。すると当然、肩に乗っけられたままの手は泉の前へとずり落ち、ごくごく自然にワーズが背後から抱きしめてくる形となる。シウォンの形相に怯える泉に、そんな格好を察する余裕はなく、それどころか、抱える腕に縋りつく始末。
となれば、一向に想いは上手く伝わらずとも、泉への恋慕に身を焦がし続ける人狼が、良い顔をするはずもなし。
「くっ……! ワーズ、てめぇ!!」
憤怒すればした分だけワーズにしがみつく泉、という悪循環の中、一人だけへらりとした店主は、見せつけるように少女の顎を指で取り、己へと向けさせた。
怯える瞳が徐々に羞恥へと変わるのを愉しむ風体で、憤る人狼を放って泉に囁く。
「じゃあ、行こうか。ボクらがいなくなれば、猫もシウォンを押さえておく理由がなくなるし。後で合流すれば良いでしょう? やっぱりボディーガードは、見かけ倒しの狡月様より、猫の方が断然良いからさ」
笑う赤い口は、別々にやってくる人狼たちの非難の声を聞き流し、泉にだけ意見を求めた。
「……は、はい」
促されるまま頷く泉。頷き返したワーズは泉の顎から手を離しては肩を抱き、恥ずかしがり俯く身体を足早に誘導していく。
最中、シウォンが幾度となく泉とワーズの名を呼ぶが、店主の奇異な行動に惑わされた少女は、荒れ狂う己の熱で手一杯。
お陰でシウォンを振り返っては、「じゃーねー」と爽やかに手を振る黒一色の男の、嫌がらせに近い行動にも、行くなと懇願する悲痛な叫びにも気を配れず。
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