第12話 院長と看護師たち

「泉・綾音が来てるの!? 私に会いに!?」

 廊下奥から突然響く、黄色い悲鳴染みた男の声。

 きゃーと一人ではしゃぐ音に打たれた泉は、ゆっくり身体を声のした方へと向けた。握り締めていた黒い服さえ忘れた風体で手を離しつつ、

「あ……の声……モク先生?」

 こてり、ぎこちない動きで首が傾げば、瞼が目覚めを促すように数度開閉を繰り返す。その後ろで袖の皺を伸ばし、些かほっとした表情を浮かべる男も知らずに。

「え……えと、でも、何だか…………足音の数が多い、ような?」

 混乱から徐々に醒めていく泉は、滑らかな動きで頭の位置を戻すと、眉を寄せて耳をすませてみた。

 すると届く、モク以外の声と動き。


「きゃっ、モク先生、駄目ですって! 手術着のままじゃ、あの女の子がビックリしちゃいます!」

「ほら、ちゃんと脱いで。そうしたらこれを着て」

「紐も締めないと。だらしない格好してたら嫌われちゃいますよ?」

「あらまあ、包帯に血が付着してるわ。ちょっと待ってくださいねぇ、モク先生。この部分だけ切っちゃいますから」

「ああ、モク先生、すぐ終わりますからねー? 動かないで下さい……はい、終わりました。ほらほら、可愛いちょうちょさんですよー」

「もうっ! 君たちは自分の持ち場に戻って! 私はここの院長先生なんだよ!? 子どもじゃないんだから大丈夫っ」

「「「「「そういうことは、きちんとお一人でお着替えができるようになってから仰ってください。そこら辺の子どもの方がまだ手が掛かりません!」」」」」

「むぅ!!」


「…………」

 何だろう? この、妙に脱力したくなる会話は。

 実際、肩がガクッと下がった泉に対し、呑気な答えがやって来た。

「あれはモクと看護師たちだよ。あの藪、腕は確かだけど、どうも精神的に幼くてねぇ。看護師共は、そこに母性本能だかって変わったモン見出しちゃった、モクの元・患者」

「……へぇ。詳しいんですね、ワーズさん」

「まあね。アレらとの付き合い自体は他の奴らほど長くないけど、関わる頻度は高くてさ。そのせいで自分の患者と看護師以外、あんまり覚えていられないモクに憶えられちゃったんだよねぇ、店主って。何だかすんごい癪」

「……そうなんですか」

 言葉自体には笑みを含みつつ、嫌悪感を露わにする声音を受け、そちらを見やった泉。変わらぬ赤い口の形に頬を掻いては、段々近づいてきた音へ視線を戻し、

「泉・綾音!」

「は――ひっ!?」

 壁からにゅっと顔を突き出したモクの変わらぬ包帯姿に、思わずワーズの腕へ縋った。世話を焼く看護師たちの手を振り切って現れた藍染めの着物や、煙管を咥えた頭部に一列並ぶ蝶結びの包帯はともかくとして。

「え、モク先生……そ、その血は?」

「チ?」

 ぴょんっと飛び跳ね、軽い足取りで泉の下へ向かおうとしていた医者は、震える指摘を受けて首を傾げた。次いで、尻尾を追う犬のように自分の身体をくねくねと見渡す。やたらと艶かしい包帯男の動きへ、彼が通ってきた廊下から看護師の一人が顔だけひょっこり覗かせた。

「あ、モク先生。ほっぺです、ほっぺ。ほっぺにまだちょっぴり血が付いてます」

「ほっぺ?」

 そちらを向いたモクは袖口に手を隠すなり、そこでごしごしと頬を拭う。

「取れた?」

「…………駄目ですね」

「そっか。じゃ、諦めよう」

「え! 駄目ですよ! 彼女、引いてるじゃないですか」

「いいの。泉・綾音はそんなことで私を見捨てないもん。それより、れでぃを待たせている方が失礼なんだよ?」

「また誰に教わったんですか、そんな台詞……じゃ、せめてお断りを入れてから、こっちに戻って来てください」

「……せっかく来てくれたのに、断るの?」

「違いますって。ちょっと待っててください、って言うだけです。何の連絡もなしにお待たせするのは確かに失礼なことですが、その格好も十分失礼に値するんですよ?」

「…………うん。わかった。じゃあ、お断りしてくる」

 こくこく看護師たちに頷いたモクは、くるり、今一度泉の方へ身体を向けた。

「ひっ」

 が、先程より増して青褪めた泉、ワーズの身体が傾ぐのも構わず、思いっきり仰け反ってしまった。

 看護師がちょっぴりと評した頬の血は、先に処理されたと思しき蝶結びの包帯より範囲は狭い。だが、ちょっぴりで済ますにはかなり無理があった。しかも、モクが無闇に拭ったせいで、イイ感じに引きずった跡が出来上がってしまっており、薄暗い室内の雰囲気も包帯の猟奇的な不気味さに拍車をかけていた。

 どこぞのホラーハウスのモンスターを思わせる仕上がり。

 中身が人間ではないということも相まって、泉の目に涙が浮かぶ。

 この様子に気づいたのか、それでも数歩前まで近づいたモクはぴたりと足を止めた。

「泉・綾音?」

「は、はい」

「私が怖い?」

「……へ?」

 ストレートに尋ねられ、怯えが戸惑いに転じた。

 怖いと問われれば姿形は有無もなく怖いが、モク自身に害された憶えはない。

 思い至ったなら、随分酷い反応をしてしまったと反省する。

 そのまま首を振りかけた泉だったが、やはり包帯にべったりこびり付いた血は恐ろしく、頬を掻くに留めて言う。

「ええと、その頬が怖いです」

「そっか。うん、わかった。じゃあ、もうちょっと待っててね。包帯替えてくるから。……蝶結びのまんまも何だか嫌だし」

「はあ……」

 ぽつりと最後に零した不満を聞き取り、愛想笑いともつかない表情を浮かべる泉。

 返事を受け、背を向けたモクは数歩来た道を戻って後、思い出したかのように足を止めて半身をこちらへ向けた。

 煙管でぴっと泉を差しつつ、

「ちゃんと待っててね? すぐ戻ってくるんだから。次は怖がらせないから」

「はあ……。あ、はい」

 懇願の訴えに呆気に取られた声を上げた泉は、じーっと見つめている――ようなモクの様子を受け、きっちり頷いてみせた。

 途端、モクから伝わるほっとした雰囲気。

 藍染めの背を見送りながら目を瞬かせた。

(今……何か、既視感みたいなものが…………?)

 正体の判別しない、すっきりしない感覚に眉根を寄せ、ふと視線を移した先は隣のワーズ。傾いだ身体を元に戻した男は、へらりとした表情を泉に向ける。これをただ見つめる、その頭が考え巡らせるのは、先程、ワーズに何か言いかけた己のこと。

モクへの既視感とは別の感覚に襲われた行いは、一体、何をワーズに告げようとしていたのか。続く言葉を求めて混沌の眼を見つめ続けても、そこで得られる情報は何もなく。

「泉嬢? あんまり目を開けてると乾いちゃうよ?」

 ふいに視界を塞ぐ、ひんやりとした温もり。

 もたらされた闇の中で瞳を閉じた泉は小さく頷き、しばらく考えるのを止めて、その手の感触に安堵の吐息を零した。

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