第13話 不用意な診察

 宣言通り「ちょっと」の時間で戻ってきたモクは、藍染めの着物はそのままに、見慣れた包帯姿で泉の前にしゃがみ――かけ、

「…………………………ねえ、店主」

「……なんだ?」

 中腰姿勢のまま、煙管を別の方角に向けつつワーズへ問う。

「あの人……具合悪そうだね。どうしたの?」

 言葉だけ取れば案じているようだが、口調はどこか嬉しそうだった。

 そんなモクの言う「あの人」ことランは、包帯を代えたモクを見届け、どこかしらへ消えていった看護師たちの声が届く度、苦しそうな呻きを幾度となく上げていた。こちらに背を向けてベンチにしがみつく今も、荒い鼻息を持て余している。

 と、自分が話題に上がっていると知ったのだろう、金の鋭い瞳が恨みがましく振り向いた。

 しかも、泉だけを捉えて。

 思わず悲鳴を上げかけるが、直前で赤いマニキュアの白い手に遮られた。阻む行動を受けた泉。だが、逆に助けを求めるように黒い服を握り締める。

 反し、金の眼に囚われたこげ茶の目は逸らすことも叶わず。

「だから泉嬢、刺激するようなことはしない。……モク、アレに鎮静剤打て」

「え、いいの?」

 顎だけでランを差すワーズ。

 この命令に応じたモクは、ぱぁっと明るい空気を周囲に撒き散らした。

 ランに怯える泉ですらぎょっとするほどの明るさだ。

「ああ。ボクが良いって言ったんだから良いんだよ」

「わーい」

(え……? よ、喜ぶところなの?)

 心底嬉しそうなモクの軽い足取りが固定された視界にやって来る。同じく、泉を射抜いたままの金の眼にも包帯巻きの男が映っているはずだが、視線は終ぞ泉から離れようとしない。完全にイった目つきのラン相手に内心で悲鳴を上げ続けること、幾ばくか。

「えいっ」

 気の抜けた掛け声が泉の耳に届いた。

 それから程なくランの眼が光を失くして澱み、泉の身体にも自由が戻ってくる。

 どうやら、モクが鎮静剤とやらを打ったらしい。

 とりあえずほっと息をつけば、唇にひんやりとした肌が触れた。

 驚いて目をぱちくり、口元から離れた手を追っていく。

 辿り着いたのは手の甲を頬に当て、背もたれで肘をついて笑う店主。

「わ、ワーズさん……」

「ん? どしたの、泉嬢?」

「……い、いえ」

 呼びかけたものの続けられる言葉もなく、泉は気まずさを払拭するように座り直す。

 ワーズはそんな様子を追求することなく、

「お前にしちゃ上出来だよ、藪」

 態度は横柄ながら、珍しくも人間ではないモクへ褒める言葉を投げかけた。

 彼の方へ顔を向けているのだろう、頬杖を止めて垂れた手が、そのまま俯いてしまった泉の視界に入って来た。合わせ、自身の唇に軽く触れる泉。何でもないことのはずなのに、ワーズの手の平に触れてしまった箇所だけが酷く熱く感じられた。

 自然と赤らみ潤む瞳に乗せられ、熱の部分を指でするりとなぞる。

 ぞくんっと這い上がる高鳴り。

 泉の肩が微かに震えれば、

(何を……意識しているんだろう、私)

 後悔と羞恥にきゅっと唇を結ぶ。息を吐いて、肩を落とし、顔を上げては、未だモクへと笑いかける隣を見やった。意識してもしなくても相手はワーズで、彼自身が泉個人を気にかけることなどないというのに。

 人間の括りでしか、泉を見ていないのに。

(……って、それじゃあまるで、別の見方をして貰いたいみたいじゃない)

 もしや、まだ恋腐魚の効力が残っているのではなかろうか。

 今となっては恥としか思えない日々が、走馬灯のように泉の頭を何度も巡る。乗じ、段々と赤みが増していく頬、煩くなる鼓動に、心の中だけで雄叫びに似た声を上げた。

(いや、いやいやいやっ!! 治ったはず! 残っていないはずでしょう!?)

 素っ頓狂な声音の確認に対し、ウンともスンとも言わない自分の胸が恨めしい。

 知らず、またも顔が俯いたなら、視界の隅に包帯巻きの手が見えた。

 どうやらモクが戻ってきたらしい。

 思わず、完治の状態を知る医者のその手をがっしと掴み、泉は顔を上げた。

 ――と。

「わわっ!? え、モク先生!?」

 至近に包帯巻きの顔面を捉え、慌てて手を離しては仰け反る。

 これへ不思議そうに首を傾げたモクは、仰け反った分だけ泉に近づくと、煙管を咥えたまま問うてきた。

「泉・綾音? どこか具合悪い? 顔が赤いけど熱があるのかな? お注射しようか?」

「い、いいいいいいいいいいいいい、いいえっ! そ、そうじゃなくてっ! あ、あの、モク先生、この姿勢じゃ辛いんで、もう少し離れて貰っても?」

「ああ、うん。はい」

 思いの外、素直に離れてくれる医者。

 奇人街に来てからというもの、自分の意見しか通さない輩しか見てこなかったため、自然と泉の口から「ありがとうございます」という礼が零れた。

「?」

 何故礼を言われるのか分からない様子のモクだが、深く尋ねるような真似はせず、改めて泉の前にしゃがんでは、彼女を見上げる位置で煙管を上下させた。

「んと。いらっしゃい、泉・綾音。お待たせしてごめんね? ちょっとしゅじゅちゅ中だったから」

「……しゅじゅちゅ?」

「んーん、手術」

「…………手術中、ですか?」

「そう、しゅじゅちゅ中」

「…………」

 ヒアリングには問題がないらしい。

 ならば深くつっ込む必要もないだろう。

 まあ、言い辛い言葉の並びではある。

(私の聞き間違いという線も捨て切れないし)

 一人で勝手に納得しといた泉は小さく頭を下げた。

「すみません、お忙しいところ」

「ううん。丁度終わったところだから大丈夫」

 モクはふるふる首を振り、次いで泉の手首をそっと取った。

 きょとんとする彼女へモクは何も告げず。

「んー……」

 首、頬と順番に触れられ、下瞼を捲られたところで診察されていると気づいた。

「え、モク先生?」

「はい。じゃあ、口を大きく開けようか」

 自ら「あーん」と声を発する医者に戸惑いつつも口を開けたなら、舌にひんやりした金属の棒が押しつけられ、ライトが口内を照らす。

 そこへ、ひょいと横合いから店主が顔を覗かせた。

「わぁ」

「泉・綾音、喋ったら駄目だよ」

「ふあ……」

 ぴしゃりと強い口調で言われ、間の抜けた返事が泉の喉を通った。

 一応、へらり顔を覗かせたままの店主へは、見るなという念を送って睨みつける。

 診察時、こうして興味本位のように覗かれるのは初めてではなかったが、大口を開けた姿を医者でもない相手に見られるのはいつだって恥ずかしい。それが異性ならば尚のこと。

 かといって、そんな思いを汲めるようなワーズではない。モクが「はい」と終了の声をかけるまで、白い面はじーっと泉を見つめていた。闇色の髪に隠れた混沌の瞳が、口の中を見ていたのか、目を見ていたのかは知れないが、泉は羞恥から素早く閉じた口元を手で覆い隠す。

「うん。異常なし」

 ほとんど道具を使わない簡単な作業で診断を下したモクは、口を押さえた泉を見やり、小首を傾げた。

「あれ? 泉・綾音、歯が痛いの? 虫歯は治療跡くらいしかなかったけど……」

 治療跡、の部分だけ、妙につまらなさそうに言う医者。

 手を離して「いえ」と首を振ったなら、「そう?」と煙管が円を一つ描いた。

 合わせて、ぷかり、包帯巻きの口と思しき箇所から輪を象った煙が宙を舞う。普通に出すのもコツがいる煙は、包帯越しから出たとは思えない、見事なドーナッツを広げては空中で霧散させた。

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