第14話 差し入れ

「それで、今日はどうしたのかな?」

 少しばかりくぐもった声。

 煙を追って上がっていた視線をモクへ戻した泉は、モクの後ろにいた店主の姿が消えていることに気づいた。

「店主? それなら、あっちにいるよ」

 言ってモクが煙管だけで示した先は、ランがいる方向。ギラつく金の眼に怯えながらも見れば、ぐったりと座席にもたれた人狼の後ろに黒い姿。どこか思案げな顔つきでランを見、顎を擦っている。へらりとした赤い口はそのままなので、一体何をしているのかと眉を顰める。

 ――と。

「値踏みしているのかな?」

 死角から聞こえてくるモクの声。

「ねぶ――――ぅひゃっ!?」

 見やった泉は、音もなくすぐ隣に移動していた包帯姿に驚いた。

 しかも、ランへ煙管を向けたままの医者は泉の肩に手を回し、ベンチの陰へ隠れるよう促してくる。自然、密着する形になるわけだが、突拍子のない行動に目を回す泉を尻目に、当のモクはどこかウキウキした様子でワーズの動向を見守るのみ。

「アレってニャン・ボンゲソだよね? 人狼で最強とかいう。そのせいで、色んな同族から狙われているって。」

「え、モク先生?」

(誰ですか、ニャン・ボンゲソって)

 内容からランを差しているのはわかるが、聞きなれぬ名を泉が尋ねる間もなく、うっとりした調子が続く。

「ああ、大変そうだなぁ。どこかに怪我していないかな? 店主、あの銃で頭と心臓以外、撃ったりしないかな? そしたら私の患者として、ちゃんと収容できるのに。もしくは鎮静剤が合わないとイイな。軽い拒絶反応が出てくれれば、しばらく私の患者として診ていられるのに」

 どことなく、医者の呼気がハァハァと荒いものになってきた。

 背もたれに掛けた手と泉の肩に掛けた手が、忙しなく指を動かし、掴んだ箇所を滑らかに叩く。危ない発言と荒い呼吸とくすぐったい動きに、泉が身を捩ったものかどうか悩めば、肩に置かれた手が泉の頬へ当てられた。

「!」

 ぎょっとすれば、反対側の頬に擦りつけられる包帯の感触。

「ああっ、堪らない! 手術しちゃった患者はどうせ、経過良好で減っちゃうからさ、リン・マーケセが入院してくれたらいいのに。きっと、彼を狙って幾人の人狼が来て、返り討ちにされちゃうんだ。そうしたら、いっぱい、私の患者が増えるんだぁ。人狼は治りが早いけど、狡月相手なら、司楼・チオの傷みたいなのがたくさんできるでしょ? それに司楼・チオは仕事中毒ワーカホリックだから通院しかしないけど、彼らならベッドに縛りつけても院内半壊させたりしないだろうし……あぁ、イイなぁ」

「ちょ、え、モク先生……」

 うっとりとした調子で語るモクに対し、頬を擦られる一方の泉は、戸惑いの表情を浮かべつつ眉を顰めた。素肌なら良いというわけではないが、段々、擦れる包帯によって頬が痛くなってきていた。逃れるようにして身を捩ったなら、気づいたモクが唐突に泉の方を向いた。

 ――至近のまま。

「わっ、モク先生、煙管!」

 泉の小さな悲鳴を受け、モクの顔につられて鼻にぶつかりかけた煙管が、ひょいと辿った宙を戻っていく。ふわりと香る、甘くもほろ苦い煙の匂いに、泉の喉がけほっと咽た。

「あ、ごめんね。私は患者を拾うのは好きだけど、作るつもりはないのに……不可抗力は仕方ないとしても」

 トリップの世界から返ってきたモクだが、さらりと吐かれた言葉は怖かった。

 ぞっとする思いで近い包帯面を見つめた泉は、ゆっくりと右手を持ち上げた。

「……泉・綾音?」

 強張った顔のせいか、それとも泉の右手が近づいたためか、モクが怪訝そうに名を呼んだ。

 しかし泉は無反応のまま、モクの頬へと指を滑らせる。途端、包帯下が硬直したものの、構わぬ右手はモクの頬を撫で、向かい合う形で更に指を進め――……。

「「ストップ」」

「はぇ?」

 モクと、いつの間にかベンチ越しにいたワーズの制止により、目が覚めたような面持ちとなる泉。握られた右手の感触にそちらを見たなら、煙管を目指していた己の手が、包帯と赤いマニキュア、二種類の手に止められているのを知る。

「…………?」

 とはいえ、目で見ても理解は及ばず。

「ちっ。妙なモノに触られちゃったよ」

 忌々しいと先に離れたのは包帯より先に掴んでいた、ひんやりとした温もり。嫌そうに手を振り、取り出したティッシュで自身の手を執拗に拭くワーズを横に見ても、泉の思考はぼんやりとしている。きゅっと包帯の手が握ったなら、寝起きの眼が今度はモクを捉えた。

「ごめんね、泉・綾音。私が不特定多数相手に夢想したせいで、どうやら君に煙の効果が表れてしまったらしい。危うく火傷をさせてしまうところだった……」

「あ、ああ」

 ここに来て自身の意識が虚ろとなった訳を察し、泉の意識が鮮明になった。

 絶えず煙を燻らせているモクだが、吐き出す煙をまともに吸ったのは今回が初めて。元より、自身の患者に意識のほとんどを向けている医者の煙では、人間が吸っても効果が表れるのは稀だという。

 その稀に引っかかってしまったと思ったなら、半分落ち込みかけ、

「……モク、先生?」

 手の平を撫で回す包帯の指を感じて首を傾げれば、慌てた様子で手を離したモクが身体をベンチから飛び退かせた。

「ち、違うよっ!? 惜しかったなぁとか思ってないし、どこかに火傷ないかなぁとか期待していないから!!」

「…………」

 必死にふるふる首と手を振り、本音を暴露していることに気づかないモクを、泉はなんとも言えない顔で見つめた。やるせないため息が零れ出れば、医者はまたしてもいらんことを言った。

「ほ、本当だよっ! 泉・綾音が私の患者になってくれたら嬉しい、なんて思ってないから! もういっそ大怪我させちゃおうかなぁ、とも思ってないんだからねっ!?」

 返せる言葉もない泉は内心で引き攣りつつ、別の話題に持っていこうとする。

「…………ええと、モク先生」

「ほ、本当だよっ!? 私っ、本当にっ」

 グーにした両手を両脇に置き、癇癪を起こした子どものような仕草で訴えかけるモク。泉は頬を掻きかき、ワーズやモクが座っていたベンチではない、もう一方の隣へと手を伸ばした。

 これにビクッと反応したモクが大きく下がり、

「……鞄?」

 泉が掲げた手提げ鞄を見ては、叫びを忘れて首を傾げる。

「はい。クッキーを焼いてきたんです」

 安心させるようににっこり笑いかけた泉が手提げ鞄の中身を漁ると、おずおず近づいてくる藍染の着物。

「クッキー……?」

「はい、モク先生。遅ればせながら、ご挨拶に」

 立ち上がり、袋を一つ手渡す。

 瞬間、包帯越しの雰囲気が明るくなり、いそいそと袋の中を開けた。

「うわぁ……美味しそう。ありがとう、泉・綾音」

 花が綻ぶような声音。不気味なモクの外見にも関わらず、つられて微笑む泉は、しかし、すぐに袋の口を閉じた彼の行動へ小首を傾げた。

「どう、しました?」

 喜んでいたようだったのに、気に入らなかったのだろうか?

 困惑する泉へ、顔を上げたモクはクッキーを両手に包んで言う。

「うん。後で皆と一緒に食べようと思って」

「皆……看護師さんたちのことですか?」

「うん。甘い物は疲れに効くからね」

「…………」

 本当に嬉しそうに袋へ頬ずりするモクに、泉は手提げ袋へと視線を落とした。

 黙考すること、約一分。

「泉・綾音? どうかした?」

 きょとんとしたモクの声に顔を上げた泉は、袋を二つ取り出すと、手提げ鞄を彼に差し出した。

「これ……皆さんでどうぞ」

「え、いいの?」

「んー? 泉嬢、それって他に届ける分じゃなかったっけ?」

 続くワーズの言のせいで、素直に受け取りかけたモクの手が止まった。

 おろおろとした表情の変わりに、煙管が泉とワーズを往復する。そんなモクへ再度手提げ鞄を向けた泉は、取り出した二つを抱えてワーズへ言った。

「大丈夫です。クッキーを詰める時、芥屋で済む分も入れてしまったので。挨拶回りも、あとは史歩さんとクァンさんだけですから、この二つで十分なんです。それに、シイちゃんの分も作っちゃいましたけど……死人が口にできるのは血液だけなんですよね?」

 頭に浮かぶ、光を思わせる頭髪、夜色の瞳の子ども。

 人魚の一件が終わってからというもの、一度として見かけていないことに不安はあるが、だからといって食べられない子どもにクッキーを作ったのは失敗だった。

 今の黙考がなければ、出会い頭にこれを渡していたであろうことは想像に難くなく、そうすると彼の子どもは食べられずとも受け取り、笑って礼を言うのだ、「ありがとう」と。

 泉は受け取って貰ったことにほっとするだけの自分を思い、苦笑を浮べた。

 シイのことだから、受け取ったクッキーは必ず、誰かの口に運ぶよう動くだろう。

 かえって気を使わせてしまうことを遅ればせながら予測すれば、皆で食べるというモクに渡した方が都合が良い。返事の代わりに、好きにしたら良いと肩を竦めるワーズを見、未だ受け取ったものか迷うモクへと向き直る。

「貰ってくださいませんか?」

「いいの?……本当に?」

「はい」

 しっかり頷けば、ようやく手提げ鞄が包帯の手へと渡った。

 早速中身を確認し、感嘆の声を上げるモク。

「なるほどね。人魚も母性だかに絆されるクチなのか」

「……ワーズさん」

 喜ぶ医者から店主へと視線を向ければ、白い目を迎えた白い面は、へらりと笑う。

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