第4話 クッキー争奪戦
焜炉近くにあるビルトインタイプのオーブンから取り出した角皿には、程好く焼けたシンプルなクッキーが並べられている。悪くない出来映えにほっとしたのも束の間、薄桃の服に白いエプロン姿の泉は、これを素早く台に上げ、
「駄目ですってば!」
ミトンを外す暇も惜しいと、角皿から外した取っ手で、伸ばされた白い手を容赦なく叩き落とした。
力が入ってしまったのか、叩かれた手はごすっと鈍い音を立てて、台の上をバウンドする。いつもは黒い爪の色が血で染まったような深紅だったから――というわけではないが、途端に泉の顔が青くなった。
叩いたばかりのワーズの手を慌てて取る。
その際、身体全部を押し付け、彼をクッキーから遠ざけるのも忘れない。
咄嗟の暴力行為に対して謝罪や心配はあるが、気を緩めてはいけないのだ。
相手の意地汚さは折り紙付なのだから。
「すみません、つい。……大丈夫ですか、ワーズさん!」
言いつつ、ぐいっと身体を押す泉。
結わえられた褐色の髪が牽制するように黒い衣服を叩いた。
手を取られたワーズは押された身体も厭わず、へらり顔をクッキーに向けながら、
「んー、駄目かも。ワーズ・メイク・ワーズは丈夫だけど痛みに敏感だからさ。あのクッキー、全部くれたら痛みも吹っ飛びそう」
「本当にすみません。でも、それは絶対駄目です! 何度目の正直だと思っているんですか!」
叫びに近い言葉と共に、押し止める足にも力を込める。
と、泉の肩に両手が置かれた。
何事かと顔を上げたなら、物珍しい真剣な眼差しがそこに在る。
「泉嬢……絶対駄目だ、って諦めたら、そこで全てが終わっちゃうんだよ?」
諭すような物言い。
一瞬呑まれかければ、隙をついた黒い帯締めの袖がクッキーを目指して動いた。
「なに、ぽいこと言ってるんですか! た、竹平さん!! この人、押さえるの手伝ってください!」
ワーズと比べ、背丈にしても力にしても分の悪い泉は、惚けた時間も合わせてじりじり押し返される身体で叫ぶ。この要請に、店番がてらぼんやりしていた竹平は、面倒臭そうに立ち上がった。
「はあ。往生際が悪いぜ、ワーズ。一緒に行くって約束したくせに」
ぼやきながらも、黒衣の脇下から濃紺の袖を通した竹平は、腕を折り曲げてワーズを羽交い絞めにした。見た目に反し、それなりに腕力のある竹平は、自分より上背のある男をずるずる引き摺っていく。
この間にも、ワーズはじたばたもがき、
「とても素敵なシン殿、何も言わずに離して」
「はいはい、泉が良いって言ったらな」
「泉嬢、エプロン姿、可愛いよ、似合ってるよ」
「はいはい、ありがとうございます」
割と必死な血色の笑みに、ぞんざいな受け答えをする二人。
色の違いや造りの男女差はあれど、ワーズ手製であるため、似通った衣服を着る泉と竹平は、これまた似通った疲労を浮べてため息をついた。
挨拶回りの手土産にクッキーを焼く。
発案者はもちろん泉である。
けれど、クッキーが完成したのは、発案から数えて一週間後のこと。
この一週間、実に様々なドラマがあった。
題して、クッキー争奪戦。
そのままのネーミングセンスはさておき。
泉対ワーズの攻防戦。
最終的に、飾りっ気のない丸型クッキーとなってしまったところから、泉の惨敗っぷりが窺い知れる。
事の発端は、泉が掲げた挨拶回りの相手にあった。
「……そんなに嫌なんですか、ラオさんのところに行くの」
冷めたクッキーをラッピングしつつ、呆れ顔の泉が問うたのは、ソファに寝転がるワーズ。決して自分の意思で寝転がっているわけではないへらり顔は、返事の代わりに後ろ手に縛られた腕を左右に艶かしく動かす。どうやら脱出を試みているらしい。両足同様、俗に言う「クソ結び」をしているため、そう簡単には外れないのだが、往生際の悪さは、泉の問いに是と答えたに等しかった。
ちなみに、この拘束を行ったのは泉と竹平である。
彼らが元居た場所では犯罪と認識される行為に、若干の後ろめたさはあるものの、諦めの悪いワーズを止めるにはこれしかなかった。クッキー一つに大袈裟な気もするが、毎度毎度、姑息な手段でクッキーが奪われ続けるため、ここ最近の泉は寝ずの番を強いられてきたのだ。穏便に済ませられる気力はとうに底をついていた。
最初にクッキーを奪われた時、泉は食い意地の張ったワーズのしたことと、あまり気にしなかった。それが数度に渡って続いたことにより、もしかしてと気づく。
いつかの日、ワーズはラオ・ヤンシーを何よりも毛嫌いしている、と聞いた覚えがあった。
実のところ、泉にとっても彼の老木は現在、複雑な立ち位置にいる。人魚に追われた夜の遭遇は、記憶を掠めるだけでもおぞましい。正確には、彼から離れた彼の一部の為したことではあるが。
かといって、挨拶回りから除外するわけにもいくまい。害された記憶は今思い出しても気持ち悪いが、助けられた憶えも確かにあるのだから。
では、クッキーを諦めれば良い――とはいかない。
何せ奪われたクッキーは、今更諦め切れるような数ではないのだ。
ここまで来たら、ほとんど意地と意地とのぶつかり合いである。
お陰で、恋腐魚により多少なりとも引き摺った、ワーズへの熱を昇華出来たのは思わぬ副産物と言えよう。逆に寝不足と単調作業からくるストレスで、度々、殺意が過ぎってしまっていたのは……致し方ないと流しつつ。
「ワーズさん……やっぱり他の人に頼んでみますね。付いてきて貰うのに、無理矢理は良くありませんし」
表面上はあくまで申し訳なさそうに、内ではこれ以上の争奪戦は御免だと、ラッピングの手を素早く動かしながら泉は言った。
ラッピングといっても、レース柄の小さな袋を色とりどりのリボンで縛るだけの簡易な代物。最後の一つをきゅっと結んだところで、泉は精神的にかいた額の汗を拭った。
ついでに、これでようやく寝られるはず、と見出した希望に吐息を一つ。
クッキーを手提げ鞄に入れて、さあ誰に同行を頼もうか、と考えた矢先。
「はあ……」
陰鬱そのもののため息がソファからやってきた。
感情だだ漏れのソレの大きさに驚いて見れば、裏腹の苦笑に迎えられる。
「ワーズさん?」
「……行くよ」
「へ?……ええと、一緒に行ってくれるんですか?」
「うん、もちろん。ラオのトコは嫌だけど、泉嬢が他に頼むって言ったら、クァンとかシイとかランとかでしょ? 話にならない連中ばかりじゃない――よっと」
掛け声と共に身を起こし、拘束は解けないままソファに座る姿勢となったワーズは、首をぐりぐり回す。
泉はワーズが口にした評価に困惑して眉を寄せた。ワーズが挙げた名前は、確かに候補として頭に浮かべた相手だが、
「話にならないって、どういう意味ですか?」
「んー? だってさ、考えても見てよ。クァンだったら、泉嬢、なし崩しでパブ勤め決定でしょ?」
「うっ」
言われてみれば、確かに。
芥屋の斜め下に位置するパブ経営者のクァン・シウ。
彼女は未だに、泉を自分の店で歌わせることを諦めていないらしい。恋腐魚の効果を受けていた最中でも、懲りずに何度勧誘されたことか。
そんな彼女を頼った日には、お礼と称して一曲歌うことを要求されそうだ。
何気なく口ずさんだ唄を褒められるのは、恥ずかしくとも嫌な気分ではない。
しかし、劇場仕立ての仰々しい造りの店で、大勢を相手に一人で歌えというのは、些か無茶が過ぎよう。
「で、シイの場合はさ、日中は大丈夫かもしれないけど、子どもなんだよ、アレ。力だって
「うっ」
呻いた泉が思い出したのは、
他者の生き血を糧とする死人の子ども・シイは、幽鬼から泉を助けるために身を呈し、危うく殺されてしまうところだった。
奇人街の住人は、幽鬼に力の面でこそ劣るものの、獲物へ一直線に向かう幽鬼とは違い頭が回る。徒党を組まれて罠にでも嵌められたなら、逃れる術はない。
シイ一人だからこそこんな街でも生きていける状況下、泉というお荷物抱えるのは、自殺行為に等しいだろう。
浅はかな自分を呪いたくなった。
「ランは、さ……夜って日中の比じゃないんだよね、お誘い。それに今はたぶん、アレらにとって、ランと泉嬢の二人だけなら、カモネギ、って状態だろうしねぇ」
「へ?」
シイへの配慮のなさを悔いる耳に届く不穏。
冴えない男、ラン・ホングス。
あれで一応、自身の種である人狼の中で最強を冠する彼は、やたらめったら同族の女にモテる。夜になると凶悪な容姿に変わるものの、中身は冴えないままなので、結局、女たちに纏わり付かれた挙句、お持ち帰りされてしまう。
――までは、本人には悪いが、イイとして。
「ど、どうして、私まで狙われるんですか?」
カモネギ――鴨が葱を背負って来る、という諺の意味は分かる。
分からないのは、自分がランとセットになってお得になる点。
ランを誘う相手は専ら女であり、総じて彼女らは男を求め、彼に纏わりつく。
それなのに同性の、ともすれば邪魔になりそうな小娘、狙われやすくなる謂れは見当たらない。
けれどワーズはソファに倒れるギリギリまで身体を傾け、
「んーと、ねー……。泉嬢に言っても無駄かもしれないけど」
「……なんですか?」
聞かされる前から無意味と断ぜられ、少しばかりムッとする泉。
いつも通り気にしない様子のワーズは、上体を戻してへらりと笑う。
「早い話が、シウォン目当てなんだよ」
「シウォンさん?」
思いも寄らない人名に泉の眉が寄せられた。自分が狙われている話だったはずが、いつの間にやら違う人物にすり替わっている。
これを泉は、ワーズの冗談と理解した。
最近よく聞く、からかいの類だと。
「……もういいです。とにかく、付いてきてくださるんですよね?」
思わせぶりな言葉を追求する気もせず、ため息混じりに確認する。
するとワーズも似たような雰囲気で首を左右へと振り、
「やれやれ。あの子も報われないねぇ……。うん、もちろん付いていくさ」
頷いたワーズは続け様、思いっきり口をひん曲げ、
「たとえ、あのクソおいぼれのラオ・ヤンシーのトコでもさ」
「……相当嫌いなんですね」
泉がぼそりと呟けば、にたりとワーズは笑みを返した。
嗤いもしない、模っただけの空虚な笑みではあったが。
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