第2話 噂の君

「にー」


「っっ!!!?」

 至極面倒臭そうに、泉にへばりついた猫が人狼へ金の瞳を向けた。

 途端、人狼の身体は金縛りに遭ったように止まる。

 振り上げられたままの腕の前で、目を閉じることも出来なかった泉は、こちらを緩慢に上から下と往復して見つめる人狼の挙動に目をパチパチ。

 と思えば、人狼は一歩、泉から後退した。

「お、前! 虎狼公社の…………シウォン・フーリの女!」

「や、違いますけど」

 人狼への恐怖もなんのその、そこはきっぱり否定しておく。

 わざわざ虎狼公社と言うくらいだから、この人狼は別の群れに所属しているようだ。だというのに知れ渡っている、勘違いも甚だしい己の立ち位置に、泉は状況も忘れて重々しくため息をついた。拍子に思い出したのは、芥屋の奥さんと呼ばれた日々のこと。

(ワーズさんにシウォンさんに、果てはエン先生が愛人って。これじゃあ、まるで)

「マ、猫使いの人魚!!」

 泉の心を見透かしたようなタイミングで、指を差した人狼が絶叫した。

 人魚=魔性の女=自分、という図式には辟易しながらも、横行していると思しき噂を並べたなら、否定したところで無駄かもしれない。

 ただし、“猫使い”の面だけはいただけない。

 すぐさま訂正を入れるべく、泉は「あの」と言いかけ、

(あ、れ……?)

 周りが異様に静まり返っていることに気づいた。

 指差す人狼を目の端に、ちらりと店内を見やる。

 いつだったか、シイとランを伴い訪れた、あの時。この店はまだ準備中で、劇場の造りにボックス席を配置した景観は、薄暗い中に重厚さを備えていたモノだが、営業中の現在は、そこに華やかな灯りが加えられている。だがそれは決して、店の内装を脅かす派手な色彩ではなく、見る者に幻想的な余韻を与える代物。

 ――は、置いておくとして。

 そんな灯りの下、店内では先程まで雑談や音楽が行き交っていたはずなのだが、今はシン……と静まり返っていた。

否、小声で交わされる話があった。


「あれが例の猫使い?……本当だ。本当に、人間だったのか」

「猫使い……てぇと、自分の餓鬼一匹助けるために、幽鬼他諸々、同族問わず猫に殺させたっていう?」

「いやいや、その餓鬼はお気に入りの玩具だって話だぜ。しかも幽鬼の徘徊する町に、てめぇで放しておいて、逃げる様を愉しんでいたらしい」

「お、俺が聞いた話じゃ、あの娘をからかったヤツは突然消息不明になって、程なくソイツの死体が凪海に浮かぶんだ……くわばらくわばら」

「私が聞いたのは、あの娘が凪海にいる時漁に出ると、必ず魚に喰われちまうって話だったわ。船で逃げようとしても、人魚が水中から腕を伸ばして引き止めるそうよ」

「比喩どころか、本当に人魚と通じているってか? そーいや、先の人魚騒動、あの娘の姿が色んなとこで目撃されていたってな。あの時の人魚は全部焼却されたって聞くが、するってぇとアイツは仲間を切り捨てたクチか」

「ワタシが聞いたところによると、あの娘は腕を収集しているそうだ。ほら、彼女の連れ合いのシウォン・フーリ。隻腕になった理由は、彼女に腕が欲しいとせがまれたからだと」

「おや? そいつぁ、あたくしの聞いた話と違いますわね? あたくしが聞いたのは、収集ではなく、腕を喰らうという話でしてよ? しかも種族問わず同族すら。おおこわ」

「そうそう、聞きまして? 芥屋の店主にシウォン・フーリ、ラン・ホングスの他にも、あの小汚い奇天烈人間やキフ・ナーレン、果ては中央の古木に至るまで、あの娘の手付きなんですってよ? まあ、芥屋の店主はギリギリ許容出来ますが、どう考えてもイロモノな輩まで網羅するなんて。……さすがは人魚といったところなのかしら?」

「しかも、あのシウォン・フーリが骨抜きと来た日にゃ……い、一度くらい、お相手願いたいモンだが、確実に死ぬよな」

「いいえ、それ以前の問題よ。だってあの娘、お手付きどころか、自分からは彼らに触れもしないって言うんだから。きっと、長い時間傍にいると、精神がイカレちゃうんだわ。それこそ人魚って感じがしないかしら?」


 ――等等。

(う、噂にしては、悪質な鰭が付き過ぎじゃありませんか?)

 人狼男の叫びに合せて好き勝手ざわめく客たちへ、泉は頬を引き攣らせた。その内に、物陰から覗く目と合ったなら、「ひぃっ!」と強面の人間外に恐れ戦かれる始末。

 ちょっぴり凹んだ。

 しかして、それも長くは続かず。

「………………………………………………………………………………人魚?」

 小さな呟きに合わせ、人狼の背後が赤く揺らめいた。

 ぎょっとした泉の視界では、俯くクァンが鬼火特有の炎を身に纏わせている。

 それも、いつも以上の火力だ。

 焦がすか焦がさないかの位置で天井を舐める、立ち上る火柱の熱さに気圧され、泉は人狼から大きく距離を取った。

「く、クァンさん……?」

 ワーズを相手にしている時よりも根深い負の激情に、辛うじて名前を口にしたなら、後ろから飄々とした声が届く。

「ん? 泉嬢は知らなかったっけ? クァンは人魚が嫌いなんだよ。自分の男を盗られたって思い込んでいるからさ。だからアレに、人魚って単語は禁句」

「わ、ワーズさん、いつの間に?」

 知らぬ内、人の後ろまで避難していた店主に身を捩る。

 と同時に、熱風がクァンのいる方向から巻き起こった。

「誰が、人魚だあああああああああああああっっっ!!」

「あ、アンタに言ったんじゃねぇよ!!?」

 引っくり返った悲鳴を上げる人狼に、クァンの炎が文字通りの牙を模り襲い掛かった。これを巧みに避ける人狼は、すっかり酔いの醒めた顔で出口から早々に店を出て行く。

「くそっ、逃げやが――って、ああっ!? しくじった! あの野郎、金払ってない! ああ、くそっ!! 食い逃げ呑み逃げ上等だコラァ!! 次、どっかで会ったら憶えとけ! チンケなカスも残らねぇほど、燃やし尽してやるよっ!!」

「く、クァンさん、柄悪……第一、逃げる原因作ったの、クァンさんなんじゃ?」

「ま、いいんじゃない? それでこの店が廃れてくれりゃ、ワーズ・メイク・ワーズは嬉しいくらいだし。尤も、今のヤツの顔、鬼ババアが憶えていられるとも思えないけどね」

「……聞こえているよ、糞ガキ」

 へっと鼻で笑ったワーズに、激昂を堪えた低い音が向けられた。

 今度はワーズが標的になってしまうのかと怯えた泉は、離れる代わりに黒い袖をきゅっと握り締めた。しかし予想に反し、再び目を合わせた鬼火は纏う炎を消し去った姿で、仰々しいため息をつくのみ。

「はあ……マジでしくじった」

「ククク。だろうねぇ、クァン・シウ。もっと早くアレを燃やしておけば、お前の企みもまだ実行の余地があったかもしれない……なんてことはないだろうけどさ?」

「へ? な、何のお話ですか?」

 掴んでいた袖を離して見上げれば、赤いマニキュアの指が店内を示す。

「泉嬢をココで唄わせるのが不可能に近くなったって話さ。ま、元々不可能には違いないんだけど。……さっき、人狼が猫を抱く君を指して叫んだでしょ? 奇人街ってのは場所柄、少しくらいドタバタしても誰も気にしない。殴り合いなら野次馬もあるだろうけど、一方的なモノや言い合い程度は日常茶飯事だからね。でも、全員が過敏に反応する言葉がある。それが、猫」

「にー」

 店内から移動してきた無遠慮な指先に、煩わしいと猫が鳴く。

「「「「「っ!!」」」」」

 途端、小さなざわめきが息を呑む音を経て、艶やかな色彩の下、異様な静寂が作られる。

 つられた泉までもが息を呑めば、クツクツ笑うワーズの代わりに、足下近くまである長い白髪をかきあげ、クァンが先を続けた。

「そうさ。しかも、猫は本来、こういう密室に来られないって話なのに、アンタと一緒なら大丈夫、なんて知られた日にゃ……。集客どころか、客なんて一人も入らないだろ? ほら、見なよ。出入り口にアンタがいるからじっとしているけど、連中、本当はアンタのいるこの店から出て行きたいのさ。――ってなわけで」

 おもむろに拳を握り、親指を立てたクァン。

 それをくいっと後方、出入り口へと向けて言った。

「帰っておくれな。アンタたちがいちゃ、商売にならないからさ」

「クァンさん……」

「……そんな顔しないでよ、泉。用があるんなら後日改めて、アタシがそっち行くから」

 自分がどんな顔をしているかは分からないが、苦笑するクァンを見るに、泣きそうな顔でもしているのだろう。

「……はい」

 静かに頷いた泉だが、手にした袋の感触を思い出し、コレを軽く握り締めた。

(クッキー……ここで差し出したら、迷惑、よね?)

 息をつく代わりに袋を持つ手を下げ、刺さる視線を背後に出て行く。

 と。

「……き、君、ちょっと待って!」

「ひゃっ」

 泉が扉に手を掛けたところで、逆の手首を軽く握られた。驚いて見やれば、先程まで蹲っていた少年が、不思議な瞳の色をこちらに向けていた。

(白目の部分が黒って初めて見た……)

 やや惚けた感想を抱く泉へ少年は構わず問いかける。

「君、あの時物陰に攫われていった子だよね? 白い爪の人狼に!」

「え……と、ああ、あの時。……見ていたんですか?」

 気安く声を掛けてきた割に、物陰からシウォンに連れられた際、見て見ぬ振りしたと思しき発言。自然と泉の眉間に皺が寄ったなら、

「あれ? アンタ、誰かと思ったらシェンとこの御曹司じゃないの」

「クァンさん、お知り合いですか?」

「え? まあ、知り合いってぇか……いや、それより話だったら外でしておくれ。これ以上ここにいられんのは」

「あ……はい、すみません」

 声を潜めたクァンの様子を受け、出て行く途中だったと思い出した泉は、

「…………あの、手、離して貰えませんか?」

「えっ!? あ、ああ、ごめん!」

 何かに意識を移していたらしい少年は慌てて泉から手を離した。

 と思えば、またも手首を掴んでくる。

「いや、そうじゃなくて、僕は君に頼みがあるんだ」

「へ? 頼み?」

「うん。……どうか、どうか僕を」

 ここでぎゅっと手首を掴む手に力が籠もる。

 華奢な指の力は泉でも簡単に振り払えるほど弱いが、反転した白目部分の中にある金の光には無下にできない力強さがあった。

 これに安堵してだろう、吐息を震わせた少年は言う。

「僕を、男にして欲しい」

「………………………………………………………………………………は?」

 一瞬、凍りつく空気。

 自分だけが作ったわけではないだろうその中で理解を拒む泉は、ぱくぱく口を開閉。そんな彼女の反応に、少年は真剣だった表情を段々弱らせ、瞬きを繰り返した。

「……あ、あれ? え、ええと……あっ! ち、違う! そういう意味じゃなくて!!」

 自分の発言がどう受け取られる類の代物か、遅れて気づいた少年は、手と首をぶんぶん横に振った。

 否定を為された泉は、ほっとして胸を撫で下ろし、

「僕を、騒山そうざんの識の峰まで連れて行って欲しいんだ」

(……ソウザン? シキノミネ?)

 初めて耳にする言葉に、泉の目が丸くなる。

 そもそも、何故、連れて行って欲しいと頼む相手が自分なのか。

「お願いだ、人魚。奇人街最強の猫まで操れるという君に、是非、頼みたいんだ」

「…………」

 人魚嫌いのクァンには決して届かない声量でそう言った少年に、泉は訂正より先に、軽いため息を吐き出した。

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奇人街狂想曲 妖精の章 かなぶん @kana_bunbun

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