第8話 噛み合わない思考
思ってもみない言葉に泉の握力が緩めば、するり、離れようとするワーズの手がある。その感触で我を取り戻した泉は、逃すまいと彼の手をしっかり握り直した。
「すみません、これくらいのこと散々してきたくせに、今更そう言われる理由が」
「ああ。御免御免。これからはちゃんと離れるね」
「じゃなくて!」
よいしょ、と泉を遠ざけつつ起き上がろうとする身を知り、ほとんど押し倒す勢いでワーズの肩に体重を乗せた。そのせいでバランスを崩したワーズの上に、再び覆い被さる格好になっても構わず、
「なんで私が、ワーズさんに触れられたくらいで嫌になるんですか!」
「泉嬢……発言が大胆じゃない?」
「っ、茶々を入れないで下さい!」
光源も分からぬ空間で、白い面に自分の影が掛かっているのを知った泉。ワーズの言と相まって、頬がかっと熱くなっていく。だからと逃がす気は更々なく、とっちめる思いでワーズを見つめた。
しばし絡む、こげ茶と混沌の視線。
へらり顔にため息一つ、折れたのは下敷きになった男の方。
「なんでって言われても、ねぇ?……強いて言うなら、経験? 何せボクは、幽鬼も避けて通るくらい、穢れた存在だからさ」
「穢れ……?」
意味が分からないと泉の首が傾いだ。
もう一度ため息をついたワーズは、ゆっくり上半身を起こし、頭に向け続けていた銃を離した。一拍遅れでワーズを押さえていた手を離したなら、黒い姿がやれやれと立ち上がる。埃を払った後、再度シルクハットの陰に銃口を押しつけたワーズは、傾いだ格好で笑った。
「そう。穢れ。んー……泉嬢ってさ、ボクのこと、どう思ってる?」
「へ……あぇっ!? ど、どうって!?」
突然の質問に、座ったままの泉は一瞬惚けた顔をするが、意を呑み込んだなら挙動不審に辺りを見渡した。
(何を言っているんだろう、この人は!……私は、何と答えるべきなんだろう?)
必要もないのに赤くなる頬で、動揺を隠さず真剣に悩む。
と、困惑と呆れが入り混じった吐息が届いた。
大袈裟にビクッと震え、ギクシャクした動きで顔を上げたなら、ワーズが吐息そのままの表情で泉を見ていた。
「……あのね、泉嬢? ボクの事、どういう種に属している者だと思ってる?」
(あ……。なんだ、そういう意味だったのね)
妙な早とちりを頬を掻き掻き誤魔化す泉。わざわざ言い直したワーズが、そんな己の心を察した可能性は綺麗さっぱり無視しつつ、
「ええと……え? に、人間じゃないんですか?」
遅れた理解へ目を丸くすると、ワーズは笑みの中に込めた困惑を一層強めた。
「一応、って言ってたよね、ボク」
「え……と、じゃ、じゃあ、人間でも良いんですよね?」
「そりゃ……まあ、もちろん? この上なく良いっちゃ良いけど……」
ワーズの濁す言い方に、泉の眉が貧相なハの字を描いた。
「わ、私、何か間違ってますか? せ、正解は?」
「いやクイズを出した憶えはないんだが……ねぇ」
どうしたもんかと迷う素振りを目にし、慌てて立ち上がった泉は黒い右袖をぎゅっと握った。
苦笑しつつワーズの首が傾げば、こつんと額に当てられる金属の感触。
銃を携えた手で、軽く撫でられたことに泉はきょとんとする。
大丈夫と宥めるような撫で方。
手が離れ、その箇所に触れたなら、握った袖の持ち主がふらふら動き出した。
我に返った泉は、袖を掴んだままワーズの後に続く。
「ま、いいか。……苦手って訳じゃないと思うよ、たぶん」
「へ?」
袖どころか腕を取ったところで、のんびりした声が耳に届く。
何のことだろうと軽く眉を寄せたのも束の間。
「泉嬢は……人から触れられるの、好き?」
「え? ああ、あの話のこと。……ぇえっ、わ、私!? わ、私は――」
ワーズの語りの意を解し、逆に質問された泉は、絡ませた腕へと落ちた。
薄桃の衣を覆う黒衣。
その視線を知ってか、するり、陰で伸ばされたひんやりとした大きな手。
手の甲を包まれて軽く握られれば、拳を作る形となり、泉の目が戸惑いに揺れた。
いつも通りの、突拍子のないワーズの行動だった――せいもあるけれど。
戸惑いの大半を占める相手は、触れる手を拒もうとも思わない自分。
それどころか、己から触れたいと思う、不埒な心。
やましい想いはなくとも。
「私は……」
心のままに頷きかけた泉は、ふと想像した。
たとえばこれが、別の相手だったら。
同性であっても、史歩やクァン、緋鳥であれば身の危険を覚えるところだが、シイ相手なら微笑ましいと思うだろう。
異性であるなら……とりあえず、芥屋の隣に住まう学者スエ・カンゲはない。
ランだったら酔っ払ったのかと正気を疑うし、司楼ならば用件を問うだろう。
相手が竹平なら――想像した途端浮かんだのは、泉が竹平の手を掴んで引っ張り回す場面。実際そんなことがあった憶えはないのだが、気弱な一面を知っているせいか、どうしても竹平をか弱く見てしまうようだ。本人には絶対言えない、言ってはいけない、察知されてもいけないことである。
怒れる美人の顔ほど怖いものはないのだと思えば、もう一人、浮かんだ相手があった。
シウォン・フーリ。
(……ないから。それ以前の問題だから)
帯締めの白い衣を纏う美丈夫が脳裏に過ぎった瞬間、泉は首と空いている手を軽く振った。今もって、泉の中でのシウォンは、猫目当てで自分を口説いてくる、本当は人間の小娘なんぞに構いたくない、プライドがもの凄ぉく高い人狼、だった。
仮に触れられることがあっても、泉は自身の持ちうる限りの力を使って拒むだろう。何せ、彼の狼首は傲岸不遜な態度とは裏腹に、接し方が俗っぽくもとても優しいのだ。それが彼女限定と思ってもみない泉は、ほだされた挙句にシウォンの願い通り、猫へ頼む己を重々自覚していた。男女間のやり取りに関して、相手は百戦錬磨の猛者で、こちらは問われて詰まるような小娘。最初から相手にならない負け戦、先手を打たれる前に離れるのが吉――と、その百戦錬磨を連敗させている無自覚少女は、拳をきゅっと握り締めた。
合わせ、思い出される包まれた手の存在。
ワーズから為された質問を今一度、口の中で転がす。
「……私は、時と場合によります」
卑怯とは思いつつ、偽りのない答えを出せば、包まれた時と同じ仕草で離れていく手。触れた理由も離れていく理由も語らず、「そう」とだけ返されたワーズの声に、泉は酷く心が揺れるのを感じた。
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