第7話 変わらない空間、変わったコト

 火傷をしたわけでもないのに、冷たく痺れる手へ息を吹きかける泉。涙目で黒い背を睨みつけるが、店側にしゃがんだワーズが振り返ったのは、ソファに座る竹平。

「そだ。シン殿も行くかい?」

「……いや、いい」

 泉が水責めを受けている間にソファの陰から移動していた竹平は、手と共に頭を振った。どうやら泉の絶叫が原因らしい。「み、耳が終わるかと思った」という呟きが小さく聞こえ、泉は何も聞かなかったようにそっと視線を逸らした。

 すると元凶から届く、のんびりした声。

「んじゃ、シン殿はお留守番で。あれ? 泉嬢、行かないのかい?」

「い、行きます! 言い出したのは私なんですから!」

 今の今まで人を拘束していた事実を忘れ去った口調に、半ば喧嘩腰で応じる泉。

 しかしワーズはいつも通り、「準備はいいかい?」と呑気に尋ねてくる。

 強い口調を不思議がることもない様子に、寝不足の頭も相まって、ただでさえ苛立ちやすくなっている泉は、無駄に元気よく返事をしかけ、

「……ええと、もしかして物置から?」

 立ち上がったワーズの手に黒い靴と白い靴を見たなら、怒気を呑み込んだ顔が少しばかり引き攣った。

 肯定を示して血色の口がへらり笑う。

 泉の頭に呼び起こされる、常では沈黙を保ったままの物置と呼ばれる扉向こう。

 広大な奇人街を移動するための手段とはいえ、暗色ベースの気味の悪い空間は、同じ用途で使う”道”と同じ色彩ながら、アレとは違い透明な通路の枠がない。加え、多種多様な物を引き込む性質があるとのことで、重力を無視して点在する品々が浮かんでおり、不可解な光景は記憶だけでも、十分不気味だ。

 しかし、挨拶回りにかかる時間やその他諸々、嫌がるワーズに無理を頼んだ引け目も加われば、泉に不平不満を言える口はなかった。

 ふらりと階段を登り始める姿に、泉は手早くクッキーを手提げ鞄へ入れると、竹平への挨拶もそこそこに、急いでその背を追いかける。



 物置の扉を開ければ、その先には記憶通りの空間が広がり、少しだけ落胆する泉。以前とは違う目的地なら何か変化があるのではないか、と淡い期待を抱いていたものの、不気味な色彩の空間も、扉より下方にあるワーズの姿も、見覚えしかない。

 何となくため息をついた泉が、二階廊下へ腰を下ろして白い靴を履いたなら、あの時同様、ワーズがひらひらと手と銃を振る。

「下りておいで、泉嬢」

 ここに唯一違う点があるとすれば、

「……えいっ」

 泉が自分の意思で下に落ちたことだろうか。

 前は猫に突き落とされた混乱で一杯一杯だった耳に、小さく届く音。落ちながら興味を引かれて追うと、上方、泉が落ちてきたと思しき芥屋の扉が遠く、閉まる光景があった。

(自動……なのかしら?)

 ぱたん……と完全に閉じた軽い音まで届けば、泉はワーズの方へ顔を向け、

「ふわっ!!?」

 ワーズを見上げるいつもの高さまで来たのに、地に足が着かず、身体がすっぽ抜けていった。思いも寄らぬ落下の続きに青褪める暇さえなく、

「おっ」

 さして慌てる様子もない声が、自身の膝の位置で泉の両腕を捉えた。

 ずるり、勢いに滑った手は泉の手首で止まる。

「…………!!」

 遅れてやってきた、声にならない悲鳴が泉の喉を衝いた。

 着地できなかった理由も分からず、涙目でワーズを見上げたなら、赤い口に銃を咥えた姿がある。

「ん」

 軽い掛け声と共に泉の身体が引き上げられた。ついた弾みを戻すように上げられた手が下がれば、透過したはずの空間に足が地面の感触を見出した。

 これを知ってか、放された手首。

 だが。

「――ぃやっ!」

 思わぬ浮遊感からすっかり怯えてしまった泉は、ワーズの胴にしがみついた。

 予測していなかった動きにより黒い衣がバランスを崩し、後ろへ尻餅をつく。

「ぁだっ――ととっ!!」

 反射で開いた赤い口。

 宙を舞う銃へ、ワーズは慌てた顔を見せた。

 押し倒す格好よりも、あまり見ないワーズの表情に驚いた泉は、丁度、自分の背後へ落ちようとする銃を知っては手を伸ばすが。

「触らないでっ、泉嬢!」

「!」

 銀の重みが手の平に伝わった瞬間、思いきり身体が引き寄せられる。と同時に、受け取った重みは掻っ攫われ、その銃口はワーズの頭へ強く捻じ込まれる。

 ワーズ自身の手によって。

「……わ、ワーズさん?」

 抱きかかえられるようにして、黒い肩へ頬をつける泉。

 俯く顔はよく見えないが、常時へらへら笑う口元はそのままに、荒い息が繰り返されるのを目にしたなら、泉はワーズの白い頬へおずおず触れた。

 ひんやりした肌に触れるなり、ワーズの身体が大きく震える。

「くっ…………ぅ……」

 吐き出される呼気。じとり、頬に押し当てた手に湿り気を感じれば、その手が泉の肩を抱く左手に取られた。

「ワーズさん……大丈夫、ですか?」

 滅多に見ない、具合の悪そうな様子を前に、自身の手を掴む彼の手を軽く握る。

 すると同じ強さで握り返され、泉の目が少しだけ見開かれた。

 縋りつくような、けれど拒むような、相反する力加減。

「ワーズさんて……人に触れられるの、苦手だったんじゃ……」

 ぽつり、泉の口をついた言葉。それは、今までワーズと接してきた中で、ぼんやり思っていた事であった。人間好きを豪語し、構える事を楽しむ反面、こちらから行動を起せば必ず表れる拒絶。

 ちらりと混沌の瞳を泉へ向けたワーズは、ぎこちなく笑いかけた。

「ん……ああ、御免」

 思い出したとでも言うように、ワーズの手がゆっくりと泉の手を離す。しかし、泉はワーズの手を捉えたまま、それどころか逆に、先程より強く彼の手を握り締めた。

「……泉嬢?」

 まだ息の荒いワーズが不思議そうな顔で、下から覗くように泉を見つめる。

 当の泉はワーズの手を握ったまま。

「どうして、謝るんですか?」

 顰めたくなる眉を抑え、平静を装って問うた。

 対し、ワーズは苦笑しながら、のほほんと言う。

「そりゃそうでしょ、泉嬢。だって、嫌でしょう?」

「何が――」

「ボクが触れるの」

「…………へ?」

 思ってもみなかった言葉に泉の目が丸くなった。

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