第9話 歩き方
そういえば、何故、着地できなかったのだろう?
黙々と不気味な空間を歩くワーズに続けば、そんな疑問が泉の中に生じてきた。
会話の糸口を探した結果ではあったが、考えれば考えるほど不思議に思い、
「ワーズさん、あの、どうして着地できなかったんでしょう?」
「ん? 何が?」
思ったままを口にしては伝わらない事実に、問われて気づいた泉は、羞恥から微かに頬を染めた。
「えっと、あの、物置に来た時の。ワーズさん通り越して」
「ああ、あれ? あれは……泉嬢が足場を意識してなかったからだね」
「意識?」
「そう。ここは”
言って、踏み出すワーズの片足。同じ高さにつくと思いきや、まるで落とし穴か何かがあるように、ずぽりと沈んでいく。
「ひっ」
通り抜けた感覚を思い出し、泉の喉が小さく鳴る。
ワーズの腕を絡めた手で締め上げたなら、沈んだ黒い靴が持ち上がった。再度同じ場所に下ろされる靴だが、今度は泉の足と同じ高さに留まる。
「ね?」
カツカツ、靴の踵で示したワーズがへらりと笑う。
安心させるような笑顔だが、反し、泉は青褪めた顔で更に強くしがみついた。
可笑しな空間という認識は元々あったが、ここまで危なっかしい場所とは思わなかった。一人で歩くことすら恐ろしく、ぎゅっと身を縮ませた。
しかし、この空間で唯一、触れても恐ろしくない黒一色は、そんな泉に構わず歩みを進めてしまう。
「わ、ワーズさんっ」
上半身だけ引き摺られていく不恰好に思わず呼べば、きょとんとした混沌の瞳に迎えられた。
「泉嬢? 何してんの?」
「な、何って」
「……もしかして、怖い?」
「あ、当たり前じゃないですか。落ちちゃうって聞かされて、安心できる人なんて」
「んー……じゃあ、はい」
あくまでのほほんとしたワーズの声。
だが、その行いは非情にも、しがみついていた泉の腕を振り払うものだった。
「ひっ!?」
慌ててバランスを取ろうとする泉だが、ワーズにしがみつこうとも踏みしめられていたはずの地面は、そこから消えていた。辺りには物が宙に散乱しているというのに、掛かる重力が行き場を失った足ごと、泉の身体を下に引き摺り込む。
(落ちる!?)
「ぃやあああああああっ!!?」
ぞっと冷える心のまま、引き攣った叫びが喉を焼く。
必死にワーズへ手を伸ばしても、笑う白い面は自身のこめかみに銃を突きつけるばかりで、支えようともしてくれない。
(見捨てられた……?)
愕然とした面持ちで見つめようが、眼前の男はこちらを向いたまま笑うだけ。
「っく!」
その態度を認めた途端、泉の内に沸きあがったのは。
絶望でもなんでもなく。
ただ、知りたいという思いだけ。
ワーズが、人間好きを豪語する彼が、泉を、人間を助けもせず見つめる理由を。
――知りたいと。
だから、惰性に落ちてはいられない。
ワーズに向けて伸ばした指を折り曲げる。
まるでそこに、何か引っ掛けられるところがあるように。
数度宙を掻けば、そんな泉の思いを汲んだかのように、何もない空間に指が掛かった。
「っ痛」
落ちた分だけ、地を掴んだ指を負荷が引っ張る。
脱臼しそうな痛みに、もう一方の手を指の先にある地へ叩きつける。
びたんっと響く音と痺れを受け、ずり落ちかけた指が立ち、立てた肘が宙ぶらりんの身体を引き寄せた。
もどかしい動きで足をばたつかせたなら、壁を蹴る感触。
その壁を靴の爪先で引っ掻くと、小さく足が掛かった。
これを支点に、まずは腕を乗せ、蹴っては逆の膝を乗せ。
半身を視覚では捉えられない地に乗せたなら、億劫な動きで這いずり、残りを引き上げた。
「く……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
うつ伏せを仰向かせ、荒い息を整える。
その内に、ひょっこりと高みの見物をしていた白い面が覗いたなら、浮かんだのは恨み言――ではなく。
「せ、生還しました……!」
「……泉嬢。怒る場面じゃないの、ここは?」
心底呆れた苦笑に迎えられ、落ちた感覚から抜け切れない震えのまま、泉は泣き笑いのような顔をした。
ゆっくり身を起こし、ふらつきながらも一人で立つ。
「だって……ワーズさん、ですから」
「怒らない理由になるの、ソレ?」
困り果て寄せられた眉。
まだうるさい心臓と呼吸を整えつつ、小さく頷く泉。
「たぶん、私の……人間のためになることだから」
きゅっと唇を結んでは、前を向いてワーズに苦笑を向けた。
「すみません」
「…………そこで謝るんだ?」
「はい、謝ります」
一見、無体な仕打ちのようだが、一番手っ取り早い方法だと、整える息の中で泉はワーズの行動の答えに至った。
今、自身が向かおうとしている先には、奇人街。
長らく芥屋に居て、ワーズに頼り過ぎていたから、漠然とした思いしか抱かなかったけれど。
自身が注意を怠れば、何の庇護が近くにあろうとも、心身を害する場所なのだ。
それなのに、泉はワーズに縋るばかりで、自ら立つことも忘れていた。
だから、ワーズは腕を払ったのだろう。
落ちても、何もせず、手を伸ばしても、見つめるだけ。
――導き出したこの答えは、泉にとって都合の良い、一方的な思い込み。
誰かにそう言われても構わない。
ワーズ本人から違うと言われたとて。
悪意の行動と取るのが打倒――だが、安易だろう。
見捨てられたと、あっさり頷けるほど、罵れるほど、ワーズの傍にいても。
見捨てられたと思えるだけ、ワーズの傍にいるのだから。
見捨てられたと結論づけられる理由がないのだ。
何より、本当に見捨てるつもりなら、泉が這い上がるのを待つ必要はない。
「…………」
小さく、ワーズから零れるため息。
様々な感情が入り混じったそれは、泉の息が整えられたのを認めるなり、彼女へ背を向け横に流れていく。呆れるに似て、どこか安堵したような、ふらふらした背の動きへ、泉は再度苦笑を浮かべ、
「ぉわっ、ま、待ってください!」
我に返り、つんのめるようにして横に並んでは、振り解かれた腕にもう一度しがみついた。
ちらり、一瞥する柳眉が上がる。
「……泉嬢。しがみつくの、止めたんじゃないの?」
「それとこれとは話が別です。ちゃんと自分で立てるし、歩けるようになりましたけど……。やっぱり、こっちの方が安心するんです」
「そ。……ああ、何かあったらボクを盾にするんだっけ?」
いつぞや、物置内で腕を絡めた泉が口にした言葉を、楽しそうになぞるワーズ。合点がいったと前を向き笑う顔へ、泉は同じ方向へ視線を向けつつ、
「それは昔の話です。今だったら、ワーズさんと一緒に逃げますよ」
「……ふーん?」
シルクハットの下、闇色の髪の中から混沌の視線を感じても、視線は前に。
「だって、こんなところに一人残されても困りますし。ここ、偏屈だからワーズさんしか使えないって聞きました。それなのに離れたら、迷子確定じゃないですか」
表では憎まれ口をききながら、裏ではまるで別の事を思う。
この空間に限らず、あなたを犠牲にして、私が得られるモノなんてないんです。
失うモノの方が大き過ぎる――と。
素直に言っても、どうせ捻くれた捉え方しかしてくれないだろうから。
もちろん、ストレートに言う恥ずかしさもあるけれど。
なればこそ、仮初を口にしようとも、目線を合わせられず、捲くし立てるような語りしかできず。
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