第13話 盾役

 無事、ラオにクッキーを渡し終え、ワーズに引き摺られるまま場所を移動した泉。トボトボついてきたランに気づいたなら、今度は彼にクッキーを渡そうと思い至る。

 ――が、その前に。

「わ、ワーズさん、そろそろ腕が痛いんですけど」

「ああ、ごめんごめん」

 今初めて知ったという顔つきのワーズは、泉の腕を離し、未だ残る不機嫌を奇妙に歪めて笑った。

「痛かった?」

「いえ、大丈夫です」

 泉の言葉に嘘はないが、遅れてやってきた痺れを受け、腕を揉み解すように擦る。

 最後に手首を一回し。

「そうだ、ランさん」

「はい?」

「っ!」

 向き直った泉の視界に飛び込む、凶悪な面構え。

 睨まれているわけではないと知っていても、どうしても恐ろしさが先立つ。移動した場所が薄暗い街灯の下だったせいもあるだろう。程よくついた陰影の相乗効果で、ランの相貌はいつも以上に生命の危機を感じさせる仕上がりになっていた。

 怯む喉の震えを感じつつ、泉はなんとか笑みを引っ張り出す。

 半歩ほど、退いてしまった足はなかったこととして。

「実は」

「そうだラン。丁度良いや」

 ところが、またも被せるように口を挟んでくるワーズ。

 あからさまな妨害を受け、泉の眉が怪訝に寄った。先程は毛嫌いするラオを優先することで、早く終わらせたかったと理解したものだが。

 そういえば、どうしてワーズはあそこまでラオを嫌うのだろう?

 不意に思い、浮かんだのはもう一人、ラオの名に怒り狂った人物。

 見た目は人間そのものの赤い髪の中年男。だが、彼が怒りに身を任せた時、泉の感覚は彼を人間ではない別の種族と捉えていた。

(…………? 似た姿って、さっきラオさんのお話に出てきた――)


「るぅわんちゅあーんっ! お久しぶりねぇん!」


「どわっ!!?」

 泉の思考を妨げるようなタイミングで、長身のランの背後から突撃する影。腰を狙ったと思しき襲撃に大きく仰け反った身体は、相手を認めるなり思いっきり突き飛ばして離れた。

 対し、受身も取らず地面に転がった襲撃者は、よよよよよ……としなを作り、架空のハンカチを噛んで引き延ばす。

「ああん。どうして君はつれないんだい、マイハニー」

「だ、だだだだだ誰がぁ!? キフ・ナーレン、気色悪いこと言うな!」

 泉が頭に思い描いたせいでもあるまいが、襲撃者の正体は赤い髪の中年男・キフ。

 ランから蔑ろにされた彼は、めげる素振りも見せず、横座りのまま両手を広げ、「カモーン」と分厚い唇を泉に向かって突き出した。

 否、正確には、襲撃のどさくさに紛れ、泉を盾にしたランへ向けて。

 両肩に置かれた黒く鋭い爪や、振り返れば間近にある強面は心臓に悪いものの、本気で嫌がる様を無下にもできない。

 どうしたものかと頬を掻けば、手提げ鞄が揺れ、クッキーの存在を思い出した。

 クッキーは思いついた相手全員分を焼いており、その中にはキフも含まれていた。 芥屋に避難しに来るランとは違い、キフは神出鬼没、且つ、去り際も大概慌ただしい。今を逃せば後で探し回ることになるかもしれない。

 そう思えば、盛り上がる二人の間で戸惑いつつも、泉は袋を一つ手に取ると、熱烈ラブコール中のキフへこれを差し出した。

「あの、キフさん。こんばんは。これ、お一つどうぞ」

「ん? おお、誰かと思えば我が娘」

「えっ!? そ、そうなの泉さん!?」

「いえ、違いますって」

 クッキーを受け取りつつ今になって泉の存在に気づいた様子のキフと、彼の言葉を真に受けてショックを示すラン、それでも離れない爪に頭痛を感じたなら、視界に黒い足が現れ、袋を開けようとするキフの手を蹴りつけた。

「ぃだっ!? な、何をするんだね!?……おや店主、君もいたのかい」

 両手を振って見上げるキフへ、飛ばしたクッキーを手にしたワーズは、へらりと笑ったまま「けっ」と短い返事をする。

 これへ片眉を上げたキフは、次いで首を傾げて問う。

「お嬢さんと一緒ということは、何か彼女の用事なんだろうね……けど、人間好きの君にしちゃ、ずいぶん苛立っている様子。珍しいね?」

「ああ。泉嬢が挨拶回りしたいってさ。このクッキーを配るために、ラオのところに行ってきたんだよ」

「!」

 舌打ち混じりにクッキーをキフへ投げつけるワーズに、泉の顔が強張った。

 ラオの名は以前、キフの逆鱗に触れて泉の呼吸を奪っている。仕組みはわからなくとも、一度自覚した息苦しさは、自然、泉の手を喉へ宛がわせた。

 ――だが。

「……そう。よく行けたねぇ。さすが人間好きを自称するだけのことはある」

「はっ。お前みたいな変態に褒められても全く嬉しくないね。寧ろ恥だ」

「うわっ。人が褒めてあげたっていうのに。ちょっとお嬢さん、聞いた? なんて酷い子だろうね、この店主」

「……はあ」

 同意を求められても満足に答えられず、泉は惚けた返事をした。

 てっきり前と同じ状態に追いやられると思っていただけに、肩透かしを喰らった気分で頬を掻く。

 するとキフの青い眼が苦笑でもって泉を見つめた。

 自分に向けられたと思ったらしいランの「うえっ」という声を聞きつつ、泉はキフの視線の意を呆れと捉えた。

 困った子だと言われた気がして。

 居心地の悪さを感じていれば、袋を開けたキフが「あらまぁ」と笑った。

 一転したニコニコ顔でクッキーを一つ頬張り、「美味しいよ」と褒められる。

 社交辞令だろうと、そう言って貰えたことに泉はほっとし、

「いつまで引っついているつもりだ。冗談は顔だけにしとけ」

 刺々しい言葉と共に肩が少しばかり後ろへ仰け反った。併せ、何事かと視線を後ろへ向けたなら、赤いマニキュアの白い手に顔面を押さえつけられたランの姿がある。苦しい体勢を維持するつもりもなく、姿勢を正した泉はそのまま振り返った。

 ワーズの背を挟んだ向こう側に、尻餅をつくランを認め、数度瞬き。

「泉嬢。そろそろ次行かない? ランもいるし、シウォンのトコで良いでしょ?」

「!!? はあ!? ちょ、ちょっと待て、ワーズ! なんであの人のトコに俺がついていく話になってんだよ? そりゃあ、二人について行けば彼女らから誘われる面倒は避けられるけどさ」

 小さくなる本音の部分に、だからついて来たのかと納得する。

 一度、ランと共に奇人街を歩いた事があったが、絡みついてくる視線は在っても、実際に絡んでくる女はいなかった。

(ランさん……苦労しているのね)

 完全な虫除け扱いに害した気分もなく、逆に同情の念が強まれば、

「第一、泉さんをあの人のところになんて、連れて行けるわけないだろうが!」

 勢い良く立ち上がったランがワーズの襟を掴み、歯を剥いて怒鳴りつけた。

 頭に齧りつきそうな鋭い歯の陣列に怯む泉とは違い、黒い爪を躊躇いなく振り払ったワーズは、自身の頭を銃で傾がせた。

 表された意は、お前の意見なんか聞いてない、だろうか。

 飄々とした雰囲気に一瞬、ランが言葉を失った。

 再度、皺を寄せた凶悪な鼻面が口を開こうとすれば、まともに見た泉の喉が短い悲鳴を上げかけ、

「おっ――ひゃあっ!?」

 恫喝の低さから一転、裏声の甲高い音がランの身体を大きく横に跳ばした。

 急な動きに対処しきれなかった足がステップを踏む。

 そのまま身体の向きを変えたランは、尻を押さえつつそちらを睨みつけた。

「キフ・ナーレン! 何しやがんだ、あんた!?」

「もちろん、愛しい君とのスキンシップをだね」

「……いつの間に?」

 思わず、先程まで中年がいた背後を振り返った泉は、その姿がないのを認めて視線を前に戻す。

 埃を払う要領で尻を擦るへっぴり腰の眼前、豪奢な指輪を全指に付けた手が妖しく蠢き、赤い髪の下で分厚い唇がにたりと笑みを浮かべた。

「ふっふっふっ……。なかなかイイじゃないか。やはり、常日頃鍛えられている子は違うねぇ。おじさん、普段は攻めだが君相手なら受けもやぶさかではないよん」

「ひっ!?」

 キフの足が一歩ランへ近づいたなら、凶悪な面構えとは裏腹に金の目に怯えの涙が浮かぶ。大袈裟に仰け反ったその足で、引き剥がされた泉の背にランが舞い戻ってきた。

 再びの完全な盾扱い。

 不満は呆気に取られるばかりの泉ではなく、ワーズの口から出てくる。

「ラン……また泉嬢に迷惑をかけるような真似をしやがって」

 これを無視したランは、引き剥がそうとする手から逃げつつ、泉本人が何も言わないのを良いことに、情けない叫びをキフへと放った。

「寄るな、この変態! 相手だったら余所で探せ! 尻尾に触るんじゃない!」

(…………尻尾?)

 聞き捨てならない単語に、泉の視線がランの背後、キフに触られたと思しき箇所に寄せられた。ワーズとキフを警戒するランは、大きく身を捩る盾の行動に気づかない。

 言われてみれば、ランの腰帯の下辺りにそれらしき膨らみがあった。ランが激昂しているせいか、連動して小刻みに揺れているようにも見える。

「…………」

 ランとキフ、果てはワーズまでも加えた三つ巴の言い争いの蚊帳の外で、泉は密かな葛藤を抱いた。

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