第2話 芥屋の奥さんの愛人

 クァンの想像では扉を開けた瞬間、異様な熱気とニオイが襲ってくるはずだった。

 が、実際に迎えたのは、廊下とは対照的に薄暗い室内だけ。

「そーいや、換気設備が整ってたんだっけ、ココ」

「うん。じゃなきゃ、さすがの私でも窓を開けるよ」

 うんざりしたようにそう言ったモクは、形式だけの断りを入れると、一直線に患者が寝ているはずのベッドへ向かい、

「わぎゃっ!?」

 暗がりの中で何かに蹴躓き、盛大に転んだ。

 受身も取らず、両手を上げた格好で倒れるモクへ、ベッドの上から声がかかる。

「あらあら、大丈夫、ボクぅ?」

「ちゃぁんと下を見なくちゃ。で、ついでにソレ、片付けちゃって?」

「あと、こっちのもお願いね?」

 そうして手軽に投げられたブツは、比例しない重みで地を打った。

 廊下から差す光の下、白い床に広がるのは、今しがた流れたと思わしき血と――千切れた肉塊。

 暗がりの中で起きたモクは、座り込んだまま後ろの惨劇を見て、

「……またか。これで何体目だろ? シウォン・フーリ。お願いだから、私の病室を汚さないでくれ。掃除が面倒なんだよ」

「ああ。何ならコイツらに掃除させようか? 隅々まで舐めるように」

 どっこらせと立ち上がるモクへ、女たちとは別の艶めく低い声が、同じベッド上から投げられた。

 次いで上がる、「いやん」だの「えー」だの非難ぶる嬌声。

 応酬に呆れるだけのクァンを放り、裾を払うモクはため息をついた。

「冗談じゃない。勝手に実行された時、本当に舐めてたんだよ。しかも全裸で。全く、君の病室で大人しくしてる分には、私も手を出さないつもりだったのに」

「え……手、出したのかい、アンタが?」

 これには驚き、つい、会話へ参加したクァン。

「見舞い……てめぇか、クァン」

「よっ。見舞いの品はないけどね」

 薄暗い病室の奥に配置されたベッドへは片手で挨拶を済ませ、興味津々にモクを見る。すると彼は、片付けを頼まれたソレの状態を観察しつつ、

「院内はいつも清潔が望ましいから、掃除に巻き込まれて死んじゃったよ」

「あ、そういうこと」

 艶のある話を聞かない相手だったため、幾らか期待したクァンは残念そうに肩を落とした。そんな下世話な感傷なぞ我関せず、モクは転がるブツの傍らにしゃがみ込み、引っくり返したり、持ち上げたり。

「さて。こっちは羽渡ワタリ?……ああ、顔が半分抉れてるからか。それでこれは……合成獣キメラ。要素は……ふーん。……喰いかけだから、値段は落ちるけど……虎狼ころう狼首ろうしゅの手つきなら、別のトコで売った方が高く売れるか」

「別のトコ? アンタ、卸してる特定の場所があったのかい?」

 患者に過保護とはいえ、死んだ者の末路は他の医者と変わらないらしい。

 奇人街では普通のことであるため、クァンは別に惹かれた興味へ首を突っ込む。

 そこへ、呆れたからかいが為された。

「……お前、俺の見舞いに来たんじゃねぇのか?」

「うっさいなぁ。イイじゃない、別に。見舞いの必要ないくらい、色々元気っぽいし。ああ、でもコレは返しとく。穴の近くに落ちてたから、拾っといたの」

 そう言ってクァンがベッドへ投げたのは煙管。宙に幾度も円を描くそれを受け取るため、右腕に纏わりついていた女が無造作に払われた。ベッドから弾かれた女は、しどけない姿で、またシウォンへ手を伸ばす。

 青黒い艶やかな毛並みの人狼は、女の勝手を見もせず、乳白色の爪を持つ手の内で、器用に煙管をくるくる回した。

「そうか……アイツと落ちた時に」

 暗がりの中で、鮮やかな緑の双眸が、何かに思い耽りゆらゆら揺れた。

 ほとんど捨て置かれた状態に、さして気にした様子もなく、重傷であるはずのシウォンのベッドに居座る女たちは、各々好き勝手に彼の身体へ絡みついていく。

 見るとも為しに見た、色々元気っぽい様子にはため息を吐き、それゆえもたらされた惨状へと視線を戻すクァン。

 飽いたら同族以外、腸を喰らう彼の逸話は、左腕を切り落とされても健在らしい。

 今回は周りの女たちも食に加わっているようで、損壊の度合いがいつもより酷かった。虫でも湧いていたなら眉を顰めるところだが、元より奇人街生まれ、一度は口にしたことのある食材たちに、クァンが特別思うコトなぞありはしない。

 ゆえに、シウォンとのやり取りの最中でも、黙々とブツの傷み具合を調べ、妥当な値段をメモへしたためるモクの返答を待つ。

 恍惚を浮べた顔半分から、中身をギラつかせるブツを眺めつつ。

 ――数分後。

「うん。奥さんのところ。芥屋シファンクの」

「……奥さん?」

 こちらを見ないモクの、あまりにもマイペースな言葉にクァンは首を傾げた。

 別段、質問した内容を忘れてのことではない。

 彼の返答が腑に落ちなかったからだ。

 芥屋という奇異な場所にも首を傾げるべきだが、先に述べられた呼称の方が気になっていた。芥屋の、と付くくらいだから、その”奥さん”とやらは、芥屋の店主の伴侶を示す……はず。けれど、あの店主をそういう対称として受け入れられる、けったいな物好きなぞ会った憶えがなかった。

 つい最近、件の芥屋へ行ったクァンが断言するのだから、間違いはない。

 ……ある一点を除いては、だが。

 ちらりと掠める嫌な予感を見送れば、そこは無視すんなと舞い戻った予感が、モクの口を借りてクァンの頭を殴りつけた。

「そう。今、私の患者やってる、いずみ綾音あやおと、芥屋の奥さん」

「「はあ!!?」」

 クァンとシウォン、双方の眼が丸くなった。

 驚きに収拾がつかず、判別もつけられない混乱へ、モクはしれっと告白する。

「でね、好きになったから、愛人にして貰っちゃった」

「「なっ……だ、誰が許した!?……まさか!?」」

 片足で地を叩くクァンと、女どもを跳ね除けて身を乗り出したシウォン。

 それぞれ思うところはあれど、まさか、という言葉に続く人物名には首を振る。

 何せ、彼の店主は人間好きで通っている反面、人間以外を徹底して嫌う節があるのだ。全身包帯巻きのせいで、何の種族かさっぱり分からないモクだろうとも、人間を自称する割に鼻の利く相手では、嫌味な門前払いをされるのがオチ。

 だが、モクは包帯の面を上げ、傾けた。

「最初は奥さんに言ったんだ。お嫁さんにしてくださいって」

「「いや、違うだろ」」

 呑気に語るモクへは驚きつつも、仲良く否定はするクァンとシウォン。

 しかして、モクは全く気にする素振りもなく、

「そうしたら、イヤって」

「まあ、当然だろうな」

 しゅんとするモクに対し、何故かシウォンが愉悦に満ちた顔で頷く。

 これを、少しばかり憐れんだ瞳でクァンは見つめ、

「じゃあ、愛人にしてくださいって言って」

 めげないモクの突拍子のない発言に呆れた。

「……アンタはどういう思考回路してんだい?」

「そうしたらね、それならワーズさんに聞いてくださいって」

「…………何故?」

 ワーズという名に過剰反応を示したシウォンは、またそぞろ近寄る女を払い、ベッドからモクを睨みつける。

 鋭くも歪んだ視線なぞ気にせず、モクはしばし沈黙、のち、

「そうしたら、店主がね、泉嬢に聞けって」

「……おいっ!」

「堂々巡りだねぇ」

 綺麗に無視されたシウォンは憤り、クァンはやれやれと首を振る。

「でも、奥さん、じゃあお好きにどうぞって言ってくれたから」

「……愛人になったと?」

「そう、愛人」

 クァンが首を傾げたなら、モクも鏡のように首を傾げる。

 このやり取りで大体のことを把握したクァンは、哀愁漂う苦笑を零した。

 が、約一名、全く理解も納得できない人物は、その瞬間に、ベッドから猛獣よろしくモクを襲う。

「ぎゃあっ!!? シウォン! アンタ、せめて下に何か巻いて!」

 商売柄、その辺に掃いて捨てる程度の男の身体には動じないクァンだが、数多の女を酔わせるという曰くつきの体躯には耐性がないらしい。

 けれどシウォンは、真っ赤に染まりそっぽを向くクァンなんぞお構いなしに、右手一本で締め上げたモクへ怒気をぶつけた。

「ふざけるな! 何が奥さんで愛人だ! しかもワーズのだと!? あの小娘は――泉は、俺の女だ! 話を通すなら、まず俺にしろ!」

「ぅ……ぐぅ? し、シウォン・フーリのっ、お、奥さんっ?」

「っ!! そ、そうだ……泉は俺の…………っ」

「……なんでそこで赤くなるのかね?」

 逸らしつつも誘惑に負け、シウォンをちらりと覗き見たクァン。

 客商売ゆえ分かる、本来人狼同士でしか分からない赤い頬を認めては、そっとため息を零す。本人不在の妙な修羅場は、そんなクァンすら無視し、シウォンの下で喘ぐモクに新たな展開をもたらした。

「じゃ、じゃあっ、私、愛人に、してっ!」

(……この時点から見たら、絶対勘違いする台詞だね)

 背後の光景は見ず、音声だけを耳にするクァンは、どうしたものかとしばし迷う。

「断る!」

「ぐっ」

 その間にも、首の拘束が強まったらしいモクの呻きが上がった。

 ふと、クァンはあることを思い出して振り返る。

「あ、そうだ。シウォン、知らないみたいだから言っとくけど、モクセンセーをあんまり虐めると――」

「りゃっ」

「うっ!?」

 ぷすっとシウォンの首に刺さる注射。

「……遅かったか」

 白い髪をかき上げたクァンは、注入された薬により、動けなくなったシウォンの頭上にしゃがんだ。

 一足先にシウォンの下から脱出したモクは、服を払いつつ文句を言う。

「よくよく考えたら、奥さんは好きにしてイイって言ったんだし、患者とはいえ、シウォン・フーリに了解得る必要ないじゃないか」

「ぐっ……!」

「……そんな目で睨まないでよ。あのね、モクセンセーの痺れ薬は強力なの。なにせ、奇人街の住人を患者として、治るまで長期拘束する人なんだから。だから、気に喰わないってだけで、餓鬼みたいに手ェ出したら、そんな風に自由奪われんの。お分かり?」

 ちょいちょいと頬を突っついても、噛みつくことさえできないシウォンは、クァンとモクを睨みつけるだけ。

 あまり自分の優位を見せつけると、あとのしっぺ返しが怖いと考えたクァンは、さっさと帰るべく立ち上がった。以前、似た状態のシウォンをからかったものの、あの時は、奇人街の住人が恐れる影の獣・猫の為した所業だったからだ。それが今回は格下相手にこんな姿を余儀なくされ、挙句、モク同様格下のクァンからコケにされたと来た日には……。

 自分の想像がちょっぴり怖くなったクァンは、倒れたシウォンを回収する女たちを横目にモクを呼んだ。

「センセー。見舞いも終わったし、帰りたいんだけど、アタシ」

「あ、うん。分かった。でもちょっと待って。どうせなら、コレ、売りに行きたいから」

「へーへー。じゃあ、玄関にいるから」

 後ろ手で包帯男へ手を振る。

 入る時と同じく、出る時にもモクの許可が要る診療所のシステムには、面倒を感じつつ、玄関へ歩を進め、

「そだ、シウォン。お大事に」

「っ……!」

 苛立つ気配を受け、クァンの足が少しだけ速まった。

 だが、考える頭は別に向けられており、

(帰り……寄ってみるかな?)

 脳裏に浮べた、芥屋の”奥さん”と称された少女へ、クァンは小さく首を振った。

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