第12話 湯上がりの芳香
最近、ワーズは冗談を口にする。
たとえば今だったら、バスルームへ向かおうとする泉へ「一緒に入ろうか?」と。これに勢いよく首を横に振ったなら、「そお?」と楽しそうに笑う。
――けれど。
(アレって、たぶん、私が元に戻っているかどうか、確認しているんだよね……)
風呂上りの火照った身体を拭きつつ、泉は思う。
以前の状態であれば、自分から喜んでソレを実行しようとした記憶のある泉。先程のやり取りとて、綾音泉としての意識が少しばかり勝るがゆえに拒めたのであって、内実はかなり乗り気であった。
もう少しで終わる症状とはいえ、危険過ぎる自分の考えへ、ひんやりした寝間着に袖を通す傍ら、熱っぽい吐息が泉の唇を湿らせる。
この症状に陥ってから、ワーズと接した記憶が告げていた。
多少の語弊はあるが、泉をこんな身体にした当人が一番動揺している、と。
感じ取ったのは、不安や戸惑い、恐れ。
恋腐魚がどういう代物か、知った上で扱ったのだから、まさか症状に関してではあるまい。
……仮に、もし症状が原因なら、泉が居た堪れない。惚れ薬と称される品を使用したくせに、最初からこちらに関心がなかった、と言われているも同然の仕打ち。
ワーズを不気味と思うことはままあれど、好き嫌いで表すなら、泉は決して彼を嫌ってはいないのだ。それなのに嫌うどころか、関心がないというのは、少し、否、かなり寂しいものがあった。
とはいえ、相手は人間好きを豪語するワーズ。
症状が比較的落ち着いてからは、細々お世話できると喜んでいる変人である。
それに、泉にじっとして貰うという彼の目的が今のような状態を指すなら、動揺の原因は症状ではないだろう。
では、一体何が原因か。
関し、ある答えが泉の中に生まれていた。
気づいたのはいつだったか知れないが。
「ワーズさん、て……」
廊下と脱衣所を仕切るアコーディオンカーテンを開ける。
呟いた名に泉の胸が疼けば、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「これは……ワーズさん、何か食べてるのかしら?」
クンクン鼻を鳴らし、匂いを追い、下へ伸びる階段の前で瞬き数度。
その頬が少しばかり赤いのは、何も湯上りのせいばかりではない。
味覚ほどではないが、ワーズが絡んだ時だけ、他の感覚も鋭くなっている泉。
それはつまり、単にワーズがモノを食べているから香ったのではなく、食むことで漏れるワーズの呼気を、香りの中に感じ取ったことを意味していた。
「…………」
芳香に合わせ、閉じた瞼の裏で浮かべるのは、中性的な美貌、不気味なほど赤い口内を秘めた、しっとりした薄い唇――。
「っ!」
途端、茹蛸よろしく赤く染まった泉、近くの壁で軽く自分の頭を叩いた。
本当は何度も打ちつけたいところだが、ワーズに気づかれるのは御免だ。
どうしてこんなことをしたのか尋ねられたら、ぽろっと答えてしまいそうだった。
あなたの唇を想像して、うっかり乱れそうになったから――と。
そんな場面をまた想像しては、自分を罵って身を抱き締める。
ぐるぐる火照る熱と艶かしい鼓動に、喘ぐような呼吸を重ねて弾む肩。
「う……駄目、下に、行かなきゃ。た、竹平さんに会ったら……恥ずかし過ぎる」
よろけつつ、元凶である男のいる居間へ向かう。
階段に肩を預け、一歩一歩進む度、無駄にときめく心音が恨めしい。
ついでに、匂いに反応して生じる空腹を知っては、情けない思いが泉を苛む。
それすらワーズが根本にいると思ったなら、心地良すぎて苦しい。
「やあ、泉嬢。湯加減は良かったかい?」
「……はい」
辿り着いた一階で、泉の内なる葛藤など知りもしない男は、食卓の椅子に座って店側を眺めつつ、何かを口に運んでいた。小動物のように膨らんだ、咀嚼に動く頬を見て、泉は「あ、可愛い……」と思う重症な自分に辟易する。
これだけ焦がれる熱で潤んだ視界なのだから、ちょっとくらい、自分のために泣いて欲しい。だが、黒一色のワーズを捉えた瞳は、泉の気持ちを顧みず、彼の傍へ近寄ることを身体に要求する。
自分と一致する望みに抗うはずもない身体は、泉の意思を問わないまま、ワーズへ向かって歩み、
「……何を、食べているんですか?」
「…………」
ワーズは答えず、咀嚼のスピードを速め、手にしたモノを噛み切っていく。
形状からして、干し肉だろうか。
ごくり、喉が鳴った。
ワーズが食す物は、なんであれ、美味しそうに見えてしまう。
しかして、先手を打って彼は言う。
「駄目だよ、泉嬢」
「うっ……な、何がですか?」
ちらりともこちらを見ないワーズへ怯めば、苦笑が為された。
「これは、ボクの食べ物だからね。大体、君こそなんだい、うっ、って?」
「…………分かってるくせに」
ぼそっと口の端で泉は愚痴り、ばれたからには隠しても仕方ないと、千鳥足染みた運びでワーズに近寄る。お裾分けでもして貰えないか、そんな思いを抱いては少しだけ頬を膨らませた。
「……何のお肉なんですか、ソレ。すっごく、美味しそうなんですけど」
「んー……いや、だからこれ、ボクのなんだよ? 君はさっき食べたでしょ?」
「ワーズさんだって、同じの食べてたじゃないですか」
拗ねた口調と抗議に尖らせた唇。
間髪入れず、ワーズは言った。
「ボクは良いんだよ、別に………………太らないから」
爆弾発言直後、トドメとばかりに泉へ向け、ぱっくり笑いかけるワーズ。
これを受け、立ち止まった泉の顔が強張り青褪めた。
次いで、自分の腹部を押さえたなら、目尻に涙が浮かぶ。
「ま、また私、太ってきていますか?」
そういえば、ここ最近ワーズにべったりで、碌に運動もしていない……。
ひと時我に返ったなら、さすがのワーズもマズイと思ったらしく、こめかみを右手の銃でコツコツ叩きながら訂正を入れる。
「あーいや。うん、大丈夫だけど。……ほら、泉嬢は寝る前でしょ? ね? 良い子だから食べるのは諦めて?」
「…………ううう……ずるいです。ワーズさん、ご自分は美味しそうなの食べてるのにぃ。意地悪しないで下さい」
重力の呪縛から開放された泉は、熱に潤みながらも非難の目でワーズを睨む。
困り顔で笑ったワーズは、銃口を今度は上下に動かして頭を掻いた。
「あのね、泉嬢? ボクは意地悪なんかしないよ?」
「さっきの冗談は意地悪じゃないんですか?」
ジト目で見やったのは、食事の最中、問うた肉を住人のかもしれないとうそぶいた男。今にも泣きそうな目の中で、ワーズはへらりと笑い。
「や、あれは冗談だよ、意地悪じゃないから、ね?――おっと!」
十分な間合いを取った泉が手を伸ばせば、赤い口の中に、残っていた干し肉が隠されてしまった。よろけた姿勢で意地汚く睨んだなら、口をもごもご動かしつつ、両手で「もうないよ」とおどけたポーズを取る相手。
ちょっとだけ、癪に障った。
「いいですよ、別に。……私は、こちらからいただきます」
潤んだ恨みの視線はそのままに、正面からワーズの両肩を椅子に縫いつけるべく、がしっと掴んで押した。
右膝を座る彼の太腿に乗せ、
「――――?」
泉嬢?
もぐもぐ尋ねる口。
ふ……と悪戯っぽく笑った泉は、こくんと喉を鳴らし、両手をワーズの後方へ滑らせる。身体を押しつけ、腕で首を抱いては、もごもご動く唇を見て、自分の唇をひと舐め。うっとりした面持ちで、次第に焦燥を浮かべ始めたワーズの笑い顔を見、ゆっくり、潤う唇を寄せる。
「ま、まっへ、泉嬢!」
「嫌。もう、待てません」
だって、美味しそうなんですもの。
その干し肉……何より、あなた自身が、とても。
全部、食べさせてください。
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