第13話 何でも美味しい街

 焦る吐息すら極上の食と、薄く開いた唇が内へと招く。

 味わう舌が甘い痺れを熱に変え、全身へと巡らせる。

 あともう少し。

 重なる――直前。

「んくっ……これ、シウォンの腕だよ!?」

「し……うぉん……?」

 ワーズから発せられては、耳が余すことなく声を捕らえ、頭が言葉の意味をなぞり出す。他方、お預けを喰らった気分の目は未練がましく、もう少しで触れられそうだった赤い口を眺める。

 そこに過ぎる、緑の鋭い視線。

「――――っ!!?」

 途端に我を取り戻した泉は大きく息を呑んだ。

 一瞬、本気で誰だか分からなかった名は、泉とも因縁のある人狼のモノ。続け様、彼の片腕が先の人魚騒動で失われた時の光景が思い出された。

 宿敵であるランを助け、代償として凶刃に切断された腕。宙を舞うソレを泉は確かに見ていたはずだが、その後どうなったかを考える余裕は、続くゴタゴタのせいで全くなかった。

 ただ、あの場面の直前に、ワーズがいたのは確かだ。

 浮かぶのは、千切れた腕をそのまま自分の懐に納めた、黒一色の姿。

「な……んで、そんなもの、食べてるんです……か?」

 想像はできても、理解まで追いつかない泉の問いかけに、ワーズが引き攣りながらへらりと笑った。

「あの、ね? 泉嬢? 前にも言ったけど、奇人街じゃ住人だって立派な食物なんだよ? ね、意地悪で言ってないって分かったでしょ?」

「だ、だからって……知り合いの、腕を? もしかして、あの時拾って……?」

 続く言葉はない。

 あの大変な時に食べる目的で拾ったのか、という気持ちは音に含めていた。

 これを汲んだかのように、ワーズはいつも通り笑う。

「うん、そう。ボクは食べたね」

 戸惑う泉にけろりと応じる。

 束の間揺れるこげ茶の瞳。

 ワーズの首へ回したままの腕が力を緩めたなら、白い左手が頬に触れる。

「泉嬢、覚えておいて? 奇人街の常識は人間にも当て嵌まるってこと。そして」

 ――奇人街産の食物は、何でも美味しいんだってことを。

 囁きは、頬から顎へ伝う指により開かれた下唇、その隙間から口内に広がる。

 吐息だけを絡めて味わえば、美味なる肉の芳香が唾液を呼ぶ。

「っ……」

 混沌と交わす視界が怯んだなら、白い手が離れていった。

 併せ、糸が切れた操り人形のように両腕が落ち、黒い肩に額を押しつける。

 荒い息が寝間着の肩を上下させても、黒い腕は支えもせず横に垂れたまま。

 泉は見開いた眼で黒衣を見つめ。

 冷ややかな温もりが残る下唇を噛み。

 きつく、目を閉じた。

 億劫そうにワーズの両肩へ手を置いては、

「くっ」

 一気に自分の身体をワーズから引き剥がし、立ち上がる。

 よろけつ、開いた目の先には、小首を傾げて微笑する白い面。

「ううっ……」

 泣きたい気分で獣の呻きを零しながら、ワーズ横の壁に向かい合い、

「泉嬢――」

「りゃっ! ぁだっ」

 真正面のソレへ、己の額を力強く打ちつけた。

「い、泉嬢!? 何してんのさ、君!?」

 慌てて椅子を離れる後ろの気配。

 涙目で壁を睨みつけた泉は、両手をそこへ叩きつけると、ワーズに静止を訴える。

「いいんです! 止めないで下さい! 私は今、自己嫌悪の真っ最中なんです!」

「自己嫌悪って……腕のことかい?」

「それもあります! だって、美味しそうとか、思いたくないのに思ってしまって」

 戸惑う空気を感じたなら、忌々しい結論へ至った額を壁に詰りつける泉。

「いや、それはボクのせいでしょ? 君が嫌うなら自分じゃなくて」

「いいえ! 美味しそうって思ったのは私の判断です。誰がどうかなんて関係ありません。しかも、ワーズさんは止めてくれたのに、あ、ああああんなっっ!!」

 思い起こされる、先程まで取っていた妖しげな体勢。

 よからぬ過去の情景を消し去るべく、泉は頭を大きく振りかぶった。

「ちょっ!? い、泉嬢! さすがにソレは痛いから!」

 仰け反った身体が後ろから羽交い絞めにされた。背中に感じるワーズの低い体温へ高鳴る胸はあれど、凌駕する意思が手足をばたつかせる。

「後生です、ワーズさん! 離してください!」

「放したら、打ちつけるつもりだよね? せっかく治ってきた身体を痛めつける真似、このボクが許す訳ないでしょ?」

「いーんです! ワーズさんの許しなんか要りません! ワーズさんは人間好きで、人間の意思を尊重するんでしょう!? 死のうとしているんじゃないんですから、離してください!!」

「駄目だってば! 幾ら自分の力とはいえ、打ち所次第では死んじゃうかもしれない! 大体、君の身体は君一人のモノじゃないでしょ!?」

「!? な、なに、変な事言ってるんですか!? 在らぬ誤解をご近所さんに――――おわっ!?」

 ワーズの思わぬ発言を受け、バランスを崩した泉は後方に倒れ込む。

 受け止めた黒い胸は、急に倒れた身体を留めきれず、共に倒れていった。

「ぅげろ」

 変な声で、泉の下敷きになったワーズが鳴いた。

 反射で慌てて起き上がろうとした泉は、これを追う腕と身体により、座る彼の胸へと閉じ込められてしまう。

 盛大な咳が頭上を通る最中、与えられた暗闇に縮まった泉は赤面硬直。

「い、泉嬢――ぅげふ……お、落ち着いた、かな?」

 症状が軽減されたとはいえ、この状態では、たとえ平時の自分だったとしても落ち着けない。落ち着けるわけがない、と首だけを振ったなら、身体に回された腕の締めつけが増した。

 先程より密着する格好に、壁へ打ちつけた以上の衝撃が泉の頭を襲う。

 そんな内情なぞ露知らず、甲斐性無しのワーズは、暗闇の外で泉の乱れたクセ毛を柔らかく梳きつつ、

「泉嬢はボクのモノなんだから。たとえ傷つける相手が君自身だったとしても、ボクはそれを止めるよ」

 疲労感満載のため息が微かな笑いと共に零され、くたびれた様子の顎が泉の頭に乗っかった。

 次いで、薄い唇が髪に埋められるようにして、頭へと落とされる。

「泉嬢。傷つけたいならボクにして。すぐ、外に出して? 内側に封じ込めてしまったら、堰が決壊するまで誰も気づけない。……ココは、奇人街なんだ」

 深く染み込ませるような声音が、頭蓋を揺らす振動となって届いた。聞き入る泉の熱はそちらへ向けられ、続くワーズの言葉をはっきりした意識が捉える。

「あの場所に居た時のように、自分を抑える必要はないんだよ。不平不満も口にせず、普通を演じる必要もない」

「ワーズ、さん……?」

 言われたことを理解するまで数秒かかった。

 そろそろと泉が顔を上げれば、至近にへらりとした赤い笑みがあり。

 現状なら一瞬で熱に浮かされる近さ。

 だが、凌駕する感情が泉の思考を留めおく。

 冴え冴えと。

「どう……して…………?」

 続く問いかけは、

「あの、お取り込み中のトコ、済みませんけど」

 がらりと開いたガラス戸の向こうの、そんな呼びかけで遮られてしまう。

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