第2話 誤解進行中
怪訝な思いで上向かせた視界。
髪を弄る手が退かないままの行動に、泉が拙いと気づいた時にはすでに遅かった。
手に引っ張られる形でよろめいたワーズの顔が、至近まで降りてくる。ぴたりと止まったとはいえ、意図せぬ近さに思考を停止させる泉と違い、ワーズはどこまでも自分のペースを崩さず笑う。
「苦手、なんだ。頼まれたりするのは。誰かが言ってたけど、ボクは受け攻めで言ったら、どこまでも攻めなんだってさ」
「は……だ、誰がそんな事を?」
立て続けの珍妙な台詞を間近で受け、熱を吹き飛ばした泉が問う。
しかしワーズは答えず、代わりにくすりと笑った。
「ところで泉嬢。この姿勢、辛くないかい?」
「っ! つ、辛いです!!」
口では察せない言いつつ、泉の気持ちを全て察して、あえてそういう言い方をしているとしか思えない。一度は失せた熱が、瞬時に頬へと戻ってきた。
併せ、ワーズの顔が遠退けば、泉はぎくしゃくとした動きで頭を前に戻した。
「んー、攻めとかそういうのはいまいち分からないけど。ほら、命令口調だとさ、なんかこう、自分の優位をいかに見せつけよう、とか考えている必死さがあるじゃない? そういうのって、ボクは可愛いと思うんだよねぇ。――滑稽で」
「……ええと、じゃあ、頼まれるのが嫌なのはどうして?」
あえて別の話題を拾えば、泉の髪弄りを再開したワーズが殊更明るく言う。
「さあ?」
「さあ……って」
眉を寄せるとワーズの手が髪から離れた。
代わりに頬が包まれ、覗き見るような逆さまの白い顔が現れる。
交わす混沌はにたりと嗤う。
「泉嬢……いちいち何かに理由を付けたがるのは、どうして?」
「え……?」
どくっと嫌な具合に心音が跳ねる。不快な脂汗に眼球が戸惑い震えたなら、ワーズの顔が上に消え、頬を伝ってきた手が両目を覆う。
「もしかして、不安? 理由があったら安心?」
「…………」
作為的な暗闇の中で響く声。
泉は覆い隠す手へ触れた。
一瞬だけ、微かな震えを感じたなら、吐息が一つ為された。
「分かりません。確かに、不安や安心はあると思いますけど。……知りたいと、思うんです。理解っていうのとは、また違う気がするんですけど、ただ、知っておきたいって。……それは、いけないこと、なんでしょうか?」
「んー……好奇心はネコを殺す、ともいうけど?」
返す口調はいつも通り、のほほんとしたもの。
しかし、泉はその中に、酷く冷たいモノが含まれていると感じた。
ともすれば、侮蔑とも取れる、憐れむような、冷たい何かが。
だからこそ、彼女は告げる。
「知りたいと思うことがあって、知ることの出来る環境があって、知らないでいる選択をするのは難しいと思います。それが……大切だと思う人のことなら」
それが、どんな結果をもたらしたとしても。
泉は、至極真面目にそう考えて、答える。
――だが。
「……泉嬢」
「はい」
目隠し状態で名を呼ばれ、返事をしたなら、ワーズの声に苦笑が滲んだ。
「ボクの聞き間違いじゃなかったらさ」
「はい」
「君は、誤解を解きたいんだよね? 恋腐魚の効果が切れたから」
「……ええと? 随分、回りくどい質問されるんですね?」
真意が分からず回答を避けたなら、唐突に手が放された。照明のない薄暗い居間だったとしても、得た光を受け、泉の目が自然に細まる。
それでも、ワーズの言い回しが気になり、背後を振り向こうとし、
「……あ、おはようございます。えと、ニパ、さん」
途中で、今し方店に訪れたと思しき、中年の女を目にした。緩くパーマのかかった短い茶髪とふくよかな体格の持ち主は、青い目と同じ青褪めた顔色をこちらへ向けていた。
ニパは以前、泉をシウォンの下へと攫った人狼だが、恨みつらみは不思議となかった。たぶん、後に彼女が謝罪へ来た際、恋腐魚の効果にどっぷり浸かった泉を見て、今と似たような色濃い後悔の表情をしていたからだろう。
――と、そこまで思い出した泉。
ワーズが聞き返してきた言葉と繋げては、今までの状態を振り返る。
ご丁寧にワーズより「恋腐魚の効果が切れたから」と付け加えられてのソレは、どう明るく見積もっても、健全な店主と従業員の関係とは言い難い。
「うわっ、こ、コレは違うんです!」
わたわた両腕を動かして否定を口にすると、ニパは分かっていると両手を泉に翳し、目を閉じ首を振った。
「いいんだ、いいんだ、分かってる。何も言うんじゃない」
全て分かっているというような、宥める様子に泉はほっとしかけ、
「皆、最初はそう言うんだよ。あたしも今の旦那に落ち着く前までは、コイツは違うって思い続けていたんだから」
「うがっ!? いえ、そんな一般論ではなくて、本っっ当に、違いますから!」
やはり誤解されたままと知って、首を思いっきり横に振る泉。
「ねえ、ワーズさん!」と顔を上げれば、そこに白い面はなく、
「さてと。朝飯の準備をしなくちゃね」
いつの間に移動したのか、黒一色がいたのは、台所。
しかも、腕まくりした白い腕の先には、鋭い出刃包丁が握られており、まな板の上には異様な代物が横たわっている。
唐突に思い出した、自分より先に一階にいたワーズの意味。
「わ、ワーズさん! お願いですから、待って!」
椅子を蹴って立ち上がった泉は、脇目も振らず黒い胴体に抱きついた。
「んー。でもほら、泉嬢は接客中じゃない? ここはボクが――」
「いえっ! 私が用意しますから! ワーズさんのご飯は、いえ、食べ物は全部、私に用意させてください!」
ほとんど悲鳴に近い状態で叫ぶ泉。
せっかく脱した地獄絵図に逆戻りして堪るか。
必死の思いでしがみつけば、渋々と言った様子ではあるが、ワーズが手を引いた。
これにほっとしつつも、念押ししてから腕を解いた泉は、ニパの元へ戻る。
「ええと、それで、その」
ちらちら、後ろの動きに注意しつつ応対したなら、ニパが大きく息をついた。
「こんな必死に尽くしたいってとこを見せつけられちゃ、さすがのフーリ様も勝ち目ないねぇ。何せ、大切だと思う人、だもんね?」
「あ……!」
てっきり行動だけで早合点されたと思っていた泉は、指摘された言葉を思い出して固まった。この様子に、ニパが再度ため息を零す。
「……まあ、その相手が店主ってのが、いまいち分からないんだけど」
好き好きとは言え、ねぇ?――そんな声さえ聞こえてきそうな口調に、適切な訂正の言葉が浮かばない泉は、視線をあちらこちらへ彷徨わせるばかり。
と、ふいにニパから、ずいっと手紙が差し出された。
「……あの、コレ?」
「うーん。そんなあんたに渡すべきじゃないのかもしれないけど、フーリ様たっての頼みだからねぇ」
「えと……ニパさん、読んでもらっても?」
奇人街の字を読めない泉は、いつかの司楼へそうしたようにニパへ頼む。
途端、中年女の顔が盛大に顰められた。
「はあ? フーリ様からあんたに渡された御手紙を、どうしてあたしが……あ? あんた、もしかして……字、読めないのかい?」
「え……と、はい」
自分で言う分には構わないが、改めて相手から言われると、元居た場所では読めていたことも手伝って、多少の抵抗を感じる泉。
それでも頷けば、ニパは目を剥いて尋ねた。
「ちょいと……それじゃああんた、今まではどうやって読んでいたんだい?」
「どう……って、ええと、その、読んで貰って」
「誰に!?」
ずいっと近寄る凄みのある顔に、引き攣りながら泉は答えた。
「えと…………わ、ワーズさん、とか」
何か拙かっただろうか。
考えが及ばず、咄嗟に司楼の名だけは伏せて伝えた。
と。
「あんた…………幾ら何でも酷過ぎやしないかい?」
「え?」
残虐非道の代名詞とも言える人狼からの評価に、泉は少なからずショックを受ける。その反応すら許せないとでも言うように、怒り肩のニパが手紙を突きつけてきた。上下に軽く振る様から取れと示されていると知り、手を差し出せば、ぺしんっと叩き置かれる。
「え、じゃない! いいかい、よっくお聞き!? 自分に送られた手紙を、幾ら読めないからって、他の奴に読ませていいわけないだろうが!」
「そ、そうなんですか?」
「そうなんだよ!!」
(伝えたいことがあるから手紙にしているのに、私は読まなくていい……?)
激昂するニパに、やはりよく分からない泉は、奮われる熱の分だけ混乱する。
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