第16話
その後もアイデアが浮かんでは消えるの繰り返しだった。
「一息つこうか」
ヴェロニカが言って、一旦休憩することになった。ジェイは冷蔵庫からコーラを取り出し美味しそうに飲んでいる。ヴェロニカとルミはソフィアがいれてくれた紅茶でのどを
「ソフィアさんのいれてくれた紅茶、とっても美味しいですね」
「ありがとう、お代わりもあるわよ」
オフィスの空気が和んでいくのを感じて、ヴェロニカはふうと息を吐き出した。
「肩の力を抜いて」か……
確かに取引を成功させることだけに目を奪われて、視野が狭くなっていたのかもしれない。何気なく、デスクの端に置いてあった新聞を手に取る。物価が上昇して生活に影響が出ているという記事が大きい見出しで載っている。ヴェロニカは、誌面の端っこに載っている小さな記事に目が止まった。
『○○社、株式の誤発注で巨額損失、注文のチェックシステム機能せず』
○○社の社員が、株式の買い注文をパソコンに入力する際に注文の株数を一桁多く入力してしまったため、本来買おうと思っていた金額をはるかに超える金額の株式を買ってしまい、すぐに売却したものの巨額の損失が出てしまった、という内容の記事だった。
巨額の注文、損失……ヴェロニカは頭の中で言葉を繰り返し唱えた。頭の中にかかっていた霧がみるみるはれていくような感覚。そうか、これならいけるかもしれない。
「みんな、聞いて!」
3人の視線がヴェロニカに集まる。
「アイデアを思いついたの」
翌日、ヴェロニカは空港に向かうタクシーの中にいた。目的地は香港だ。ネット上の手続きで済ませたかったのだが、どうしても本人が立ち会う必要があると言う。香港国際空港から自動運転のタクシーで、香港島のセントラルへ向かう。超高層ビルが乱立する谷間をタクシーがすり抜けていく。ヴェロニカは、両親に連れられて何度かこの街へ来たことがあった。資産家だったヴェロニカの父親は、プライベートバンクの顧客として香港へ来る必要があったからだ。その当時のヴェロニカは家族旅行としか思っていなかったのだが。
10年前、ヴェロニカの両親は海外でのテロ事件に巻き込まれて亡くなった。ルミは日本で親戚の家に預けられていたためテロに巻き込まれることはなかったものの、幼いヴェロニカの心に刻まれた傷は、未だに癒えているとは言えない。兄弟がいないヴェロニカの支えになってくれたのが、幼なじみのミーシャだった。
娘の将来について生前から心配していたであろう両親は、遺産の管理をプライベートバンクに委任していた。ヴェロニカは今まで自分の力でビジネスを起こし拡大してきた、両親の遺産をあてにしたことは一度もなかった。だが、サイバードルの調達には資金がいる。自分のつまらないプライドを気にしている場合ではないのだ、そう自分に言い聞かせた。
英国領だった時代のおもむきを残した古風な建物に目的のプライベートバンクはあった。プライベートバンクは普通の銀行と違い、資産額の多い富裕層向けのビジネスを展開している金融機関だ。高級感のある応接室で担当者を待っていると、ドアがノックされた。背が高く細身の中年男性が入ってくる。ダークカラーのスーツを着ており、もの腰は柔らかだった。
「ヴェロニカ・コントレーラス・佐藤様。お待たせ致しました。担当のスミスと申します。さて、さっそくですが、お父様の遺産を引き出すには条件があります」
「条件?」
「はい、お父様に使い道を説明して頂き、承認を得る必要があります。もちろんご本人は10年前に他界されていますので話をすることは出来ません」
最新のプライベートバンク事情に詳しくないヴェロニカは、スミスの説明に困惑した。
「すいません。どう言う事でしょう?」
「佐藤様、申し訳ありませんでした。詳しくご説明させて頂きます。昔からある文書による遺言も、もちろん残ってはいるのですが、現代では、生前に作成しておいたダミーパーソナリティと対話していただくことで遺言を執行することが多くなっているのです」
「ダミーパーソナリティ?」
ニュースで聞いたことがある言葉だと思ったが、思い出せない。
「はい、お父様の人格をコピーしたものとお考え下さい。第三者の意図的な判断を防ぐため開発された技術です」
「父と話ができるんですか?」
「申し訳ありません。話の内容は遺産に関わることと一般的な世間話程度となっています。それ以外の、例えば身の上の相談などはできないのです」
「わかりました。よろしくお願いします」
「では、私は席を外します。終了したらそちらのベルでお呼び下さい」
そう言い残すとスミスは部屋を出ていった。ヴェロニカはソファに座ったまま、父親が現れるのを待った。しばらくすると、ブンという音がして、男性の立体映像が現れた。ヴェロニカの記憶にあるおぼろげな父親の姿と目の前の男性の姿が重なり、ヴェロニカは思わず息をのんだ。
「大きくなったね。ヴェロニカ、昔の面影がある」
「本当に父さんなの?」
「説明があったと思うが、正確には父さんの人格をコピーしたものだよ。生き返ったわけじゃない」
会いたかった、という言葉を呑み込み、ヴェロニカは言葉を続ける。
「父さん、私……」
「わかっているよ、お金が必要なんだろう?」
10年ぶりの再会がお金の話だという罪悪感から、言いよどんだヴェロニカに優しい言葉が返ってくる。
「私ね、今、仮想通貨の取引所ビジネスをやってるの。それで今、大きな会社からの注文があって取引を成立させるために仮想通貨を買う必要があるの」
「今までひとりで頑張って来たんだね、ヴェロニカ」
「ううん、ひとりじゃないよ、父さん。ミーシャもいたし、会社の仲間もいる。それから助けてあげたい子もいるんだ! それにね——」
父さんと話ができる、聞いてもらえる。その事実にヴェロニカは我を忘れかけている自分に気がついた。立体映像の父は嬉しそうに微笑んでいる。
「いくら必要なんだい? ヴェロニカ」
ヴェロニカは少しためらってから答えた。
「1,600万USドルかな、いや1,800万USドル必要なの!」
父は、ヴェロニカをじっと見つめる。父親に甘えている自分が恥ずかしくなった。
「ヴェロニカが助けたいっていうその子はどんな子なんだい?」
「お父さんが誘拐されちゃって、ひとりで戦っている女の子だよ。とてもいい子なんだ」
うん、と父はうなずいた。
「母さんには内緒だぞ、ヴェロニカ」
そう言うと父は立体映像の小切手に数字を書き込んだ。
「ありがとう! 父さん」
その言葉に微かに微笑むと父は消えた。目の前のデスクに本物の小切手が置かれている。金額は2,000万USドルだった。確かに母さんには言えない。ベルを押してスミスを呼び出す。小切手を手渡すと、スミスはニッコリと微笑んだ。
「良かったですね。佐藤様」
「ねえ、スミスさん。お金は父に返すこともできるの?」
スミスは少し驚いた様子を見せたが、優しく答えた。
「返却とは少し違いますが、再度信託に入れることは可能ですよ」
残高がある限り父に会える。たとえ少しの間であっても。これがプライベートバンクの狙いだったとしても、そんなことはどうでもいい、ヴェロニカはそう思った。
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