第10話

 カーンは骨折こそしてなかったものの、腕や背中にゴム弾を浴びたのとマックスに投げ飛ばされたことから痛みがひどく、数日間入院することになった。入院の手続きを済ませ病院を出たところでヴェロニカがルミに聞いた。


「ところでルミってどこに住んでるの?」


「実はこの間、ヴェロニカさんに来て頂いたオフィスのあるビルに居住用のフロアがあってそこに1人で住んでます」


 そう言ってルミは地面に視線を落とした。


「1人で? 失礼だけどお母さんはどうされてるの?」


 何となく事情があるという気がしたものの聞かないわけにはいかない。


「母は……、私を産んですぐに病気で亡くなりました」


(なんてこと! お父さんは行方不明だっていうのに)


 ヴェロニカは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「そうだったのね、ごめんなさい」


 うつむくルミの横顔は、努めて感情を表に出さないようにしているように思えた。ただ形のいいピンクの唇のはしがわずかに引きつっている。


「そうだ、ルミ。うちに来ない?」


 思わず口にしてしまった言葉だった。


「えっ?」


 目を丸くしてヴェロニカを見返すルミ。金色の長い髪がフワッと揺れた。


「えっとー、だって私たち誰かに狙われている訳だし……、ひとりだと危ないっていうか。もし迷惑じゃなければっていうかー」


(ほっとけないって言ってるの! それになんで照れてるの私)


 ヴェロニカがしどろもどろになるのを見て、ルミの表情がほころんだ。


「ははーん、ヴェロニカさん。1人だと怖いんですねー」


「バ、バカ言わないで。そんなわけないじゃない。私は平気よ」


 ルミが一歩踏み出し、ヴェロニカとの距離をつめた。顔をグッと近づけてくる。


(ちょっ、顔近いって!)


 至近距離でルミの青い瞳がこちらをのぞきこむ。ルミの方がやや背が低いので上目使いになっている。長いまつ毛のしたで透明感のある瞳がキラキラと光を放つ。金色の髪から甘い匂いがした。


「優しいんですね」


 短く言うと同時に、ルミはヴェロニカの頬にキスをした。


「なっ……」


 ほんの一瞬、唇が触れただけでルミはくるっと背を向け2、3歩距離をとった。ヴェロニカは、みるみる自分の顔が火照ほてってくるのを感じた。胸がドキドキしている。


「迷惑なんかじゃないです……」


 こちらを振り返ることなくルミは言った。


「行きたいです」


 つぶやくような声だった。ヴェロニカは背を向けたままのルミに近づき、その肩にそっと手を置いて言った。


「いっしょに帰ろ」


 ルミがコクリとうなずいた。


 ヴェロニカの家は病院からは距離があったため、タクシーで帰ることにした。途中、ルミの家があるビルによって必要なものを取ってきてもらった。


「オフィスには寄らなくっていいの?」

 

 ヴェロニカはふと気になって聞いた。


「大丈夫です。『理事会』にはしばらくテレワークにさせてもらうと報告してありますし、彼らは私にそれほど興味はないようですから。ヴェロニカさんたちの会社との契約については、正式に承認されたとの報告がありましたから安心してください」


「ありがとう」


 ヴェロニカはA.Iテック社でルミはどんな気持ちで働いていたんだろうと考えながら答えた。


 ヴェロニカが住んでいるのは郊外にある普通のアパートだった。


「ミーシャの家みたいな大きなおうちだったらよかったんだけどね」


 ヴェロニカが申し訳なさそうに言うと、ルミは首をぶんぶんと横にふった。


「とんでもない、とっても素敵なお部屋じゃないですか」


 ヴェロニカの部屋は広めのリビングと寝室の2部屋と小さなキッチン、バストイレという間取りで、ベッドはシングルベッドだったためどちらかは、リビングにあるソファーで寝ることになりそうだ。ミーシャが来た時は、ミーシャがソファーで寝ると言って聞かなかったため、そうしてもらっていた。


「私はソファーで寝ます。ヴェロニカさんはベッドで寝てください」


 案の定、ルミもソファーで寝ると言い出した。


「そう言ってももうちに誘ったのは私なんだし、私の方がお姉さんなんだから」


 ヴェロニカが困ったように言うと、ルミは何かを思いついたようにニヤッとした。いやな予感がする。


「じゃあ、簡単な賭けをしましょう。勝った方がベッドと使えるというのはどうですか?」


「なんか気が進まないけど、どんな賭けなの?」


「ちょっと、窓のところまで来てください」


 ヴェロニカとルミは連れ立ってリビングにある窓のところまで移動した。窓は幹線道路に面しており見下ろすと道路を行き交う車と歩道を歩く人々の姿があった。


「簡単な賭けですよ。今、この窓のちょうど真下に当たる部分の道路に横断歩道がありますね。この横断歩道を左右からくる車が横切って走ってます。」


 ルミの説明通り、自動運転の車が道路の左右からそれぞれ進行方向へ向かって走っている。現在、横断歩道の信号は青なので車は止まることなくそのまま横断歩道の上を走り抜けていく。


「信号が赤になると車は止まります。その時、左右どちらから走ってきた車が先に停止線で止まるでしょうか? それを当てることができた方が勝ちです」


 何だかよくわかったようなわからないようなルールだが、しょせんベッドを使うかどうかだけの賭けなので付きやってやろう。


「信号が赤に変わる直前だと予想がつきやすいので、一回赤になった後、再度青になって車が動き出した直後に宣言することにしましょう。私が言い出したルールですからハンデとしてヴェロニカさんが先に決めていいですよ」


 よくそんなこと思いつくなと思いつつ


「うん、わかった」


 とヴェロニカは答えた。しばらくして横断歩道の信号が赤になり左右から走ってきた車が次々と停止した。自動運転だけあって停止線ピッタリに止まる。車の速度はほぼ一定を保たれておりノロノロ運転や速度の出し過ぎはない。歩行者用信号が点滅した後、赤になった。幹線道路側の信号が青になるのを確認してから、ヴェロニカは「右にする」と言った。ルミは「では、私は左ですね」と言った。


 ヴェロニカは、何も考えがなしに右といったわけではなかった。部屋の窓から見て右側から走ってくる車は、市街地から郊外へ向かう車だ。夕方に差し掛かるこの時間、人々は職場や学校から家へ帰る。従って右側から来る車の数が相対的に左側より多いはずだ。数が多ければ確率的に先に止まる可能性が高いだろうと考えた。

 確かに見た目にも右側から走ってくる車の数が多いように思える。


「あっ、そろそろ信号が赤になりますよ!」


 ルミが言った。せっかちな歩行者のために横断歩道の歩行者用信号が青になるまでの待ち時間が信号の下部に表示されており、残り10秒と表示された。ヴェロニカが選んだ右側から来る車はやはり数が多く何台も連なってかなり接近している。ルミが選んだ左側からの車はかなり遠くに一台向かってきているが、その差は埋まりそうもなかった。


(よし! 私の勝ちね)


 ヴェロニカが勝ちを確信したその時だった。右側から向かってきた先頭の車がすぅーっと停止した。横断歩道の数十メートル手前だ。


(うそーっ! 何で?)


 目を丸くするヴェロニカ。ルミはすました顔をしている。後続の車もうまく前の車を迂回できず一旦停止した。左からの車がどんどん横断歩道に迫る。横断歩道の信号が赤になった。右側の停止した何台かの車の横を膨らみながらかわした車も横断歩道に迫る。


 一瞬の差で左からの車が先に横断歩道に到達した。ルミの勝ちだった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る