第17話

 ルミ、ジェイ、ソフィアの3人はサイバードルNow社のオフィスで、ヴェロニカからの連絡を待っていた。香港へ行っているヴェロニカから資金調達に成功したとの連絡が入り、サイバードルNow社の口座にUSドルの入金が確認できれば、昨日話し合った計画をスタートする予定だ。その後も、7.45ドルで50万ドル、7.40ドルで80万ドル、7.35ドルで50万ドルの注文が成立し、その全てがウスティノフ・トレード社の買い注文だった。サイバードルNow社の保有額310万ドルに対してウスティノフ社が250万ドルと、差は縮まりつつある。


 祈るような気持ちでモニターを見つめる3人をあざ笑うかのように、売買成立の電子音が鳴り響いた。


「7.40ドルで60万サイバードルの売買成立よ!」


 少しうわずった声でソフィアが言った。


「どこの買いだ?」


「残念だけど、ウスティノフよ」


 分かっていたことだが、落胆の気持ちは隠せない。


「310万ドルで並ばれましたね」


 ルミが唇を噛み締めた。


「お願い、ヴェロニカさん、急いで……」


 オフィスのスマートスピーカーから着信を知らせる軽快なメロディが鳴った。続いてヴェロニカの弾む声が聞こえてくる。


「みんな! 成功よ。2,000万USドルを口座に送金したわ!」


 一瞬、オフィス内がわっと湧いたが、すぐに引き締まった空気に戻った。そうだ、これはまだ始まりに過ぎない。


 ジェイが急いで口座情報にアクセスする。


「OK! 2,000万ドル入金確認できたぞ。暗号資産専門ローン会社へ送金する」


 暗号資産を購入する際は、確実に購入代金を支払うことができるように、決済システムの口座に担保として現金を預け入れておく必要がある。2,000万USドルあれば、現在のレート、1サイバードル=7.40USドルで計算すると、2,000万÷7.40=約270万サイバードルを購入することができる。サイバードル社の現在の保有額が310万サイバードルなので、310+270=580と580万サイバードルとなり、目標の500万ドルをクリアできると言うわけだ。


 だが、今回の計画にはそれでは不足だ。もっと多くの資金がいる。ジェイが端末を操作すると、モニターに「入金を確認しました。融資の承認をお待ちください」というメッセージが表示された。暗号資産専門ローン会社は、自己で保有している資金以上に暗号資産を買いたいというお客に資金を貸し付けるビジネスをしている。


 ただし、資金を借り入れるには担保としてUSドルをローン会社へ預け入れる必要がある。このローン会社は担保として受け入れた額の5倍を融資するとという貸付率の高さで有名な会社だった。このように資金を借り入れて暗号資産を買うことを「レバレッジを掛ける」とよんでいる。レバレッジとは重いものを持ち上げる「てこ」のことだ。小さい力で大きなものを持ち上げることができる「てこ」を、少ない資金でより大きな取引をすることになぞらえたものだった。


「よし承認がおりた。そのまま担保口座へ送金だ」


 スピード融資が売りの会社だけあって、あっという間に融資の承認がおり、担保口座へ2,000万USドルの5倍、1億USドルが入金された。これは、1億÷7.40=約1,351万サイバードルが買えるほどの資金だ。


「とんでもない額だぜ」


 ジェイが驚嘆の声を上げる。


「失敗したら間違いなく破産ね」


 スピーカーの向こうのヴェロニカもモニターで確認しているようだ。担保口座への送金が完了し、モニターに発注可能とメッセージが表示された。


「さて、そろそろ始めるぜ」


 ジェイが残り2人の顔を見回した。2人ともコクリとうなずく。


「取引モードを手動に切り替えるわ」


 ソフィアが自分の端末を操作しながら言う。


 ジェイが端末へ注文を打ち込む。


「買い 成り行き 金額1,300万サイバードル」


 と表示される。これはサイバードル社が持っている資金全額でありったけのサイバードルを買うことを意味していた。


「よし準備完了だ。発注するぞ」


「いいわ、やって! ジェイ」


 ヴェロニカの言葉と同時にジェイが発注ボタンを押した。3人が息をのんで、モニターを見つめる。その直後、モニターに赤いエラーメッセージがやや大きな字で表示された。


『注文金額が上限を超えています。ロックを解除してください』


『[注意]この注文は執行されていません』


「板情報はどうなっている?」


「やったわ! 成り行きで1,300万サイバードルの買い注文が出てる」


「ウスティノフの買い注文よ!」


 大量の買い注文にサイバードルの価格が一気に跳ね上がる。


 7.50、7.60、7.70と売り注文を吸収して上昇していく。7.80、8.00、8.50と止まるところを知らない。


 9.00、とうとう10.00と10ドルを超えた。


「ウスティノフはいくら買った?」


「950万ドル買ったみたいね。ここからだわ」


 サイバードルの上昇がピタリと止まった。残りの買い注文が取り消されたのだ。


「来たぞ、今度は950万ドルの成り行き売り注文だ」


 ジェイが興奮して叫んだ。一転しての巨額売り注文に投資家はパニックになったようだ。谷底に転がり落ちるように価格が下がっていく。


 9.50、9.00、8.50、売りが売りを呼び売り遅れまいと更に大量の売り注文が浴びせられた。8.00、7.50。


「よし、自動売買システムオンだ」


 サイバードル社の自動売買システムが起動して高速の買い注文が出された。7.00、6.60。ここでようやく下落がストップした。


「買えたのか?」


 モニターにサイバードル社の買い注文が約定したことを示すメッセージが表示された。


 『7.00ドル 100万サイバードル 買い約定済み』


 『6.60ドル 100万サイバードル 買い約定済み』


「やった……やったぞ、おいみんな、成功だ!」


 一瞬の沈黙の後、ジェイが歓声を上げた。


「ヴェロニカさん、聞こえますか? 成功したんです! 大成功です!」


 ルミとソフィアは手を取り合って喜びを分かち合った。ジェイはその輪に加われなかったので少し残念そうな表情を浮かべた。


「みんなありがとう。信じてくれて」


 空港に向かう自動運転タクシーの後部座席で、ヴェロニカはシートに深く身を預けた。目をつむりふーっと息を吐き出す。もちろん、うまくいく確信はあった。それでも失敗できないプレッシャーに手の震えが止まらなかったのだ。今はその重圧から解放された心地よい疲労感を味わっていたかった。




 ウスティノフ・トレード社のオフィスでは、CEOのゲオルグが自分のデスクにある革張りの椅子にぐったりと腰をおろしていた。どうしてこんなことになった? 全ては計画通りのはずだった。マトリョーシカ人形に隠して送った四次元コードプレイヤーは、怪しまれることなくサイバードル社の内部に配置され、あいつらが出した注文をウスティノフ・トレード社の注文に書き換え続けた。ジェイが作った売買システムに勝てないのはわかっていた。

 

 だから、そのシステムをそっくり使わせてもらうことにした。もちろん、あいつらが四次元コードプレイヤーの存在に気付く可能性も考えていた。あの人形の製作に自分は関わっていない。だから、俺の責任を追求するのは限りなく難しいはずだ。うちの会社を訴えて裁判沙汰になれば、今回の取引自体がマスコミのネタになり取引自体が中止になることも考えられる。そこまでのリスクをあの小さな会社がとれるわけない。


 なのになぜ? 俺の会社は注文の誤発注をしでかし、あいつの会社はサイバードルの調達に成功したのか? 1,300万ドルという巨額の買い注文をうちのシステムは出してしまった。気づいた時はすでに遅くうちの注文でサイバードルの価格は暴騰。そのとんでもない高い価格で950万サイバードルも買ってしまった。1,300万ドル全額買う前になんとか注文は取り消しできた。だが、950万サイバードルという巨額のポジションを保有し続ける勇気は俺にはなかった。


 今度は売りを仕掛けられて価格が暴落したら、うちは終わりだ。価格が下がる前に全額売るしか選択肢がなかった。ああ、もうすぐ親父が来る。うまい言い訳を考えるとしよう。

 

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