第 3 章 幻映回廊

第22話 廻廻

 俺は歩き続けていた。


 いつから歩き始めたかは分からない。どれだけ歩いたかも分からない。

 それ程に、意識の上ではずっと歩き続けている。


 だが、景色は一向に変わらない。


 黒い壁に赤い絨毯で出来た廊下だ。

 装飾はちらほらと見えるが、扉も窓もなく、何処となく雰囲気が映画館のロビーからシアターへ移動する廊下のようだった。壁には定期的に溝があり、其処で壁を継いでいた。間隔としては、二、三メートル幅位だろうか。表面は木目調で、落ち着いた雰囲気だった。

 天井はやや高く、埋め込まれた丸く暖色の電灯が頼りなげに光るばかりで、全体的に薄暗く、また、廊下は僅かに曲線を浴びていて、道の先まで見通すことは出来ない。


 俺は足を止めた。


 不思議と足に疲労感はなく、普段通りの足取りで歩を進めていられた。だが、そうであっても、こうまで成果が何も見えないとなると、自然と目線が下向きになるものだ。

 視界には、奮発して買った履き慣れた薄汚れたスニーカーがある。彼女に選んで貰ったグレーのスニーカーだ。今も柔らかな中敷が足を守ってくれている。同じ通販サイトを一緒に見ながら、あれも良いこれも良いと言い合って選んだ大事な物だ。


 彼女とは大学一年生の頃に出会った。

 偶々、隣の席に座って、偶々、彼女の落としたペンを拾った。そこで、少し会話をした。次の授業の先生のあれこれだとか、学食の何が美味いだだとか、先輩はいるのかとか他愛のないものだ。その中で、俺は不真面目な学生で前回の授業をサボっていたから、駄目元でノートを見せてくれないかと頼んだ。

 彼女は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに小動物みたいな丸い目を細めて、笑った。そして、小さく角張った文字が書かれたノートを差し出してこう言った。

「はい、百万円ね」


 俺は笑い返した。


 乾いた掠れた笑い声が、薄暗い廊下を俄か騒がせた。それは空虚な響きを残して、俺の輪郭を際立たせる。反響は直ぐに打ち止められ、伽藍堂にぽつねんと立つ俺だけが残った。


 後ろ髪を引く思い出が、脳内を擦り抜けていく。

 足元に沈むのは、後悔と自責の念だ。渦巻き、底へと緩やかに堕ちて溶け合って、唯の黒い澱みとなって、俺の骨を蝕み始める。脊髄も今に黒く染まって、内側から自壊していくだろう。覆い尽くされてしまいたいと思う。俺という意識を埋め尽くしてしまえば、もう、君のことを考えずに済む。

 そうして、この身が脆く塵芥のように散ってしまえば、何の悔いも残らないと、未だに俺は未練がましく説いた。


 目線を上げれば、豪奢とさえも感じる廊下の変わらない光景がある。

 止めていた足を再び前へと進める。出だしは、やけに重く思える足も、歩き始めれば、流れで動き始める。人っ子一人いない暗い背景に浮かぶ、朧ろな影法師が、進んでは俺の背後へと過ぎて、また、眼前に巻き戻されたように戻って来る。

 それだけで一人ではない気がした。


 俺は混じり気のない孤独に耐えられる程、頑丈ではなかった。でも、他人に耐えられる程、寛容でもなかった。だから、柄にもなく、ずっと白馬に乗った誰かが来るのを待っていた。良い子にしていれば、良いことがあるだなんて戯言を信じて、大人の言うことを良く聞く良い子として生きていた。


 でも、あの時から、あのノートを手渡されたあの時から、俺は手を伸ばして、その腕を掴みたいと思った。教室の窓から注ぐ光の中にいる君を見て、此方に気付くと軽く手を振ってくれる彼女の、小さな手を取って走り出せたら、なんて素敵なことだろうと思うのだ。


 君が欲しかった。でも、手に入らなくてもいい。本当に欲しいものは手に入らないと分かっていた。だから、君が歩いて来てくれるだなんて、思わなかった。


 俺が欲しかったものは、決して、他人が手に入れられないものだった。五臓六腑を裂いたとて、それは見れず。舌を引き抜いてみても、それは聞けず。頭蓋を外したとて、それは香らない。流れる血潮に湿らせても、それは味わえない。

 それでも、確かに君の中に有る。

 それだけは確かだった。

 俺は君のものが欲しかった。


 そのために、俺はどうにかしなくてはならなかった。怠惰な体を起こして、くたした精神も奮い立たせて、どうにか一人前に振る舞えるように、どうにか空回りしないように、理想の自分とやらを演じ切れるように。茹った足りない頭を働かせて、今にも焼き切れそうな回路を走らせて、いつまでも落ち着かないリズムのままに、ポンプが押し出す情念を全身に回して、また、ぼうっと口から煙を出す。

 空回り続けて幾星霜、そこまで至れば何となしに板につくものだ。見様見真似のステップも少し踏めるようになった。人に見せるには及ばなくて、精々歩く速度を揃えるくらいしか出来ないとしても、前と比較すれば良い方になるだろう。そうだと思わなければ、やってられない。


 大学二年生、断ち切られないように繋ぎ続けた糸は、まだ、君へと繋がっている。不快にならないように、普通に見えるように、言葉を重ねた。取るに足らない一つ一つを、必死に頭に刻んでは、君の笑顔を引き出す術を探し続けていた。


 ねえ、映画とか好きかな。嗚呼、その映画知っているよ。序盤から伏線が散りばめられていて、ラストで一気に回収されて、とても驚いたし、爽快だった。だから、見落とした伏線がないかと、二回見てしまったよ。君も? 好きなんだね。もっと話をしよう、いや、良かったら映画を見に行こうよ。終わったら、珈琲でも飲みながら、感想を言い合って、盛り上がった流れで夕飯もご一緒に。悪くはないでしょう。


 次は何をしようか。また、映画を見に行くの。良いよ。俺も見たい映画がまだあるんだ。嗚呼、同じ作品が見たかったんだね。何だか、一緒に踊っているような気分だよ。その監督の別の映画のDVDを持ってるんだ。もし、気に入ったら、貸してあげるよ。明日、いつ頃なら渡しに行っても良いかな。


 上々、日々も益々、上々。掛け値なし。藹々あいあい奄々えんえん、それすらも喜びに満ちるのだから、世界なんて簡単なものだよ。足りない頭でも、理解に足りる。


 指先が触れたのを合図に、小さな段を登った。

 そして、二人で誰もいない夜道を小声で歌いながら、まるで闇夜に光る目のように細くなった更待月ふけまちづきを冷やかした。黒猫がいたような、いなかったような。手を繋いで、まるでミュージカルのように、夜を讃えた踊りをしながら、曖昧に胡乱に、唯、君と歩いた。あの夜道には、今も月が浮かんでいる。目を閉じれば、それは変わらず其処に在り続ける。


 俺は見上げた。

 薄暗い天井だ。そこに埋め込まれた頼りない電灯の明かりが、弱々しいライスシャワーのように降り注いでいた。手を伸ばしてみても、届きやしない恵みには、憧れるだけ時間の無駄だ。遠目に見れば事足りる。コストカットは必定、時の流れさえもお金に変えるこんな世の中だから、何事も効率良く熟していこう。言うだけなら無料だから、言霊代わりに言っておくに限る。


 此処には何もない。喜びも、悲しみも、色の付いたものは何もない。無為に過ぎる時間だけが苦痛を与えてくれる。


 いつも、思い出している。

 いつかを思い出している。

 もういいよとは言えなくて、引き延ばせるだけ延ばした。


 また、ぐるぐると過ぎた日々の中を、ぐるぐるともう一度過ごしている。現実は巻き戻りなどしないのに、記憶の中であればそれが出来てしまう。それ故に、俺は繰り返す。

 回廊にて、夢と現を行ったり来たり、冷や水でも掛けて欲しくて、ところが、此処には水もバケツもないものだから、俺は機械のように歩くしかなくて、自動化の代わりに空いたリソースで、記憶の中の懐かしいフィルムを回す。

 いっそのこと焼き切れてしまえば良いと思うけれども、自ら破くことはとても出来やしない。


 俺はまた歩き出した。痛む足は気付いていないふりをして、終わらない回廊を宛てどなく歩き続けていた。それはまるで旅人か罪人のようだった。


 脳内に仕舞った映像記憶を閲覧しながら、気怠げに歩いていると、何かが廊下の先に置かれていることに気付いた。椅子だ。一人掛けのソファだ。この場には、少々優しげ過ぎる柔らかなベージュの布製のソファには、その背凭れにゆったりと埋もれている人がいた。

 その人はやけに分厚い文庫本を読んでいたが、近付いてくる俺に気付いたのか、顔を上げて、「こんにちは」と朗らかに言った。


「こ、こんにちは」


 ぎこちなく返すと、その人はにこりと笑った。

 それを見て、俺は何だか、何かを許されたような気になった。


 その人は薄い抹茶みたいなカーキ色のシャツに、オフホワイトのゆったりとしたパンツを履いていた。全体的にラフな格好で、ソファにもリラックスした様子で座っている。


「何を読んでいるんですか」


 試しに、話し掛けてみる。此処に来てから何時間経ったのか分からないが、漸く会えた自分以外の他人だ。

 その人はちらりと文庫本に目を落として行った。


「探偵ものです。なかなかに癖の強い探偵役が出て来るんですよ。トリックも奇抜で」

「俺もミステリーは好きです」

「本、読まれるんですか?」

「嗚呼、えっと、どちらかと言うと、映画の方がよく見ます」


 その人は顔を上げて、俺の目を見た。そして、同好の士でも見つけたかのように、ばっと表情が華やいだ。


「映画も良いですよね。情景や表情もですが、音楽やその描写の一つ一つの演出など、沢山の要素が絡まった映像ならではの醍醐味が存分に楽しめますから」

「そうなんです。後、不真面目なことを言いますが、流し見が出来るのも良くて。ほら、本だと意識が全部文章に集中してしまって、他のことって出来ないじゃないですか。映画は流し見も、映画館とかでがっつし没入も出来ますし、色々な楽しみ方が出来るから、俺はその気軽さも好きで」

「私も学生の頃は、昼間にテレビで放送していた映画とかを特に見たいとかでもなくつけていましたね。でも、途中から、夢中になって見始めたりするんですよね」

「そうそう。俺もやったことあります。そして、序盤の大事な場面を見ていないから、話の流れが掴み切れなかったり」

「嗚呼、覚えがあります」


 その人は朗らかに笑いながら話す人だった。初対面ながらあるある話で盛り上がり、俺はすっかり、こんな場所に何故いるのかを忘れていた。

 会話の切れ目に差し込まれた静けさから、すべき問いが思い起こされ、幾つかの疑問が浮かんで来た。


 出口も入口もない。恐らく円を描いている回廊をずっと歩いても、誰とも出会わなかったのに、この人は突然現れた。そして、特に疑問に思う様子もなく、穏やかに過ごしていそうだった。それは何故なのだろう。此処が何なのか知っているのだろうか。出口を知っているのだろうか。


 観察するために見つめていると、不意に澄んだ黒い目が、優しく私を射抜く。

 何処までも見透かされているかのような不安な気持ちと、何でも受け止めてくれそうな安心感とがどちらもある。

 逡巡する。だか、それよりも先に自然と口が開いた。


「実は困っていることがあって」

「困る?」


 その人は首を傾げた。その態度に、悪意が何処にも見当たらなかったから、俺は頼ることを決めた。


「この回廊には出口がなくて、だから、ずっと歩き回って、探していて。えーと、お名前は」

かけはしと申します」

「俺は伊東いとうすすむです。あ、梯さんはどうやって此処にやってきたんですか」

「気付いたら。此方にいました」


 梯さんは座ったまま、正面を細い指で指差した。

 その先には壁がある。黒い壁だ。汚れはない。唯、薄暗さがある。周りを見渡しても、見て来た通り、黒い壁ばかりだ。


 俺は指先の更に先にある点を見つめていた。


「貴方にとって、此処は何ですか?」


 唐突なざっくばらんとした質問に窮しながらも、俺は壁を見たまま答えた。


「分かりません。なんだか薄暗くて、映画館のようにも見えますし、扉も窓もないから、まるで、病院とか研究施設のようにも見えるけど、病人も被験者もいない」

「成程」

「そして、出口もない」


 その人は「それは困りますね」と言って、本を閉じた。目を向けると、組んだ足を直して、悩ましげに眉を顰めた所だった。それでも、何処か余裕があるように見えた。


「でも、出口は、いえ、少なくとも入口はあるでしょう」

「一体、何処に」


 前のめりになる俺とは裏腹に、あくまでも落ち着いた様子の梯さんは、やはり、低く穏やか声で言葉を紡いだ。


「私の存在が現れたために、貴方は此処に入口がある筈だと思い込む。だから」


 きぃと軋む音が聞こえた。

 目を横に向けると、いつの間にか出来ていた扉が開いてた。先程、梯さんが指差していた壁だ。

 映画館のスクリーンに入る時にあるような重厚な扉のその先は暗く、まるで喉奥を目指すようだった。


「貴方にとって此処がどういうものか、貴方かどう認識するかで、貴方は此処から出ることも出ないことも出来ます」


 そう言って、梯さんは最初と変わらない柔らかな笑みを浮かべた。





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