第18話 触穢

 海は何の変哲もない所だった。


 広く、狭く、暗く、明るく。何処までも行けて、何処かには果てがある。そこで悠々と漂い、泳ぐ魚を眺めるだけの日々を過ごしていた。そして、それに安らぎを覚えていた。

 最初の自分がどうであったかは、あまり覚えていない。生まれた頃は唯の靄に近いものであったようだが、海の中に靄なんてあるのだろうか。きっと、潮の流れに攪拌されてしまうに違いないのだから、そうなる前に名付けられて、形を得た私は幸運だったのだろう。

 でも、自分に名前を与えた人は、とっくに去ってしまって、誰も名を呼ぶ者はいなくなっていた。だから、張り合いもなくて、自ら動くのも億劫で、唯、揺蕩っていたのだ。


 何も変わらない、何も起きない、平和な日々だ。それで良いでしょう。それが良いでしょう。

 時折、お腹は空くけれど。


 暇な時はずっと昼寝をしていた。きらきら乱反射する水面を見上げながら、海の底の岩場をベッドに瞼を開けたまま眠っていた。目紛しく湧き起こる夢は、あたしの心を癒した。癒えるということは、傷付いていたってことだ。


 何かが苦しかった訳じゃない。何かに困窮していた訳でもない。唯、唯、何かをしなくてはならないという焦燥感が時折やって来て、あたしの中で暴れ回るのだ。

 あたしは昼寝をする以外、それを鎮める方法を知らなかった。駄々っ子のような衝動をあやしてやることさえ出来なかったのは、単純にされたことがないから、頭にも浮かばなかっただけだった。


 やるせない思いが何処から湧いているのか。焦る思いは何に駆り立てられているのか。幾ら泳ぎ回ったって、その答えは何処にも浮かんでいなかった。考え回ったってお腹が減るばかりだった。

 だから、そのままにした。底に沈めておけば、いつかは蝦蛄しゃこか何かが食べ尽くして、影も形もなくなるものだと思っていた。

 ところが、幾ら置いてみても、一向に朽ちず、あたしが移動すればそれは引き摺られながら着いてくるのだ。だから、あたしは昼寝をする他なくて、海の底で横になっていた。


 あたしの暮らしていた海は、比較的落ち着いた海域ではあったのだけれど、その日は珍しく、潮の流れが速くて荒れていた。

 嵐でもあったのかもしれない。でも、海上のことなんて興味がなかった。今日は海が荒れている。それだけでお終い。あたしの世界はそれだけで完結する。


 だけど、どうしてだかその日は気になった。空の色や風の匂いがどうなっているのか知りたいと思った。

 これはきっと魔が差すってやつだった。


 大きく逆巻く波間に顔を出すと、厚い雲が見えた。薄暗いのに、雲は白く光っていて、何だか納得がいない奇妙な光景だった。風は湿気を含み、まるで人の吐息のようで気味が悪く、肌にへばりつくような気がして、あたしはまた海へ潜った。

 しかし、直ぐに顔を出して、辺りを見渡した。


 揺れる波が高くなると、浜の方までよく見える。あたしは沖から少しずつ陸地へと近付きながら、何かを探していた。

 何を探しているのか、自分でも気付かなかった。探そうとして探した訳じゃない。何かが見たくて、だから、自然と探していたのだ。


 いや、今にして思えば、それは最初から視界に入っていたのかもしれない。初めに水面から顔を出したあの時には既にこの目に映っていて、それに気付いていたから、何かあると思って、探していたのかもしれない。


 おどろおどろしく響く海鳴りが、気を急かすようだった。


 それを見付けたのは、探して間もなかった。

 それは人だった。動く人影に気付いて、目を向けると、一人の女性が荒れ狂う波を気にも留めずに、堤防へと歩いているのが見えた。黒いコートに包んだ全身を濡らしながら、吹き荒れる風に髪を乱されながら、その人は歩いていた。そうだ、これは冬のことだった。


 何故だか、堪らなくお腹が空いて、口の中に唾液が溜まり出した。胃が訴え掛けるように、低い音を鳴らす。


 あたしはその人から目が離せなくなっていた。そして、自分の腹から迫り上がってくる感情の表面に触れて、悍ましさを感じた。それは生暖かく、湿っぽくて、饐えた酷い匂いがした。


 あたしはあの人が波に攫われる所を見たい。


 足元を掬われて、転んで、流されて、なす術もなく海に翻弄されて溺れる様が見たい。海上の人間が荒れた海に怯えている所が見たい。今、気丈に歩くあの人がそのすまし顔を崩して、情けなく助けを乞う姿を見たい。無力感に苛まれて、どうしようもなくなって、足掻くことさえ儘ならない姿が見たい。

 だって、人は海には逆らえない筈だから。必死に手足をばたつかせて、沈むしかない筈だから。


 あたしと違って。


 そう、あたしにとっては屁でもない困難に、歯が立たない人間が見たいんだ。


 あたしは人を探していた。

 溺れる人を探していた。

 助けるためじゃない。

 それを嗤うために探していたのだ。


 それに気付いたのは良かった。だけど、何故自分がそんなことを思うのかは分からなかった。

 誰かを貶めたいなんて思ったことない。誰かを傷付けたいなんて思ったことない。泳げもしない生き物を見下ろして、悦に浸りたいなんて思ったことない。


 でも、それはどうだったんだろう。


 思ったことないのは本当かもしれない。

 だけど、それは単に一人でずっといたからじゃないんだろうか。貶めたい相手がいないから、傷付けられる相手がいないから、見下す相手がいないから、だから、今まで思わずにいられた。

 でも、私の本性は自分で思ってるよりも、実は醜いもので、人を見れば悪辣に対応する生き物だったのかもしれない。その証拠がこれだ。この悪意をどう取り繕った所で、自分のことなのだから、本心がどれかなんて分かりきったことだ。


 あたしは酷い生き物なのかもしれない。目を覆いたくなる。それでも、なかったことになりはしない。見えなくなっても、認識してしまえば、それは其処に在り続ける。

 嗚呼、なんて、悍ましい。


 初めて手に持った自分の敵意に気を取られて、あたしは彼女を見失っていた。

 目線を戻せば、堤防には誰もいなかった。


 波がコンクリートに打ち砕かれるばかりで、人っ子一人いやしない。


 嗚呼、しまった、見損ねた。咄嗟にそう思って、直ぐに違うと頭を振った。

 そして、言い聞かせるように呟いた。


「助けなくちゃ」


 あたしは尾鰭を波打たせて、堤防へと急いで向かった。

 良心の呵責とは少し違う、今、こうしなければ、自身の善性を一生見失うと思ったからだ。悪しき自分を責める気持ちからではなく、邪心それ自体を否定するためにあたしは泳いだのだ。


 あたしは人を嗤わない。人を貶めない。それを証明するために、或いは、自分に対してもひた隠すために、人を助けるのだ。

 ちょっとやそっとの潮流ではびくともしない自分の体を誇らしく思う。堤防へはそう時間を掛けずに辿り着くことが出来た。


 その人は沈んでいた。

 潮の流れに踊るように、翻弄されていた。自力では海面にも出られまい。そのまま、死に抱かれて沈み、次に浮かぶのは腐敗が進んだ後だけだ。それにしたって、食べ散らかされない保証はない。

 全く抵抗していないように見える。もしかして、この人は事故で海に落ちていないのではないだろうか。

 そうは思ってみても、確証はないし、目の前のやることをやり遂げないといけない。


 あたしは右手を伸ばした。白く揺れる彼女の右腕を掴んだ。


 途端に嫌な気配が背後に現れた。


 振り向けなかった。かと言って、腕を手放すことも出来なかった。一歩も動いてはならないと感じたのだ。

 言い表せられない不快感と、身の毛のよだつ嫌な予感とが、私を囲む。波に飲まれながら、あたしは心拍数を上げていた。

 嫌なものに触れた。これは、触れただけで移るものだ。背後の者は決してあたしを逃さないだろう。それが何であるかは分からない。神仏であろうか、悪魔であろうか、邪な気配ばかり散って、本体を覆い隠す。


 彼女はこれから逃れるために海へ来たのか。それとも、それに誘われて、荒れた海へ出て来たのか。或いは、あたしのような存在が手を伸ばすのを先読みして、次の獲物に狙いを定めていたのか。


 海の中でかくことのない冷や汗が垂れた心地がした。純粋な恐怖が胸を闇へと落として、あたしは視界が狭む気がした。忍び寄るのは、死ともまた違う冷たさを纏った、昏い暗い激情だ。それは、先程あたしが抱いたものとは比べ物にならない程に、柔らかな胸を致命的に刺すだろう。


 あたしは恐怖心から、その腕を離した。離してしまった。

 一瞬、縋るように動いたその手は、直ぐに流れに飲まれて遠ざかった。そうすれば、全部元通りになると思った。だが、嫌な気配は絶えず背後にある。


「取引を」


 後ろから声が聞こえた。穏やかな声だった。


「逃れたいのなら差し出しなさい。授かりたいのなら差し出しなさい。お前の悪意がお前を飲む前に選択を」


 その言葉の意味は分からなかった。だが、何かを差し出さなくては、何かしらを失うか、何か嫌な目に遭うだろうことは察せられた。

 ぴたりと背後についたそれからは、圧倒的な力の差を感じた。だから、それらを滞りなく行うことが出来ると思った。

 だが、あたしは何も持っていない。財産もなければ、棲家すら持たない。捧げるものは何もなかった。


「何も持っていません」

「いいえ。それを取り上げよう」


 あたしはそれが何かを、うっすらと分かっていた気がする。捧げもの、供物、それは命こそが最上の貢物になる。此処にあるものは、一つだけだ。

 どちらにせよ、もう、八方塞がりだ。戦ったことなどないし、後ろの誰かにあたしは負けたのだ。自棄になって、「うん」と答えた。


 さくり、と軽い音がした。

 あたしの視界が傾いていく。滑るように傾いて、落ちていく。すると、視界は暗闇に落ちて、意識は頭部との接続が切れた。ぐにゃりと身体が変形していく。人の形から、魚の形へ、死なないために体が作り替えられる。次にあたしの視界が戻ったのは、ほんの少し後のことだ。あたしはうねる波に乗った、切られた自分の首を体側の目で見た。


「柔軟なものだ。約束は必定。お前の首を貰う代わりに、お前を見逃そう」


 そう言うと、背後の気配は消えた。

 波に飲まれた女性も、あたしの頭も消えた。


 残ったのは、人でなしの役立たずだけだった。


 頭がなくなった。人の要素が奪われた。だから、人のようにはもう振る舞えない。だが、幸いにして、あたしという存在は人と魚の混ざり物であったから、魚として適応すれば生き延びられる。

 己が悪意は、女性達がいなくなると、少し和らいだ。今となっては、どうしてあそこまで悪意を抱いていたのかも分からない。分からないことだらけで、あたしは静かな海底を目指した。煩い心臓を休める場所を探していた。しかし、その間にもない頭が思考をぐるぐると続けている。


 海へ落ちた女性と、背後にいた何かがどのような関係か分からない。同一人物なのか、別人なのか。憑いているのか、別件なのか。


 彼女は死んだのだろうか。

 荒れた海に飲まれて、水面に顔を出すことすら難しいこの状況で、生き残れるのだろうか。或いは、背後の者が何かするのか。

 奪われたあたしの頭は何処に行ったのか。何に使われるのか。


 ほんの僅かな時間であったのに、何もかもが狂ってしまったような、台無しになってしまったような気がした。いや、実際そうなのだろう。

 あたしは唯、内なる悪意に飲まれ、それを否定し得る自分の善性の保持のために、彼女を救おうとしただけだった。それで、今は頭を失った。


 何が起きたのだろう。彼女達は何だったのだろう。

 荒れる波は唸り声をあげるばかりで、何も答えない。吹き荒れる雨風も、厚く低い雨雲も、何物も舌を持たない。


 唯一、持っていたあたしは、一人「嗚呼、海面に出なければ良かった」と後悔を呟いた。


 昼寝をする気分にはならなかった。

 だが、お腹は空いていた。






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