第27話 昏昏
夢を見ているようだった。
此処に来てからずっとだ。
何処か頭がぼんやりとしていて、歩いているのに、前なんか見ないで、過去ばかり見ている。いっそ、振り返って進んでみれば良いのに、来た道を戻るのは怖かった。視線を感じていたからだ。背後に誰かがいて、俺を見ていた。だから、振り返ることも、道を戻ることも出来ないで、曖昧なまま前に進もうとしている。
それは追い立てられるようでもあるし、その先にある物を見ろと言われているようでもある。どちらにしろ、その場には留まれない。
だが、ぐるぐると堂々巡りをしていた時よりかは、何処かには進めているような気がした。
俺は漸く思考が静かになった。
まるで映画のように、この場を駆け巡った過去達は、全て俺の中へと戻されている。
気が付かない内に閉じていた瞼を開けば、見知らぬ廊下にいた。
「あれ」
移動した覚えはない。思わず、驚きの声が漏れる。
まるで学校のようだった。廊下の右手側は窓になっていて、左側には幾つかの扉が並んでいる。その扉は頑丈そうで、どちらかと言えば、学校ではなく、刑務所のようかもしれない。また、外は霧がかかっているかのように真っ白で見通せない。
見渡すが、
いないなら仕方ないと、俺は廊下を進み始めた。後ろは突き当たりになっていたので、前に進むしかない。
梯さんだろうか。それとも、君だろうか。彼女だけはやめてくれ。祈りとも恐れとも似た願望が、俺の肩を硬くさせた。
廊下の先にはやっぱり教室みたいな造りの部屋があった。少し広めで、特別教室のようだった。
机のついた椅子が十個程並んでいて、そこには年季の入った等身大の人形が座らされていた。不自然な姿勢の人型が微動だにせず置かれているのは、この数だと異様な存在感を出していた。
椅子が向けられている先には、今時珍しいブラウン管の四角いテレビが台の上に置かれていた。薄型に見慣れてしまっているからか、やけにサイズが大きく感じられる。
テレビには小綺麗な年配の女性が映っていて、きっちりした格好と眼鏡の形のせいで、厳しそうな人に見えた。こうして見ると、最近のテレビは随分と高画質になったものだ。肌の調子まで見られる立場の人にとっては、多少荒い方が良いのかもしれないと思うが、やはり、美しい映像が見たいと思うし、細かい所も見やすいので、技術の進歩には素直に感嘆と感謝がある。
「座りなさい」
女性の口が動くと、テレビのスピーカーからざらついた音声が流れる。その声は、迷い始めてから度々聞いたスピーカーの音声と同じ声だった。
俺が呆気に取られていると、もう一度、女性が先程よりも強い口調で「座りなさい」と繰り返した。
何かの番組でも流れているのだとばかり思っていたが、もしかして、ライブ配信なのだろうか。俺は威圧的な声に流されつつ、その疑念を晴らすために、一つだけ空いていた後ろから二番目の席に腰掛けた。
すると、女性は「良いでしょう」と言った。
やはり、俺の行動を見て、発言しているとしか思えない。
最小限の動きで、ちらりと天井や角を見るが、カメラが仕込まれているような気配はしない。ブラウン管も観察するが、そういった付属品はない。
「余所見をしないように」
すかさず、女性が俺に命じる。
やはり、俺の行動を受けて話しているようにしか思えない。
此処が何処なのか、何故、此処に辿り着いたのか。分からないことが多い。ひとまず、俺は彼女の言う通りにすることに決めた。
大人しくなった俺に満足したのか、彼女は一度頷いてから、「よろしい。始めましょう」と言った。
「何を始めるのですか?」
「静かになさい」
ぴしゃりと言われ、俺は思わず黙る。まるで、刑務官のような態度だ。宛ら、俺は罪人という訳だ。
「ワークをしましょう。では、良吾。貴方から」
良吾とは、椅子に座らされた人形のどれかの名前だろうか。
すると、斜め前に座っていたデッサン人形が、俄か立ち上がる。そして、ありもしない口で話し始めた。
「
俺は驚いて、顔を強張らせたが、よく見ればつむじの先に糸が繋がっている。糸の先にいる誰かが引っ張って立たせたのだろう。糸の先には天井がある。きっと、声も糸を引っ張っている人が出しているのだろう。
俺以外の人間がいる可能性はあることは、少しばかしの安心を俺に与えた。
俺の戸惑いを無視して、人形は語り続ける。
「僕の家は母子家庭でした。幼い時に両親が離婚してから、ずっと二人で暮らしていて、彼女は僕に食べさせるために、朝も夜も働いていました。遊んで貰える時間は短かったけど、母が僕のために多くを犠牲にしていることを、子供ながら薄々理解していたので、なるべく我儘を言わないようにしようと考えていたことを今でも覚えています」
具体的なものはないが、何だかその話に既視感があるような気がした。尽くすということに関する何かだ。
「僕が十七になった時に、母は僕に大事な話があると言って、ただでさえ狭いのに、物で溢れて散らかったリビングに座らせました。そこで彼女が言ったんです。お母さんね、好きな人がいるのって」
彼が十七歳と言っていたから、母親は若くても三十代だろうか。二十代を子育てに捧げてきたなら、子供が大きくなったし、そろそろ別のパートナーを、と考えるのも有り得るだ。
「僕は思いました。この女は母親であることを捨てようとしていると。僕を切り捨てようとしていると」
彼のように感じてしまうのも、仕方のないことかもしれない。十七歳はまだ子供だ。
母親をある種神格化させてしまったままでいる。自分のために何でもやってくれて、無条件に愛してくれる存在で居続けているのだ。
「母と僕はたった二人で生きて来ました。楽しく、明るく、努めて真面目に、支え合いながら。父親の不在を意識しない位に」
その裏にどれだけ泣いていたのか、どれだけ耐えていたのか、子供には見せたくない顔だから、子供がそれを実感するのは、同じ大人になって子供時分を省みた時だろう。そこで、自分がどれだけ無鉄砲で我儘だったかと思い知るのだ。それを支えてくれていた人の存在の有り難さと共にだ。
「なのに、彼女は僕を裏切ったんです」
だから、そこに至らない年齢の彼は、母親の告白を自分への裏切りと感じてしまうことだろう。狭い学生の世界では、親は実に巨大な存在だ。それに反発するのもまた成長の一幕ではあるが、それでも、いざという時に頼れる存在であると認識され、安心感を与えるというのも親の持つ役割の一つである。そのために、子供には沢山の愛情を与えられる。安心感とは、絶え間ない愛情の量と期間で成立するのだ。
彼女の言葉は、持ち得る愛情の量を彼だけでなく、他の人に分けるという宣言であり、自分の安全保障されたテリトリーに他者が侵入する可能性の示唆であり、つまるところ、彼だけを優先することはやめるという宣言だったのだ。
「だから、僕は殺しました。母とその恋人を。恋人が初めて家に来た時に、晩餐会をしたんです。慎ましいものでしたけど。今思えば、恋人は良い人でした。優しくて、僕にとても気を遣ってくれていました。でも、僕は家にある包丁で、まず恋人を背中から刺しました。そして、悲鳴をあげて、僕から逃げようとする彼女の背中を刺しました。何度も。何度も」
語る声が震え始める。
「手も顔も彼女の血に塗れて、とても暖かかった。同じ体温になれたんです。それに不思議と安心したことを覚えています。その後のことは、あまり覚えていません」
凄惨な場面に、私は思わず生唾を飲み込む。この話が本当か嘘か分からないが、この場にいるのが人形で良かった。もし、本人がいたら、怖くて、俺は逃げ出していたかも分からない。
良吾は短く溜息を吐いた。
「とても身勝手なことをしたと分かっています。もっと話し合えば、何か変わっていたかもしれない。全部、僕の狭量さのせいだったんです。どうしても、許せなかった。一人の人間としての自由を、僕は認められなかった」
話終わったのか、良吾は再び椅子に座った。
何処からか拍手の音がして、何となく、私も拍手をした。その後の良吾はまた在るが儘に微動だにしなくなった。
女性の言うワークというのは、彼のように自分の半生を語ることなのだろうか。何だか、いつかテレビで見た、薬物中毒者が更生のために集まって話し合うプログラムに似ている。抱えている問題や気持ちを話すことで、共感者を得たり、解決への話し合いをしたりと、その効果は症状をどうにかすると言うより、人間関係を構築するのが目的に思えたのを思い出した。
それに似てるものだとしたら、此処には人形しかいないから、人間関係の構築も何もない。唯、語り、聞くだけで終わる。
「
女性に急に指名され、私は動揺をしながら、バタバタと立ち上がる。
「えっと、何を話せばいいのですか」
「貴方が話したい罪を」
「罪?」
「ええ。此処は罪を認め、告白し、贖う場です」
「俺が何の罪を犯したって言うんです」
「貴方は」
荒い画質の先の彼女が口にする。
「貴方は、罪を犯したでしょう?」
言葉が出なかった。
彼女の発言に呆気に取られたのもある。だが、それ以上に、思い当たる節があったからだ。
瞬間頭を過ぎったのは、身動ぎせず、唯、浅い呼吸を繰り返すだけの彼女だ。ひと月の間、布団の中で、食事と排泄のためにだけ生きているような姿だった。「否定しないで」絞り出された、からからに乾いたその訴えを、俺は跳ね除けた。「否定なんてしてないよ。唯、君が心配なんだ。ほら、お粥を作ったんだ。食べて」それは優しさだったろう。労りだったろう。人として正しい在り方だったろう。「否定しないで」反響する声。脳に焼け付く景色。動かない君は、まるで、死体のようで。
「さあ、告白を」
声が促す。
「俺は」
沈黙が突き刺さる。此方に向きもしない人形達からも、何か圧力を感じる。全員が俺を見ている。
「俺は、俺は誰も殺していない」
絞り出すように発した回答は、皆を落胆させたようだった。途端に空気は弛緩し、また、別の緊張が場を支配した。
テレビの中の彼女が俺を睨んでいる。
「貴方にはがっかりです。伊東進。貴方はまるで何も分かっていません。まずは、罪を認める所から始めましょう」
そう言われて、何が引っ掛かったのか自分でも分からないが、驚く程に怒りが湧いた。瞬間湯沸かし器のように、とは良く聞くが、まるでその通りに俺は声を荒げて、テレビへと歩み寄っていた。
「あんたに何が分かるって言うんだ! 何も知らないだろう。俺のことも、彼女のことも」
意味がないと分かっていても、衝動が抑え切れなくて、重いブラウン管を掴んで揺さ振る。
「良い加減なことを言いやがって。何が罪の告白だ、何が罪を認めるだ。俺は何も悪いことをしていない! 冤罪だ!」
そう言って、俺はテレビを台から地面へと落とした。
落ちた衝撃に耐え切れず、画面は割れ、一瞬、火花が散った。当然、映像も映らなくなり、画面は暗く沈む。
衝動的であったことは認める。だが、自分のしたことに、自分でも驚いていた。
肩で息をしながら、壊れたテレビを見下ろす。こんな風に、思い切り物に当たったのは初めてだった。自分の行動の結果に、急に頭が冷静さを取り戻して、取り返しのつかなさに怯えた。
「あ、あの」
何か弁明をしなければと思った。だが、昏々とした頭は何もワードが思い付かなかったし、そもそも、周りには人形しかいなかった。
「伊東進」
何処からか、映像の女性の声が聞こえて来た。
「貴方は悔悟室に行きなさい」
そう命じると、並んだ椅子がひとりでにざっと動き出し、廊下への道が出来た。
「あの、すみません。その、カッとなってしまって。弁償しますから」
「悔悟室へ行きなさい」
強い口調の言葉に、俺は臆して、すごすごと人形達の作った道を通って、廊下へと出た。
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