第26話 泥泥

 其処にあったのは、よく見慣れた六畳半だった。


 冬場は心臓が止まるかと思う程に冷えるフローリングに、端へと追いやられた金属フレームのシングルベッド。椅子なんて大層なものはないから、セールになっていた座布団代わりのクッションを使っていた。肌触りが良くて、草臥れているものだ。

 中心には中古の低い机がある。大理石のような見た目だが、本物ではない。少し揺らすとグラグラとして、体重を掛けるとそのまま足が折れそうな気配がする。

 全体的に物がないこざっばりとした部屋だ。衣服が掛けられたコーナーは雑多に見えるが、それも含めて整理整頓がされている。やけにサイズの大きな洗剤だけが、仕舞い切れなくて廊下に出されている。

 窓からは湿った風が僅かに入り、薄いカーテンを弱く翻しては、また、過ぎていく。此処は隣の建物との距離が近くて、あまり、風が通らないのだ。だが、大きめの窓が此処にしかないから、此処を開けるしか換気の方法がない。


 今までは、何処かで見たような見ていないような風景達ばかりだったが、この景色は確かに覚えている。

 彼女の家だ。

 俺達の映画館だ。


「椅子に掛けなさい」


 見えないスピーカーの声に従い、俺はいつもそうしていたように、クッションの一つの上に座った。


 机の上にはスマートフォンが一つ。淡いグリーンのカバーにはスタンドが付いていて、スマホを横向きに立てることが出来る。それで映画を見るのだ。画面には右向きの白い矢印が表示されていた。彼女のスマホだ。

 既にセッティングは終わっている。

 俺の隣にかけはしさんが座る。彼女の座っていた位置だ。


「此処は?」

「彼女の家です。俺達は此処で映画を見て、語り合って、過ごして来たんです」

「思い出の場所ですか」

「そうです。思い出の」


 此処が思い出の場所なら、此処が俺のために用意された舞台だとするなら、何故、彼女がいないのか。申し訳ないが、梯さんでは代わりにならない。

 俺は何をして来た。何を望まれていたのか。これまでの道に何の意味があったのか。此処は終着点か。


 豪奢な回廊を抜けて、暗き道を越え、不気味な草原を過ぎ、此処へ辿り着いた。

 正直、それが何のためなのかが分からない。

 これは夢の中なのか、現実なのか。ずっと、幻影のような彼女の影を見ていた。清廉で無機質な姿、黒く澱む感情、終わりを望む喜び、そして、原点。幻と映画と断片的な記憶達が織りなす、一つの幻想世界の終着点が此処なのか。

 納得は出来ない。此処は始まりだ。終わらせられない。君は楽しそうにそれを見ていたじゃないか。それでも、繋ぎ止められなかったのか。それでも、君はあの大樹を目指したのか。嗚呼、もしかして、此処の存在も忘れてしまったのか。


 君が守りたかったものはなんだい。

 僕が守りたかったものは、もしかしたら、もう壊れてしまったかもしれない。


「再生ボタン、押してみますか?」

「ええ、何が流れるかはもう知っていますけれど」


 梯さんの躊躇う細い指が、白い矢印へと伸びた。


 頭の中が君でいっぱいだ。


 不意に嫌な考えが頭を過ぎる。


 嗚呼、君がいなければ。


 君がいなければ、俺は何も失わず、何も苦しまずにいられたろうか。苦しみも痛みも君からやってくるんだ。あの人が言うんだ、口にも出したくない言葉を君へ。その度に俺は否定すべきなのか、賛同すべきなのか分からなくなって、頭が痛くなるんだ。


 何も考えていたくない。

 何も聞きたくないし、何も見たくない。

 熱に浮かされて、悪夢を見ていた方が良い。今なら、それすらも楽しめそうな気がするんだ。


 映像が流れ出すと、ロゴ達はいつもの動きで自社名を表す。

 映画館と違い、予告映像は流れない。あれはあれで、見ていて楽しいものだった。知らない作品に触れる機会であったし、際立ったシーンを纏めてあるから、ストーリーも分からないのに感動を覚えることさえもある。

 俺は、感動とは時間と出来事を経た上で得られるものだと思っているが、その時だけは分からなくなる。自分の何の琴線に触れているのだろう。俺の涙の理由は何なのだろう。

 それは意味のないものかもしれない。短い台詞と描写から何かを想像してしまったのかもしれない。唯、それだけのことかもしれない。


 静かな光景が小さな画面に映る。

 ひょんなことから大学で出会う二人は、少しずつ惹かれ合う。だが、恋模様は複雑になっていき、その関係性は健全とは呼べない様になっていく。お互いの心を傷付け、お互いに関係に対して怠けていく、そんな惰性の関係はある一つの事件をきっかけに様変わりする。そんな話だ、確か。君と見たんだ。


「ノートを貸してよ」

「いいよ、百万円ね」


 彼と彼女が教室で言葉を交わす。耳に覚えがあるやり取りだ。


「映画好きなら、一緒に観に行かない?」

「いいよ。今なら、あの監督の新作がやってるよね」

「俺もそれが観たいと思っていたんだ」


 デートの機会を得られて、心は幸福と不安に浮き足立つ。名作を堪能した後は、近くのカフェで一服しながら、感想を語り合うんだ。


「やっぱり、良い作品だったね。期待を裏切らない」

「うん。でも、あそこであの人が死んだのは、必要だったのかな」

「ちょっと雑な殺され方だったね。何か意図があるのかな」


 彼女はスマホを弄り出す。レビューでも探しているのだろう。幾つか関連ありそうなものを読み上げてくれる。


「神話のオマージュってことみたい」

「成程ね。じゃあ、あの光も唯のライトじゃなくて」

「なら、冒頭の家に掛かってた絵画って」


 分かるよ、と俺は映画の登場人物達に語り掛ける。話が止まらないんだ。人と話すのは得意ではないと思っていたのに、君とならいつまでも話せた。変な緊張もなく、落ち着いて自分の感想を語れるんだ。それは自由であるべきだ。どんな作品でも、どんな内容でも、それに抱く感情も、また、どんなものであっても自由なのだ。


「それは違うだろう」


 彼女が少し眉を寄せた。だが、直ぐに皺は取れて、困ったように笑う顔があった。


「そうだよね。ごめん、あまり分かってなかったかも」


 また耳に反響する「否定しないで」という言葉は、一体何処から鳴り響くのだろう。そういえば、この映画の主役はヒロインの言うこと為すことを否定してばかりだ。なのに、ヒロインは主役から離れない。それがいつも不思議だった。とっとと新しい人を探した方が良い。こいつと付き合っていても、駄目になるばかりだ。


 それでも、関係は続き、二人は同棲をするようになるのだ。


「何でじゃがいもを入れるの? 普通入れないよね」

「え、豚汁にはじゃがいも、じゃないの……?」

「はあ。里芋に決まってるだろう。君がどうしても入れたいならそれでもいいさ。でも、そういう時はさ、お願いをするべきだろう? じゃがいもを入れさせてくださいって」

「う、うん。分かった。勝手に入れちゃってごめんね。今度から気を付けるから」


 俯く彼女を見ていられなくて、彼はぽんと頭に手を置いた。


「でも、作ってくれることには感謝してる。いつもありがとうね」


 そう言うと、彼女は顔を上げて、はにかむように微笑んだ。俺はその顔が好きだった。俺にしがみ付くようで、君が頼りに出来るのは俺だけなのだと再確認出来た。


 俺だけを見ていて欲しい。俺の中にいて欲しい。

 君が欲しい。君が俺から離れないために、君の心が欲しい。

 いつまでも、俺に縋っていて欲しい。孤立無援で生きていて欲しい。生殺与奪の権を俺に譲渡して欲しい。


「俺以外の男の連絡先消して」「位置追跡のアプリを入れて」「飲み会も禁止」「俺より遅く起きるのは駄目」「その服、丈が短過ぎないか」「それと、それと……」


 君を守るためにと言った幾つもの約定は、本当は何を守っていたのか。燃え始めた君の体にも気付かずに、俺はその身を縛る鎖ばかり増やすことに無心していた。


 違う。これは映画の中の話で、俺のことじゃない。いや、違う、俺は。君は。そうだ。君だ。君は燃えた。それは俺のせいなのか。「否定しないで」泣き喚くな。いや、これは君の声ではなくて。確か、昔見た邦画の。嗚呼、何処までが俺で、何処までが物語だったのか。持ち得る記憶を裏打ちするものは、何処へ隠されたのか。


 視界が揺らぐ。不安で泣きたくなってくる。


「男の子なら、泣いちゃ駄目。お母さんの子なんだから、これくらいは出来るよね」


 差し込まれた声は、脳にへばり付いて取れない声だ。心の奥底から何かが迫り上がってくるような、そして、それを気取られてはならないと我慢し続けて、彼女が過ぎ行くのを待つのだ。


すすむ。お父さんのようにはなっちゃ駄目よ。良い? お母さんの言うことだけをちゃんと聞くのよ。大丈夫、進くんなら出来るよ、このくらい」

「お母さん」

「何?」

「おててつないで」

「いいよ。ほら、繋いだよ。進のお願いを聞いてあげたよ。だから、お母さんのお願いも聞いてね」

「何?」

「進のこと、何でもお母さんに話してね。お母さんの方が進より長く生きているから、色々と知っているのよ」


 鎖は物心ついた頃から、監視はそれよりも前からあった。

 優しい母だった。碌でなしの父親はいないも同然の中で、一生懸命に俺を育ててくれた。テストの出来が良ければ褒められて、何か失敗したら叱られた。お菓子を偶に作ってくれた。宿題を見てくれた。それは、普通の母親像から外れないものであるのに、彼女の愛を受ける俺も幸せであるのに、我が家は何処かがおかしくて、真綿で締められるようにずっと息苦しかった。

 十五の時だ。諍いを避けるために、母の望む役を自分が演じ続けているのだと気付いた時、俺は俺の人生というものの価値が分からなくなった。今まで生きた俺の時間は、決して俺の人生などではないと思いたかった。母の人生の付属品でしかない人生など、揺籠から出てないようなものだ。それでも、聞き分けが良くて、優しくて、大人しくて、そんな彼女の望む子供であり続けることが、この家での俺の役割で、同時にどうしようもなく俺の人生そのものだった。

 少女のような母だった。けらけらと笑い、無邪気に燥いで、無垢に微笑む。だが、不意に見てはいけない大人の顔を覗かせた。おやすみと言って、頬に口付けられた感触を今でも覚えている。

 大好きだった。大切だった。でも、何かおかしいんだ。それは普通ではなかったんだ。狂っていた。それを狂気の行為と呼ばずして何と呼ぼう。そうじゃなきゃ、貰ったラブレターを読み上げて、この女は悪魔だと言い聞かせて、一緒に破り捨てたりしない。餌をやる約束を守らなかったからと、飼っていた金魚を切り刻んでトイレに流させたりしない。


「進。進くん。お母さんね、進くんのことが大好きなの。いい子で、可愛くて、食べちゃいたいくらい大好き。それだけは忘れないでね」


 優しかった。暖かかった。でも、歪んでいたんだ。大切な物を一緒に壊して、大事にしていることが減っていく。そうして、許可された物の中心に残っている一番大事なものとは何だったのか。罪悪感だけが肥大していく。

 いつかのひんやりとした手が頬を撫でた。耳の傍で落ち着く声が聞こえて来る。


「君のためなの。必要なことなの。お母さんも辛いの。でも、お母さんは進のためにやってるの」


 大切な物を失い泣く俺を、母は泣きながら抱き締めた。

 それで取り戻せるものは何一つなかったけれど、何が自分に残っているのかはよく分かった。分かったつもりになっていた。

 たった二人ぼっち。庇護の下。泥に塗れて、俺は俺の顔を失っていく。その先で炭に塗れて、俺の体は汚れていく。


「そうだよ、悪くないよ」

「……伊東さん?」


 俺の呟きに、梯さんは首を傾げる。


 頭に何度も浮かぶ、熱に魘されたような思い出達は、今や頭とスマホから離れて、辺り一面に映し出されている。


「嗚呼、そうだよ。悪くないよ。悪い筈がないよ。お母さんの言うことは正しいのだから。だから、君の正体は悪魔だったんだ。……違う、そんなことない」

「あの、大丈夫ですか?」

「梯さん、俺が悪いんですか? 何も悪いことはしていないのに、こんな目に遭って」

「何のことですか?」

「何って、この映画の」

「私はまだ再生ボタンを押していませんよ。先程から、伊東さんには何が見えていますか?」


 その言葉に、思考が言葉を失う。


「押してないって……。それじゃあ、これは」


 俺の目線を追って周りを見渡した梯さんが、視線を戻して、真っ直ぐと私の目を見た。唯、見られているだけなのに、まるで、己の奥底まで見透かされたような気分になる。


「もう、ボタンは押されていた。……貴方が見ていたのは映画ではなく、過去ではありませんか? まるで、映画のように編集された過去です」

「編集だって? 嗚呼、何処からが過去で、何処からがフィクションなんだ。もう、分からない。分からないんだ」


 俺は頭を抱えた。周囲には今もプロジェクションマッピングのように、過去の映像が流れ続けている。


 俺が幼稚園で事件を起こした時のこと、小学生の頃に鬼ごっこが大ブームになったこと、親戚と縁を切ったからと帰省しなくなった小学三年生の夏、父親が出て行った中学二年生の冬、そして、帰って来た高校一年生の春、まるでホームビデオのように雑に流れて行く。


 映像の母が言う。

「進はやれば出来る子なんだからね」

 その言葉に縋った。だが、それ母の願望でしかなかった。


「好きな子が出来たら教えてね」

 その言葉に従った。従わなければ、あの子を傷付けることはなかった。


「家族はいつも一緒よ」

「父さんは?」

「あの人は家族じゃない」


 冷たい眼差しを覚えている。俺が何かした時、母はまるであの人みたいなことをするのねと詰った。我が家においては、あの人のようとは最大の悪口となっていた。今となっては、殆ど話さなかったからどのような人物であったかは分からないままだ。だが、幼い俺はその言葉を本当だと思い込んで、父親をあの人と呼び、あの人のような行動にならないように努めていた。


 だが、俺の言動の何かが母のセンサーに引っ掛かるようだった。あの人にそっくりと言われる回数が増えた。俺は理屈の通らないことで怒られることに慣れ始めていた。それでも、余計に身を強ばらせながら、役を演じ続けた。より卒なく、女王の機嫌を損なわないように、適応しようとしていた。


 そういう時、人は自分は上手く出来ていると思い込むものだ。俺も例に漏れない。

 だが、それはあからさまな泥舟だった。いつか泥々どろどろと自壊する脆く、頼りのない舟だ。だから、絵を描くよりも明らかに、俺達は沈んでいった。


 引き上げてくれたのは彼女だった。

 途端に、部屋で横たわる彼女がフラッシュバックする。


「嗚呼、俺のせいじゃない。俺のせいじゃないんだ」


 それは俺の声だったか。父の声だったのか。

 どうにも判別がつかなかった。

 ただ、君に会いたかった。





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