第25話 茫茫
扉を開けると、草原があった。
地平線が見える程に広い、
遠くには一本の巨木が聳えている。空は重い曇り空で、その影で巨木が不気味さを纏い、地面に近い位置から見上げると、まるで何かの怪物のように見えた。
俺は狭い扉に体を押し込んで、どうにか潜り抜けた。ずっと室内にいたからか、多少温くても外の空気が心地良い。頭の中も冴えるようだ。
俺の後に続いて、
羨ましいことだ。
俺はどちらかと言うと、ずんぐりむっくりとでも言えばいいのか、別に太っている訳ではないのだが、がっちりとしていて、かと言って、鍛えている訳でもないので、どうにも格好がつかない体型だ。その上、老け顔なので、余計に格好良さとは縁遠い。だから、すらりとしたスタイルには仄かに憧れがある。
今、梯さんの着ている灰色のカーディガンも、こうして梯さんが着ているのを見れば、柔らかな雰囲気を醸し出していて、とても似合っているのだが、もし、俺が着れば、余計に老けて見えて、事務のおじさんにしか見えないだろう。貫禄があると良いこともあるが、若い内は軽やかにスタイリッシュに見えてくれた方が嬉しい。
大学時代、お洒落な同級生がジャケットを着てきたことがあって、それがとても格好が良かったから、俺も服屋で試着をしたことがある。当初から懸念していたことではあったが、俺はジャケットでも羽織ろうものなら、一瞬でサラリーマンに様変わりするようだった。泣く泣く購入は諦めた思い出は、今でも俺の心に影を落とす。
彼女にその出来事についての愚痴を言えば、「そんなことないよ。老けてないよ。落ち着いてて、安心感ある」と言ってくれたが、それは同じことだと思うのだ。
「もしかしたら、色とか素材が悪かったのかも。ほら、黒とか紺とかだと、そういう感じが強まるから。後、ポリエステルじゃなくて、綿とかにしてみたらどうかな? こないだ着ていたブラウンのシャツは似合っていたから、そういう系統の色にしてみるとか」
優しくフォローはされたものの、それでも、人は自分の持っていないものを求めてしまう生き物で、俺は胸の内に未だに憧れを持っている。
そういえば、彼女はそれから度々、俺の買い物に付き合ってくれるようになった。もしかしたら、俺が自分の容姿を気にしていることを気に掛けてくれたからかもしれない。俺の選ばないものをチョイスしてくれるので、新鮮だった。
こうして、毎日、ジャケット着るようになった今も、いや、だからこそ、ジャケットの似合う人間になりたかったと思うのだ。貫禄も草臥れも要らない。軽やかでスタイリッシュなスタイルになりたい。まだ、二十代だから、おじさんとは呼ばれたくない。
じろじろと見ていたからか、梯さんが怪訝そうに首を傾げた。
ボストンだったか、丸く細身の眼鏡も繊細そうな雰囲気にとても似合っている。きっと、俺が掛けたら、昭和の親父になってしまうだろう。どうしてこんなにも違うのだろう。同じ人間の筈なのに。一見、地味な雰囲気だが、よく見れば粗も少なく、睫毛も長い。なのに、顔がくどくない。肌も若々しく綺麗だ。同じ二十代だと思うのだが、何を食べていれば、この張りを保てるのだろう。この人が肉や油を摂取しているイメージが持てない。兎みたいに野菜をもさもさ食べていそうだ。ラーメンなんて、食べたことあるのだろうか。
俺が何も言わずに見ているから、痺れを切らたのか、梯さんが口を開く。
「どうされました?」
「梯さんって、結構もてたりしません?」
俺の突拍子のない問いに、驚いたように目を少し見開いた。その瞳は室内では黒目に見えていたが、屋外では灰色がかって見えた。茶色い目は多く見掛けるが、灰色というのはあまり見たことがなく、俺はついその瞳を見つめてしまう。
梯さんは戸惑ったように、少しぎこちなく笑いながら返した。
「え、ど、どうでしょう。あまりアプローチを受けた覚えはありませんが」
「絶対嘘でしょう」
「そんなことありません。急にどうしたんですか。それよりも此処の話をしましょうよ。ほら、何処なんでしょうね、此処」
話を逸らされたが、現実問題、梯さんの言うことが正しいので従う。
「何処って」
辺りを見渡す。膝下程の高さの草が辺り一面を覆っていて、時折、そよそよと揺れるばかりだ。振り返れば、来た扉はまだ残っていた。扉の置かれた背景と、扉の中の景色が違っていて、どこでもドアはこんな感じだろうかと思った。
目線を戻すと、あの大樹が目についた。俺はこの景色を何処かで見た気がした。だが、訪れたことはないように思える。何かの記事や映画で見たのかも分からない。
「草原ですね。何処でしょう。こんなに広い原っぱは来たことがない」
「おや、そうなのですか。もしかしたら、
「どうしてそう思うんです?」
そう問い掛けると、梯さんは扉を指差した。
「初めの扉は、貴方の認識によって開かれた。もう一つの扉は、貴方の疑念によって開かれた。扉が開くのは、いつも貴方次第なのですよ。恐らく、後ろについて来ていた女性も、貴方の知り合いでは?」
「俺次第ね……そんなことあるんでしょうか。つまり、まるで此処が俺のために出来ているってことですよね。そんなコストの掛かることを態々する人なんていないでしょうし。それに、暗かったから、後ろにいる人間が誰かなんて分かりませんでしたよ」
本当は、後ろからついて来るのは、彼女なのではないかと思った。俺に縋り付くために、またやって来たのではないかと。
此処はまるで夢の中みたいだ。意図も出口も見えないし、空間は奇妙であるし、俺の頭の中もふわふわとして落ち着かない。今は人と話したからか、多少いつもの調子が戻って来た。
だから、ちゃんと考えられる。でも、幾ら考えたところで、やっぱりあれは他人なんだろう。だって、彼女なら、私を見付けたら、まず、呼び止める筈だ。陰湿に音を鳴らして迫ったりしない。それに、彼女はヒールなんて履かなかった。いつもほんわかと小動物のような彼女は、まるですっぴんのようでも可愛らしかった。
「そうでしたか。私の思い違いだったかな。じゃあ、此処もまるきり知らないと」
「ええ。嗚呼、でも」
草原の中心にでも植わっているかのような巨木は、風に吹かれて、ざわざわと何かの予兆のように音を立てた。
「何だか、懐かしい感じはします。それにしても、不気味な所ですね。特に、あの木とか」
「もう少し近くで見てみませんか」
「木を、ですか? 何故?」
「近付いたら、何かを思い出すかもしれませんし。何かをしたら、また扉が出て来るかもしれません。扉を見付けるのに、何かしらの条件があるとしたら、そのヒントを探す必要があります。草原には特になさそうですから、目立つあの木の辺りを探索しようかと」
大樹の根元迄は、道が出来ている。さくさくと進み出す梯さんを、私は追い掛けなかった。追い掛けずに、その背中にふっと過った疑念を投げ掛けた。
「梯さんは、本当は何処に次の扉があるか、知っているのではありませんか?」
空は閉ざされ、此処には月がない。眩む光は貫かれない。だから、目を閉じないでいられる。
理性はほとほとと草臥れ縒れながらも、何とか元の形に戻りつつある。回廊での、あの熱に浮かされたような、ふわふわとした感覚と今は少し離れられていて、この足はしかと地を踏みしめていると感じられる。
そのお陰で、幾らか思考もクリアだ。
梯さんは立ち止まって、此方を振り返った。
少し言葉を選ぶように、頬を軽く掻いていたが、決まったのか、柔らかく微笑みながら、口を開いた。
「どうしてそう思うのですか?」
「何だか余裕があるように見えます」
「そうですか? 残念ながら、私は扉が何処にあるのかを知りません。だから、探しています。貴方とは違う理由かもしれませんが」
「何故、探しているのですか?」
「納得のためです。恐らく、それが必要だと思ったんです」
質問には答えている。だが、その答えのどれもが何かをはぐらかしているような気がした。
俺はこの人を信用して良いのだろうか。短い時間の中で評価が何度も揺れている。本当に俺はいい加減で自己中心的な人間だとつくづく思う。
良い人そうだから、信用したい気持ちもあるし、こうして、何かを隠しているような態度は、俺の思い込みの可能性もあるが、どうにもまだ油断してはいけない気もするのだ。
とは言え、この状況で一人行動するのも考えものだ。そう考えると、仕掛けるタイミングを間違えていた。もっと、確信を得てから、質問をすべきだった。これでは、関係が悪化することはあれど、何も好転しないだろう。変に誤魔化さずに、素直に謝ろう。
俺は梯さんに頭を下げた。
「すみません。ちょっと不安になって、全部疑わしくなってしまって」
そう言うと、梯さんは優しそうに微笑みながら、「謝らないでください」と、俺に頭を上げるように促す。
「よく分からない場所に突然放り出されて、初対面の人間にごちゃごちゃ言われたら、そりゃ不安になりますよね。すみません、気が付かなくて」
「あ、いや」
思ったよりも、ソフトな反応に俺は戸惑いを覚える。
透き通った瞳が真っ直ぐ俺を見ていた。
「でも、私は伊東さんの敵ではありません。貴方を嵌めようとか、害そうとは考えていません。本当です。一緒に出口を目指したいだけなんです」
「出口……、そんなものが此処にありますか?」
「ないかもしれませんが、探す前に諦めるのは少々早過ぎるかと。ヒントかもしれないものが目の前にありますし」
辺りは一面の草原、中心には不気味な巨木。確かに、何かあるなら巨木にありそうだ。お約束というか、もしこの空間をデザインした人がいたら、其処に何かを置くに決まっている。
「そうですね。取り敢えず、行くだけ行ってみましょう」
俺がそう言うと、梯さんは少しほっとしたのか、顔の筋肉が和らいだようだった。変な緊張を生んでしまった。
二人で歩き始めると、耳を刺すように音が抜けた。
「自分がしたことをどう思っているの?」
どうやら、こんな機械と縁遠そうな場所でも何処かしらにスピーカーが置かれているようだ。
その音声は俺に関わりのある言葉なのだろうか。責められるような心地がして、スピーカー音が聞こえるとどきりとする。
俺のしたこと。それは何を指しているのか。
漠然としていて、これというものをピックアップが出来ない。探すためにコマ送りをするには、人生は長く、そして、人の脳は欠陥だらけだ。穴の空いたフィルムでは、正確性などある筈もない。
「行きましょう」
まるで自分に言い聞かせるように言って、俺は木を目指して歩いた。梯さんはそんな俺の後ろを歩いた。
横に並ぼうとしないのは癖なのだろうか。三人で歩いていると、一人後ろに下がっていくタイプがいるのは聞いたことがあるが、二人の状態でも起きるものだろうか。暗闇の中では、逸れないために縦列になる必要があったが、此処は明るいからそうする必要はない。
奇妙には思えたが、特に支障もないので、そのままにした。
見た目よりも距離はなく、見込みよりも早く大樹の根元へ辿り着いた。葉も花も実もなく、まるで枯れ木のようだが、こうして立っているということは生きているのだろうか。
その干涸びた樹皮を見ていると、彼女の指を思い出した。冬場、ぱっくりと割れたあかぎれを囲う皮膚が、乾燥で硬くなっていた。俺は経験したことがなかったが、現代でもあかぎれは普通に起こりうる症状であることを、彼女に会ってから知った。そして、保湿の重要性もだ。
俺は割と使った皿を放置しても気にしないタイプで、反して、彼女は溜めておくことが我慢ならないタイプだった。だから、自然と皿洗いは彼女の仕事になってしまっていた。そして、その時に触れる食器用の洗剤が指の必要な油分も奪ってしまって、乾燥が起き、それがあかぎれになるのだと、彼女に説明されたことを思い出した。
確か、その後は俺が皿洗い担当になったのだ。皿を幾らか溜めるのを、彼女には我慢して貰う代わりに、俺が水仕事を一手に引き受けた。あまりやったことがなかったから、最初は色々怒られたりもしたが、最終的に彼女のあかぎれは治った。それで良いだろう。
「あれ、伊東さん。こっち来てみてください」
木の周りを見ていた梯さんから声を掛けられる。
俺はぐるりと回ってみると、梯さんが木を指差していた。見ると、其処にはまるで御伽噺に出て来そうな、丸っこい扉が取り付けられていた。
「今、此処を見ていたら、突然扉が出来たんです」
「木の中に入れる、のですかね?」
「扉があるなら、何かしらの空間や道がありそうではありますよね」
何処に繋がっているのか想像がつかないが、進むしかないだろう。
「あの、伊東さん」
梯さんが遠慮がちに声を掛けて来た。
「何ですか?」
「扉が出る前、伊東さんは何を思い出していましたか」
「えーと、昔、彼女のあかぎれが悪化した時に、水仕事担当が俺になったなとか、あかぎれ治って良かったなとか、思い出してましたけど。……何で、俺が思い出してたって分かるんですか?」
「今までの会話からそう思っただけです。貴方は何かを思い出している。それが扉のキーに関係するのではないかと思ったのですが」
「馬鹿馬鹿しい。人の頭の中など覗けないのに、どうやって鍵になれると言うんです」
「方法はない訳ではありません。でも、そうですね。まだ、これは荒唐無稽なものなので、引っ込めておきます」
梯さんが意見を撤回したのを見届けて、俺は木に備え付けられた歪んだ扉の取手に手を掛けた。
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