第48話 どこに

 いつも通りの通学路を歩きながら、僕は考えていた。


 許すか、許さないか。

 言うか、言わないか。

 聞くか、聞かないか。


 そして、諦めるか、受け入れるかだ。


 視線の先にある、割れ目から雑草が伸びるアスファルトの道路は、まだ朝だと言うのに、既に多少の熱を帯びているようだった。見た目ではそう変化がないように見えるのに、何故そのように思えたのかは、自分でも不思議だった。


 夏が近づいている。

 だからと言って、何かが変わる訳ではないだろうけれど。


 経年故か、表面が欠けてガタガタとした道は、少し気を抜けば爪先に引っかかってしまうだろう。意気揚々と歩く癖はないから、僕は基本的に摺り足気味だ。なので、ほんのちょっとした段差に躓くことも多々ある。

 直すべきかもしれないが、いちいち行進のようにはきはきと歩くよりは、気怠げに歩いていた方が何となく様になるような気がする。熱血漢よりも、冷めた態度の方が格好いいと思う。それで初っ端に躓いたのだから、考えを改める必要性はあるかもしれない。

 僕は砕けたアスファルトの小さな礫を蹴り飛ばす。からからと軽い音を立てて、石は茂る雑草の中へと消えた。

 元も子もないことを言うなら、直そうと思っても、既に習慣として定着してしまっているために、日々の中では、注意すらも頭に浮かばないのだ。直す機会さえも、僕は見失っている。


 なら、頭に浮かんでいる内にどうにかした方がいいのだろう。


 彼等は僕を嘲笑った。それは許せない。

 だが、彼等のそのような行動を誘発させたのは、僕の履き違えた選民意識と偉そうな振舞いのせいだ。それは反省している。

 そして、現状としては、多少の改善は見込まれるものの、僕のクラスでの立場というのは難しいもので、クラスカースト上位に睨まれているが、優しいクラスメイトには話しかけて貰えているという状態だ。


 初日のような振舞いはもうしまい。なら、彼等も僕へ当てつけのような言動をする必要もなくなる筈だ。だが、一度ついた人の印象というのはあまり変えられないようであるから、今の僕がどのように努めているかを知ったとしても、彼等が行動を変えない可能性は充分ある。それは最悪なパターンだ。

 しかし、少なくとも三島みしまに関しては、僕に何かを伝えたがっているように見える。そして、それは攻撃的な内容ではない気がする。反射的に防御動作として逃げてしまったが、彼とは一度話した方がよさそうだ。


 もしかしたら、それの如何によっては、あの嘲笑を僕は許すことが出来るかもしれない。そこまででなくとも、飲み込むくらいのサイズに小さく出来るかもしれない。


 彼等を許すか、許さないか。それを決めるには、まず三島の話を聞くか、聞かないか。そして、僕は自分の落ち度を認めたことを言えるか、言えないか。

 それとも、それら全てを諦めて、現状をそのまま受け入れて、肩を強張らせながら生きていくか。


 ぐだぐだと考えたところで、まずは三島の話を聞かなければ、何も始まらなさそうだ。

 彼がまだ諦めていないなら、また話しかけてくるだろうし、そうでなければ、こちら話しかけてみよう。


 自分の見えてる世界を変えたい。嫌で仕方ないこの場所を心地良い場所にしたい。

 そうなるかもしれないと、あの景色が思わせてくれた。全てを賭けるには頼りないけど、チャンスは手放したくない。


 潮騒は絶えず、聞こえてくる。前ほどの嫌悪感がないのは、兆しなのだろう。それを無視してしまうのは、あまりにも勿体ない。


 同時に、まだ心が強張るほどに恐ろしいことでもあるけれど。


 僕は顔を上げた。

 後ろから自転車が近付いてくる音がしたからだ。


 途端に意識は外を向き、照る日に皮膚がじりじりと焼けていく心地を味わう。


佐竹さたけ


 自転車に乗った人物は、漕ぐのをやめて、僕の横に並走すると、少し緊張した様子で「おはよう」と続けた。


「おはよう、三島」

「……」


 彼は言葉を選んでいる様子だった。落ち着いているように見えても、もしかしたら、今の僕みたいに心臓がばくばくになってたりするんだろうか。


「あのさ」

「うん、話があるんでしょ」


 そう言うと、三島は少し驚いた表情を浮かべた。


「そう。此間、待ち伏せみたいにしてごめんな。どうしても伝えたいことがあって」

「いや、僕も無視してごめん」

「佐竹は気にしなくていいよ。急にやられたら怖いなって、俺、後から気づいてさ。だから、ごめん。でも、やっぱり聞いて欲しいことがあるから、その」

「聞くよ。放課後で大丈夫?」


 三島は少し戸惑っているようだった。俯いて、自分を避ける人間と急に会話が成立し始めたからだろう。もしかしたら、話したい内容に関わる反応なのかもしれないが、現時点では判断のしようがない。


「……ありがとう。じゃあ、放課後、体育館横の倉庫で待ち合わせよう」

「わかった」

「それじゃあ、俺は先に学校行くから。後でな」


 そう言って、三島はペダルを踏み込んで、スピードを上げていった。忽ち、大きな背中は遠退いていく。


 僕はそれを眺めながら、溜まっていた唾を飲み込み、息を深く吐き出した。肩の位置が下がった気がした。

 鼓動は変わらず高鳴りで痛いくらいで、暫くは収まりそうにない。ゆっくりと息を吸って、肺を満たして、腹の底に溜まる重い空気と共にゆっくりと息を吐き出す。それを繰り返すと、多少は落ち着けることを経験則で知っている。

 足は変わらず動かしたままで。重い鞄を担いで歩き続ける。生徒数が少ないから、ほぼ通学路でクラスメイトとは遭遇しない。


 足さえ止めなければ、どこかには辿り着けるとしたら、素敵なことだ。

 それでも、どこへ向かうか、そもそも足を動かし続けることに迷うこともある。


 不意に視界に差し込む白に目を奪われ、僕は振り向く。しかし、その先にあったのは、海原を揺蕩う無数の煌めきだった。

 海面がきらきらと陽光を反射している。ただそれだけ。眩いほどのそれに僕は思わず目を細めた。

 奇妙なことだ。僕は太陽のイメージなんて抱かなかったのに、見間違えるなんて。


 胸に過ぎる想いを見て見ぬ振りをする。手に取れば、苦しくなるだけだとわかっていた。


 僕は覚えたばかりの呪文を口の中で唱えた。


「おとりさま、おとりさま、道をお教えください」




 ──────────────────────




 日は高く、風は涼し。

 花の香はなく、忙しない砂ばかりが吹き込む。


 体育館横にある倉庫には、授業に使う機材と集会等で使用するパイプ椅子等が仕舞われている。常時、鍵が掛けられており、格納されたものを利用する時には、体育担当の教師から許可を得る必要があるのだと、体育館の掃除を任せられた時に、同級生の子から聞いた。


 無邪気さがまだ残るその子は、それほど目立つ子ではなかった。話の中心にいる、というよりは、話を回してる途中で突然角度をきかせたコメントをしてくるような感じだ。予期せぬ展開に戸惑うこともあるけれど、平然とした顔でトリッキーなことを言う彼がまた面白く思えてきて、最終的には楽しい奴という評価がおりる。

 本人自体はぽわぽわとしているのだが、時折、その呟きがインパクトを残すのだ。かと言って、彼が所謂、天然というものかと言うのも違うように思える。


 掴み所のない人物だが、転校したばかりで学校生活に慣れない僕を気遣って、色々と教えてくれたり、話しかけてくれたり、親切ではあったのだろう。彼からの教示には、移動教室の場所や掃除当番などの学校内のあれこれから、通学路にある寄り道ポイントなど多岐に渡る。彼を通じて出来た友達も多く、こうして学校に通うことが普通に感じられるようになったのは、彼の功績が大きい。


 この倉庫でも、掃除をさぼりながら、何か言葉を交わしていた記憶がある。あまりに取り止めもない内容であるから、仔細までは覚えていないが、実にくだらなくて面白かったということは胸の内が教えてくれる。


 今でも思い出せる。いつも華奢で頼りなさげなシルエットで佇んでいた。彼が立っている所だけ、空気が違う気がした。まるで、何かの映画から抜け出てきたような風貌で、伏せられた黒目が何かに気づいたようにちらりとこちらに向けられるだけで、心臓が握られた心地がした。そして、その感覚は本来は不快であるのに、彼から齎されるという点で、快に翻るのだ。

 ある時、彼は人好きのする笑みを浮かべて、ぼんやりと彼の顔を見ていた僕に言った。


「随分と熱心なものだね。穴が開きそうだ」

「開いているのか?」

「目玉は穴に嵌まっているものだ」

「それは僕が開けた穴じゃない」

「どうかな」

「どうもこうもないだろう。僕が見なければ、お前は目がなかったって言うのか」

「目がないのはお前の方だろう?」


 挑発的な物言いに僕はたじろぐ。

 珍しく、曖昧に笑いながら、彼は返した。


「因果なぞ、時に馬鹿馬鹿しくて堪らなくなるよ」


 僕はその意味はわからなかった。

 それだけで、それ以上の続きはないエピソードだ。だが、ただ、彼がどこか寂しそうだという印象を持ったことを強く覚えている。


 何故、そんな風に思ったのかはわからない。

 そんな感情を抱いたのは初めてだった。どのようにラベリングをすればいいのかさえ、僕にはわからなかった。ただ、より長く、その身が作る影を見ていたかった。

 あの感情は何だったのか。今でも、正体がわからない。この感情の名前も、彼のことも、僕はまだ何も知らないままでいる。知りたいと思う。なのに、もう知る術がない。


 彼は死んだ。

 首と胴が離れた状態で見つかった。


 胴は岩場で、首は社で。


 そして、その日から、誰も彼の名前を思い出せない。どんな記録を確認しても、彼の名前はなく、彼の両親すら、なんと呼んでいたかを思い出せていない。而して、彼の存在はこの町の記憶から消された。


 そんなことあるものかと思うのは当然だ。普通に考えれば、あり得ない。

 でも、現にそうなっているのだから、そうとしか言えないのだ。


 僕は彼を探している。名前を、記憶を、彼が確かにここにいたという証拠を。それなのに、僕は彼の顔すらもう思い出せなくなってきた。

 頬の柔らかさ、鼻の高さ、口の形も笑顔さえも。嗚呼、あの声色はどれだけ沈んでいたか、どれだけ弾んでいたか。

 霧中に影だけが残っている。だが、それさえも僕の影が映っているだけではないかと疑心が湧く。

 記憶の全てが疑わしい。幾ら回しても、全て、僕が勝手に始めた再演を見ているような気がする。それは同じシナリオの筈なのに、無機質で、朧げで、信頼ならない。この目で見ていた筈なのに、焼きつくどころかこそぐまでもなく剥がれていく。

 もしかしたら、彼の言う通り、僕には眼窩しかないのかもしれない。ただ、思い描いた夢を本物だと思っていただけかもしれない。夢が弾けて、現実だけになった時、何も残っていなかったのではないかと。


 名前だけでも返して欲しいんだ。思い出したいんだ。


 あいつを見ていると、彼を思い出す。だから、いつか彼の記憶は、あいつの記憶と混じってしまって、そこにいたというよすがも失ってしまう。

 そうすれば、僕はもう彼という個人を思い出すことが不可能だ。


 それは嫌だ。


 だが、今は、それよりも優先しなければならないことがある。


「三島」


 考え事をしていると、不意に名前が呼ばれた。

 反射的に声の方へと顔を向けると、佐竹が緊張した面持ちで、倉庫の陰から現れた。

 前の学校の制服のままであるから、学内では目立っている。


「来てくれたのか」


 佐竹の様子とは反対に、僕は安堵を込めて息を吐き出した。

 のそりと立ち上がると、つむじが見えた。佐竹は僕の次の言葉を待っていた。


「来てくれて、ありがとうな」

「別に。何の話か気になっただけ。つまらなかったら帰るよ」


 それは困るから、僕は再び倉庫前の数段しかない浅い階段に座り、その横を指差した。


「取り敢えず、座れよ。ここには誰も来ないから、内緒話に丁度いいんだ」

「へえ、そうなんだ」


 警戒心は残っている。当然だ。

 先延ばしにしても意味がない。僕はさっさと話すことにした。


「単刀直入に言うと、俺はお前に謝りたい。お前を馬鹿にして、仲間外れにしてしまっていたことを謝りたい。本当にごめん」


 音がなくとも、戸惑いは響いた。


 風が吹いて、砂が舞って、それでも言葉は吹き上がらない。少し離れた校庭から、位置的に見えないが、部活動中なのか声がひっきりなしに聞こえてくる。


「僕も謝らないといけないことがあるんだ」

「佐竹が?」


 胸の前にある自分の膝を、佐竹は眺めたままで、こちらとは視線が交わらない。


「来た時、正直、田舎なんてレベル低過ぎて話にならないって思ってた。東京の方が上だって無意識に思ってたし、それが振る舞いに出ていたと思う。すごい嫌な奴になってた。ごめん」


 僕は直ぐにその振舞いを記憶から引き出すことが出来た。確かに、鼻持ちならなかった。


「正直、むかついたのは事実だけど、それも入学初日の佐竹なりの生存の術だったんだろうし、いいよ。でも、俺らがそれを理由に佐竹に何をしてもいいって言うのはおかしいことだ」

「うん」

「あいつらにも言うから。こんな馬鹿馬鹿しいことはやめろって」

「うん」

「だから、その」


 言葉が出ない。あんなにシミュレーションをしてた所で、現実は一つしかなくて、それは常に冷たく重く立ち塞がる。いつだって都合の良いことは起きず、自分でどうにかしろと放り投げては、気まぐれに助け舟を出して、僕らはいつかそれを期待して口を開けて待つばかりになる。


「いいよ。わかってる」


 無意識に落としていた視線を横に向ければ、彼が僕を見ていた。重なる面影が胸を冷たく刺した。





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