第49話 埃と取引
「絶対さ、わかってないって、今、思ったでしょ」
僕は束の間交差した視線をわざと外して、校庭の方へと目を向けた。乾いた砂が舞っているのが見える。
「そ、そんなことは」
こいつもこんな風な反応を見せるんだなと、妙に冷静な頭が言う。そうだ、こいつも人間なのだから、焦りや困惑、不安や恐怖と言ったものも待ち合わせている筈なのだ。それなのに、僕はそんな姿をちっとも想像出来ずにいた。こうして目の当たりにしてようやく納得している。彼が人間だとわかって、安心している。
その枠と言うのも、僕の人間とはそういうものだという思い込みによって作られたに過ぎない、何の信憑性もないものかもしれないけれど、それを言い出すと、この世の何もかもが儚くなってしまうので、今は思考を留めておく。
「三島」
「なんだ」
僕の呼び掛けに三島は落ち着きを払って答えた。
「僕はずっとお前が怖かった」
「……そうだよな」
「でも、今はそこまで怖くないかもなって思える」
「それは何故だ?」
三島の顔がこちらに向けられた気配がした。僕は構わず校庭へと顔を向けたまま続けた。
「うーん、名前がついたから、かな」
そう言った途端、空気がぴりっと張った気がした。僕が出したものではないから、三島から発せられた緊張だろう。僕は少し慎重に言葉を選ぶ。
「お前のこと、得体の知れない怖い誰かだと思っていた。何を考えているかわからない、しようと思えば僕なんかけちょんけちょんに出来る存在。でも、今、お前は三島だってことがちょっとわかった気がしたんだよ」
「それは……人となりが少しわかったということか?」
「そう。お前も緊張もするし、不安を覚える。それは僕と同じだなと思った。だから、ようやく対等に話せる」
正面に向けた顔を右に向ければ、自分の顔よりも高い位置にある顔が、少し不安げに揺れながら僕を見ていた。
怖いと思うよ。現在進行形で怖いよ。過去から、あの日から顔を覗かせた恐怖が、僕の足を止めさせて、瞼を落とさせる。僕はそれを押し除けて、目を開いて彼を見る。
「許せるかはわからない。僕に非があったことは認めるけど、お前達の酷い言葉を僕は受け入れられるかはわからない」
「……」
「でも、お互いに自分の過ちを認めて、繰り返すべきではないと思うなら、これからの関係を築いていくことは出来る気がする。まだ、するだけで出来るかわからないんだけど」
「何で急にそんな風に思えるんだ」
確かに、昨日の今日でこの変化には不思議に思われるのもしかたないことだろう。だが、上手く説明が出来る気はしなかった。
遠くで小さな歓声が上がる。もしかしたら、どこかのチームが点数でも取ったのかもしれない。
「わからないよ。気まぐれかもしれない。でも、お前にとっても都合はいいだろ」
自分でも本当に伝えたいことを削ぎ落とした言葉だとは思った。だが、同時にそこまで本心を語らなくてもいいだろうと思った。
三島は息を吐き出しながら項垂れる。日焼けた腕を組んで、その中に頭を収める。僕は膝を抱えたまま、彼の返答を待った。
狭い倉庫前の階段で、僕らは身を縮こませていた。時折聞こえる運動部の声は、まるでラジオのようで、何か膜を張った向こう側の出来事のようだった。ざわざわと静寂を遠ざける。それが心地よかった。出した音が全て相手に伝わる空間は、酷く緊張する。
吐息一つ、瞬き一つにさえも意図が込められると、人は時に思い込む。ここは舞台ではないのだから、全てが演出であるなんてことはないのに、何かに納得したくて、そう思う。
この世の全てのことには意味があると言う人がいる。そうだったらいいとは思う。よくわからないことは怖い。不確定なものは不安になる。それに、くだらない僕の人生に意味があるとするなら、それは幸いなことだろう。でも、同時にそんなことはないと否定する自分もいる。
何もかもに意味があるかどうかなんて、僕一人でわかる筈もないのに、否定したくて堪らない。僕には何の意味もないと思い込んで、期待を壊さないと、卑屈にならないと、表に出るのも恐ろしい。
僕にとっての納得とは、何かを諦めるための理由に過ぎないのかもしれない。転んで血を流すのが恐ろしいから、歩き出すのを諦めるのだ。
でも、なけなしの陽の気を集めて、言い方を変えてみれば、それは、納得が出来るまで諦めきれないということかもしれない。
それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。すぐに諦めるのは努力を疎んでいるようであるし、諦めが悪いのも未練たらしいとも言えよう。こういうものは何とでも言えるものだ。だから、皆、欠点を美点にすり替えて、自尊心を守り、自分を他人に売り込むのだ。
それは見る角度を変えただけなのか、塗り替えただけなのか。本質はどこにある。また違う角度で見れば、それは短所となり、塗りたくったところでいつかはボロが出る。塗装の剥がれたその奥にあるのが本質なのか。
僕達は社会生活を営むにあたって、大なり小なり何かを被って、着飾って、演じている。円滑に過ごせるように、突かれたくない場所を隠せるように。笑って、語って、泣いて、教えて、唆して、蔑んで、嘘を吐く。決して、本心のありのままを他人に告げるなと。
なら、本質とは人に見せられないものなのか。
人間の本質とは醜いものなのか。
きっと、自分の人生の意味を見出せずにいるから、自分を守るためにごちゃごちゃと御託を並べてるに過ぎないのだ。
意味のない人生を過ごしている自覚しているから、全てに意味があるとなれば、高尚な意図のない自分が傷付く。否定されたくないから、最初から駄目な存在だから、何も出来なくても仕方ないねと誤魔化したい。
仮面をつけて、幾ら言葉をはぐらかしても、僕の人生に意味があるように見えない。意味がないこと、それこそが僕の本質であるなら、それはなんてつまらないことだろう。でも、皆の本質もその程度であれば、心は少し楽になる。
なんて矮小で卑怯な心の在り方だろう。
何か納得をしきれていないような、籠った静かな溜め息が聞こえた。見せつけると言うよりは、知らず知らずのうちに肺に溜まっていた澱んだ空気を、一気に入れ替えるためのように聞こえた。
でも、と思う。
その吐息には、君の本質が隠されていないだろうか。意図は隠されていないだろうか。僕の認識など僕の経験の中でしか作られていない。井戸の外にいる人間のことはわからない。
納得したいんだ。諦めたくないんだ。どっちかしか選べないのなら、この矛盾を包括したまま、歩いてみようか。霧の中の彷徨の先に何が待っているのか。それはどんな色をしているのだろう。
君がわからない。わかったような気がしたけれど、やっぱりわからない。きっと君もそうだって思っている。目印がなければ、方向もわからなくて、近くに寄らなければ、目印にも気づかない。
君はサインを出したろうか。
僕にはもう、それの見分けがつかない。
だから、次の言葉を待っている。
三島は顔を上げて、黒い目を校庭へと向けた。白目とのコントラストがはっきりしたその目は、どこに目線を向けているかがわかりやすい。
だから、僕はその目で見られると、心臓が跳ねるのだ。
「確かにな。都合はいい。でも、言い方が好きじゃない」
「どこが」
「お前を利用しているような感じが」
「そう」
「気にならないのか?」
「僕は、別に」
「そんなものか。変な奴だな。いや、言い出す側は気にならないものなのか。まあ、いいさ」
彼は顔を左に向け、僕を見た。どくんと跳ねる。黒々とした円な瞳が真っ直ぐ刺さるように僕を見ている。それから目を逸らさないでいようとするには、幾らかの努力が必要だった。
「いきなり友達なんて無理だろう」
「そうだね」
「じゃあさ、お試しのお友達でどうだ」
「試用期間みたいな?」
「そう。試しに連んでみて、それで上手くいけば友達になれるし、上手くいかなかったら、それぞれ仲良い奴と連んでればいい。勿論、その間に何があってもお互いのことは攻撃しない」
「悪くないね」
昨日までなら考えられなかったような話を、僕は簡単に了承した。
そんな僕を見て、三島は少しまだ戸惑っているようだった。だが、話自体は締結したと考えたのか、右手をすっと差し出した。
分厚く大きなその手を僕は一瞬見つめた後、同じように右手を出して握った。すると、三島も握り返した。強い力だった。
「じゃあ、その、よろしくな」
「よろしく」
乾いた砂の風が僕らの頬を打つ。不意に視線を上向かせれば、黒い瞳が穏やかさを湛えていた。
遠くでは、試合が終わったのか、がやがやと雑然としたざわめきが聞こえていた。
「あのさ」
「なんだ」
「学校から見えるあの島に行ったことある?」
僕が指差す彼方へと、彼は素直に顔を向けた。校舎からではよく見える海も、ここからだと全然見えない。
「どれのことを言っているんだ?
「名前はわからない」
「他に情報ないのか」
「蛸が住んでる」
「そんなのどこにでもそれなりにいるらしいぞ」
どうやら僕が思っているよりも、蛸の出没率は高いようだ。
しかし、らしいと言うことは、三島はあまり蛸と遭遇してこなかったのだろうか。遭遇しようと思って遭遇出来るものでもないから、運というのもあるとは思うが、ここの住人達にとっては磯遊びなんかの遊びは身近なものであるから、自然と出会う可能性は高まっているとは思うのだが、そうではなかったのだろうか。
「で、蛸がなんだ」
「蛸の島に行ったことあるか、という話」
「ないな」
「そうなんだ。皆が皆、行ってる訳ではないのか」
遠くへと見遣っても、校門に阻まれる。
その向こうにあるはずのもの。しかし、校門と塀よりも高い位置にある山の緑だけだ。初夏の青々とした茂みが風に揺すられて、ざわざわと時折音を立てた。
この音は、まだ、聞き覚えがあった。だが、ビルもマンションも見下ろしてこない景色は落ち着かない。まるで世界がここだけしかないような気がしてくる。閉じ込められてしまったような、何かから守ってくれているような、落ち着かない気分だ。
「なんだ、お前、行ってみたいのか」
同じように校門を眺めなら、三島が呟くように言った。
「行きたいのかな。どうかな」
「随分曖昧だな。六島のことは誰から聞いたんだ?」
「相田さん」
「嗚呼、あいつか。確かに、行動範囲は広そうだ」
「三島はさ、六島に何があるか知っているの?」
僕の問い掛けに、三島は一瞬緊張したように見えた。しかし、それはすぐに解けて、代わりに硬い壁が築かれたような気がした。
「……ないよ。あそこらへん、何もないし」
「そうなんだ。まあ、僕も蛸がいるってことくらいしか知らないんだけどね」
遠く青い煌めきの向こうに見えた薄青い島のシルエットを思い出す。
ただの景色の一つ、だが、胸の高鳴りがあったのも、内なる有様の一つだった。目を細めながら、耳を澄ませながら。潮騒に流されてしまいそうな軽やかな音の連なりが、僕を決して奪い去らない非情な波の飛沫が、斜陽に染められ混ぜられ見つからなくなっていく。
帰路に着く頃には、薄闇が手を伸ばして僕の影を掴み取る。それを共連れに、僕はまるで一人のように歩く。より暗い場所へ、より凍える場所へ、冷ややかな水の満ちる井戸の中へと帰るのだ。浮かぶ藁はもう沈んだ。その代わりに、空から蔦が降りてきた。そんな場所だ。
頭を振り、焦点を今に合わせた。
「でも、何もなくっても、行ってみたいかもしれない」
「そうか」
「あまり興味なさそうだな」
「嗚呼、その、悪い。興味がない訳じゃないさ。ただ、俺は行ったことがないから、何とも言えないだけだ」
脆い壁は軽く突けば崩れてしまいそうだった。だが、そうはしたくなかった。
「そっか。まあ、何に興味があるかは、人によるよな。興味があれば、いつか行ってみようよ」
返事は埃っぽい風に攫われて聞こえなかった。
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