第50話 海の縁
「それはよかったね」
僕が話終わるのを待ってから、凛とした、それでいて表面がさらりとした声が返って来た。
「取り敢えずは、の段階ではあるんですけど」
緩衝材としての言葉を投げやりに海原へ放った。
意味があったのかはわからない。結果的には塵を捨てただけかもしれない。ぷかぷかと浮かんだり、沈んだりしていたそれは、すぐに白い櫂で作られた渦の中へ藻屑みたいに消えたように見えた。
そんなものには目もくれずに、変わらずその目線は海へと向けられているが、その人の口元には僅かに笑みが浮かべられているように見えた。胸の辺りの筋肉が緩む。自分の行動を好意的に受け取られていることは嬉しかった。関係断絶一直線の一手は未だ降ろされていないようだ。
「うん、よかった。出来ることなら、人間関係は穏やかな方がよいからね。これからのことはまだわからないが、君に向けられていた敵意がなくなるというのは実によい」
「……」
僕がその言葉に引っ掛かりを覚えた。それがどれか悩んで黙っていると、その人はようやく僕の方へと顔を向けた。薄紫色の瞳が太陽に透ける。
「何かな。おかしなことを言ったろうか。訝しげな顔をしているが」
「あ、いえ。えっとですね、普通のことを言っていたので、そういう感覚も持っているのだなと驚いただけです」
「君は私を何だと思っているんだ。私にも家族や友人はいるとも」
生き物であるなら、生物学上の両親というものがいる筈だ。それは至極当然のことではあるのだが、その至極当然が似合わない、想像出来ない人も稀にいるのだ。
僕は改めて、その人を見た。
流れる白銀の生糸が如き髪は、西陽を受けて燦然と輝き、時折、風に揺れる様に心まで絡め取られるような心地がする。その顔は粗もなく、一つ一つの部位も麗しい形状であるのに、比率さえも黄金に留められており、一度でも見たならば目を逸らせず、無意識に息を呑むほどだ。紫水晶の瞳は深く、煌めきの奥にある鋭いその眼差しは、どこまでもを見通しているようでいて、何者をも映さない。
その目はいつも遠くを見ている。ずっとずっと遠くを。懐かしむように海を見る目は細められて、真っ白な睫毛の束が肌に影を落とした。まるで詩の中にいるようだ。
浅瀬を掻き混ぜる足の白さも、よく通るさらりとした声も、意識すればするほどに、その何もかもが自然のものとするには違和感が多く、いっそ神が己が為に造った完全なる者とでも言った方が納得が出来る。
目立ち過ぎるのだ。景色に溶け込まないとは、敵の目にも止まりやすいということだ。ただ、それ以上にこの人は、この世の景色に溶け込まないという言葉の方がしっくりくる。浮世離れした、という形容は、きっとこんな人に使うのだろう。鮮烈で儚くて、触れたと思ったら消えてしまいそうな。それでいて、不意にふらりと現れて、微笑みかけてくれそうな、そしてまた、ふらりと消息を絶ってしまいそうな、そんな僕達にとっての魔性の人。腕を伸ばしてもすり抜けて、瞬きの短い闇の間に現れる。本人は僕らのことなど気にせずに好きに振舞いそうなところも、その印象に拍車をかける。
そして、そんな僕と同じ存在とは思えない程の美しき生き物も、生き物だと言うのなら当たり前に親がいる。
「ご両親はどういう人なんですか?」
変な所を踏まないように、恐る恐る問いかけてみる。
「何と言うかな」
口の中で呟くように、言葉が漏れ出る。
杞憂だったようで、その人は特に気分を害した様子はなく、昔を思い返しながら言葉を探しているように見えた。
僅かに首を傾げながら、その人は考えながらと言ったように辿々しく語り出した。
「母は視座が高くて、全ての問題はどうとでもなる些細なものだと思っている……というのも少し違くて、問題があるという認識自体が薄いと言うのか、こういう問題があるらしいよと伝えても、それの何が問題なの? みたいなね」
「器が大きい人?」
「ポジティブに捉えるならね。ネガティブな言い方をすれば、鈍感、他人事って感じだよ」
その人は息を吐きながら天を仰ぎ、足を海から上げる。滴る海水が、小さな飛沫を上げながら水面へと落ちていく。器用に動かす指の爪は健康そうなピンク色だった。
「何が起きても関心がないんだ。多少のことでは、大いなる流れはびくともしないから、気にする必要がない。八つ当たりのように投げ込んだ礫では、大きな流れを変えることは出来ないし、跳ねた飛沫もいつかは落ちて、流れの中に混ざっていく」
遠くを見ていた目が伏せられ、自身の足元へと視線は向かう。
未だに水滴は肌に沿って滴り落ちていく。確かにそこにある雫は、海面と触れ合うと、途端に見分けがつかなくなる。
「だから、私が問題だと思ったものでも、彼女はそれを解決しようとはしない。私が何を変えようと、何かに成功しても、失敗しても、どれにしたって所詮大いなる流れの一部でしかない。何をしたって、大局は変わらない。今、私が足を上げたところで、何も変わりはしないんだ」
ぽたぽたと、潮騒に紛れる音が微かに聞こえた。
「この水滴がどこに向かおうとも、彼女は関心がない。どこに流れ着くのかも、興味ないだろう。跳ねた雫が桟橋を濡らしても、その染みの形に名前を当てて遊ぶこともしない人だから」
話を聞くに、この人の母親は冷たい人のように聞こえた。子供の疑念や願望を歯牙にもかけないというか、最初から大したものではないと決めつけている。
だが、この人からは、母親に割と話しかけているのだろうという空気感が見えた。恐らく、今語られた評価というのは、大凡、そのやり取りの内に得た印象なのだ。そして、その印象というのは、この人にとっては、僕が感じたものより悪くないものなのだろう。
何故なら、語るその人の口調は少し困ったようでいて、同時に面白がっているようにも聞こえたからだ。仕方ないよね、って一言で片付けられる程度の問題なのだろう。
うちとは違う。
何かが成り立つこともない僕の家とは違う。
その人は足を桟橋の上へと乗せた。多少残っていた水滴が木の板に伝って色を変えさせた。円形とは言えない、歪な暗い絵が出来ていく。僕の目には、それは箒が何かの形に見えた。
「父は自由人で、三回くらいしか会ったことがない。彼は束縛を嫌う訳ではないけど、縛られる理由などないから、世界中を揺蕩いながら見回している」
続けられた言葉に、僕は理解か追いつかなかった。
「旅人? とかですか?」
「いや、旅というのだろうか、あれは」
その人にとってもよくわかっていないらしく、珍しく歯切れが悪かった。
「ただ揺蕩っているだけなんだ。徘徊しているという言い方でもいい。目的地はないし、やりたいこともないから、取り敢えず、そこら辺を見て回っているんだ」
「近所のお爺さんとかが、特にあてもなく散歩してたりしますけど、そういう感じですか?」
「そうかもしれない。その散歩の規模を世界規模にしたのが父だ」
「何の目的もなく、世界中を散歩しているんですか?」
「そうなるね」
「変な人だね」と自分の父親のことなのに、他人事のようにぼやきながら、その人は体勢を変えて、桟橋の上に足を伸ばした。より絵は広がっていく。
それよりも、突然語られた規模の大きな話に、僕は少し置いて行かれていた。もしかして、とてもお金持ちなお家で、自分で稼ぐ必要もなくて、暇を持て余しているのだろうか。子供がいるのに、家から出て世界中を散歩しているとは、どういう状況なのだろう。いや、先程の母親についての話を聞けば、父親が散歩で家に帰ってこなくても気に留めなさそうではあるのだが、それはそれとして、変な家なのかもしれないと僕は思った。
「そういえば、父の散歩でえらい目に遭ったことがあってね」
すっかり海から上げた足は濡れた板と面する場所以外は乾きつつあるようだった。
先程体勢を変えた際に体の向きも僕の方に向けられていて、向き合ったことで、いつもより会話をしている感じが強い気がした。僕は少しだけ嬉しくなった。
「何があったんですか?」
「一緒に散歩中してる時に、父がうたた寝をしただけさ」
「公園とかで、ちょっとうとうとみたいな」
「まさに。そうそう」
それくらいなら、正直、そこまでのトラブルではなさそうだが。
その人は耐え切れない感じで少し笑いながら、話を続けた。
「父が寝てしまって、私は一人で暇になってしまったわけだ。丁度、森の中でね、周りに人もいないような場所だった」
「ちょっと怖いですね」
「だが、そこに人がやって来て、話しかけてきたんだ」
「土地の持ち主とかですかね」
「ふふ、どうだかな。それで、その人が訊いてきたんだ。マジックは好きか? って。私はマジックそのものを知らなかったから知らないと答えると、その人はコインが左右の手の中を何度も移動するマジックを見せてくれた。面白かったよ」
「普通に子供好きのいい人だったんですね」
「私が感動してると、その人が、あっちに道具が沢山ある、それがあればもっとマジックを見せられるから、一緒に行こうと言うんだな」
「雲行きが怪しくなってきた」
僕の反応を見ながら、その人はふふふと上品に笑った。鼻に響かせたようなその声は、柔らかく可愛らしかった。
「案の定、私は誘拐されてね。しかし、それでも父は起きなかった。どこかに移動させられている間に、隙を見て誘拐犯から逃げたはいいが、見知らぬ街に見知らぬ人々、本当にあの時は困ったな、ふふ」
「そんな軽めの「困ったな」で処理していい状況じゃないですよ。お父さんはどうしたんですか? 警察は?」
「警察なら来たよ。ただ、これは私がまだ五歳くらいの話でね、答えられないことの方が多くて、結局、その時は家には帰れなかった」
「帰れなくて、どうしたんですか?」
「この人なら面倒見てくれるよって人の所に預けられたよ。相手の人も突然のことで戸惑ってて、お互いにあわあわしていた」
もしかしたら、日本ではないどこかでの話なのかもしれないが、誘拐された迷子の子供の保護が、そんな雑に処理されるものなのだろうか。養護施設とか、そういう施設ではなく、直接里親のような相手に渡すものだろうか。
「相手の方はどうしたんですか?」
「いきなり小さな子供を押し付けられてびっくりしていたが、無茶なやり方をされ慣れているのか、普通に私の名前を聞いて、家に連れ帰って、ちゃんと育ててくれたよ」
「嗚呼、安心しました。いい人だったんですね」
「第二の父はいい人だよ。常識人の皮を被った、好奇心の塊のような人ではあるけどね」
バラエティ豊かな家族関係があるようだ。
そういう話を聞いてみると、どこか違う生き物のようなこの人に親近感のようなものが湧いてくる。その人の日常というものが、僕のそれと似てるような気がしてくるからだ。
もしかしたら、この人も宿題を忘れたことがあったかもしれない、友達と喧嘩したことがあるかもしれない、服に食べ物を溢したことがあるかもしれない。完璧な生き物に綻びが見えると、無性に嬉しくなるのは、その親近感が為だろうか。
「それじゃあ、君の家は?」
「え?」
顔を上げると、その人の薄紫色の目と合った。
酷く澄んでいて、酷く真っ直ぐだった。
僕は言葉を思い出せなかった。
記憶も感情もだ。
「僕の、家族は」
「嫌なら答えなくていいよ。昨日見た猫の話でもするから」
疑問符が際限なく溢れてくる。思考を埋め尽くして、指先を強張らせて、必死に掻き分けながら探している。そこにある筈だった。ほんの少し前まで触れられた筈だ。だから、そこにある筈なのに、感触がどこにもない。
「君、もしかして」
夥しい符の隙間から、さらりと声が水のように流れ込んだ。酷く冷たく、それは突き刺すような、それでいて、穏やかな質感だった。
「家族のことを思い出せないのかい?」
その声はそのまま体内へと流れていく。上の方から下がっていくと、それは胸の辺りで固まり、僕の心臓を氷で満たした。
肌の表面をなぞるぞわぞわとした不快な感覚と、脳のどこを掘り返しても皆無な手応えに、僕は眉を顰め、呼吸を忘れた。
「そんな、ことは」
唇が覚えていただけの音を発して、僕は何も言えなくなった。
足元に広がる絵はいつしか乾いて、小さくなっていて、僕はそこに何物をも見出せずにいた。
その人は一瞬だけ眉を寄せ、その後、少し困ったように眉を下げて、形のよい唇から音を発した。
「もう帰るといい。誰に会っても、ついて行ってはいけないよ。誰に呼ばれても返事をしてはいけないし、誰かを呼ぶこともしてはいけないよ」
「それは何故ですか」
「お
酷く単純な不可解さを問い正そうとすれば、開かんとした口が塞がれた。細く白い指が僕の唇を押さえた。
「何も聞くな。何も言うな。ただ、帰るんだよ。いいね」
その人の声の色はいつもの通りであるのに、胸のざわめきは大きくなるばかりだった。
聞きたいことはあった。知りたいこともあった。でも、僕にはそれらを飲み込んで、首を縦に振るくらいしか出来なかった。焦げた顔の色が見えない。そこにはきっと意図があっただろうに。
彼方の海の底へと光は飲まれていく。水平線下でとぐろを巻く大蛇は腹を満たしたろうか。
影を伴う西陽差し込むこの胸の内は、今に暗幕で隠された。
追悔のナラティブ 宇津喜 十一 @asdf00
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