第47話 お呪い

 顔は熱かった。


 耳の中で、沸き立ったお湯のように鼓動が鳴り渡る。巡る血が慌ただしく管を通り、僕の頭へと溜まっていく。


 ふらふらとする。指先の感覚が鈍るようで、触れているものが熱いのか冷たいのかもわからない。直感的には多分、冷たいものだ。でも、どこか膜の向こう側のような感覚がした。

 それは何かのリズムに従っているのか、規則的にかつ不規則に僕の手に当たっては砕けた。


 その感覚に集中しようとして、僕は呼吸というものを思い出した。萎んでいたような肺が膨らむと、いくらか落ち着きを取り戻せた気がした。


 俯いた顔を上げれば、彼方には今に沈みそうな太陽が、赤く燃えていた。僕は桟橋の傍の砂浜に蹲って、最後の輝きをぼんやりと眺めながら、思いきり息を吐き出した。

 そして、改めて自分の手を濡らすものを見た。また寄せて、返して。唸る潮騒は、いかに絶え間なく聞こえ続けるものだとしても、それは静かなものだった。


 誰もいない。


 時折、荒ぶ風が梢と僕の髪とを混ぜて、さわさわと音を鳴らした。齎される新鮮な空気を吸って、僕は立ち上がった。

 膝についた砂を手で払おうとしたが、濡れた手についた砂が余計にズボンにつくだけだった。黒い学生服のズボンに白っぽい砂はやけに目立って、恥ずかしかった。


 僕は桟橋の先端を見る。

 あの人はいない。


佐竹さたけくん」


 貝殻を鳴らしたような声が、僕を呼んだ。

 振り返ると、茂みの向こうに相田あいださんが相変わらずのジャージ姿で立っていた。

 彼女は波打ち際に佇む僕を訝しげに見たが、すぐにそれは心配へと変わって、僕の横に立ちながら「どうしたの?」と声をかけてくれた。


 僕は目を合わせられなくて、また、足元を見る。

 砂まみれの革靴と、履き慣らされている白いスニーカーとが並び、同い年であるのに、そのサイズは大きく異なっていた。

 波に打たれそうで打たれない境界に立ちながら、僕は答えを探していた。


 本当の気持ちを伝えずに済む方法を探していた。

 本当の自分を出さないで済む言葉を探していた。


 彼女は暫く僕の動きを待っていたが、ちっとも僕が何も言わないので、痺れを切らしたのか「こっち行こう」と言って、僕の袖を引っ張った。小さな力に連れられて、桟橋の先へと立つ。


 僕は一人になりたかった。

 絶え間ない潮瀬に飲み込まれてしまいたかった。

 でも、袖を引く手を振り切りたくないとも思った。


「いい景色でしょ」


 相田さんが言う。


 綺麗だとわかっていた。言われればわかる。そうだとわかる。

 それでも、言葉はちっとも思い浮かばないでいた。凪ではなく、ノイズに埋め尽くされた結果、全部が聞こえなくなったようだった。


 何も答えない僕に何も急かさず、彼女はしゃがみ込む。きっちりと縛られた二つの髪の束は、風に靡くことなく垂れている。

 一歩下がった位置で海を眺める彼女の背中を見ていた。


 意図がわからなかった。

 信用していいのかもわからない。

 でも、何かに期待している。いつもそうだ。


「小さい頃からずっと同じ景色なの。だから、見飽きちゃった」


 昼休みと変わらない色の声が、耳の中へ入っていく。


「でも、偶に見たくなって、ここに来るの。何でだろうね」


 さらさらとした砂のような声だ。


「自分がわからなくなる時、この景色を見ると、落ち着くんだよね。嗚呼、今悩んでいることは、案外、大したことないかもなって」


 それは僕にはわからない感覚で、とてもとても遠い世界の話で、それでいて、どこか羨ましかった。

 彼女は体を捻って、僕の方へ顔を向けた。僕はなんとなく目を合わせられなくて、また、足元を見た。


「僕は、海を見てもそうは思わない」

「じゃあ、どう思うの?」


 また、言葉が詰まる。喉が細いのか、言葉が大きいのか。


「佐竹くんは本当はここに来なきゃよかったって思ってるんじゃない?」


 はっとして、彼女の顔を見た。

 黒い瞳が僕を見ていた。それは責めるでもなく、嘲るようでもなく、ただの確認作業のようだった。


 また、言葉に詰まる。いつも、いつもそうだ。


 彼女は短く「そう」と呟いた。この無言が彼女にとっては答えになったのだろう。

 少し悲しげに笑いながら、相田さんはまた海へと顔を向けた。


「そっか。そうだよね。ここは何もないし。五月蝿い奴らはいるし、馴染むの大変だし、きついよね」

「そ、そんなこと……」


 社交辞令の否定の言葉は最後まで続かなかった。彼女の言うことが、何よりも真実に近かったからだ。

 僕はここに来たくはなかった。いつも帰りたかった。きっと、それは家ではない。あの家に帰ったって、気まずさに満ちて、息が詰まるに決まっている。だから、どこにもない場所へ帰りたかった。

 でも、同時に彼女の言葉を否定したいと思った。


 僕は彼女の隣に蹲み込んで、水平線を眺めた。

 彼女は一瞬こちらを一瞥したが、また、海へと視線を戻した。


「相田さんの言う通りだよ。僕は出来るなら元の場所に帰りたいんだ」

「そっか」

「でも」


 言葉を探せ。

 あの寂しそうな顔を見た時に感じた何かを。否定したいと思う何かを。

 この感情に形を与えたい。


「でも、この景色は本当に美しいと思う。これを見れたのは、知れたのは、少し嬉しいんだ」


 彼女が一瞬、息を呑んだ音が聞こえた。

 顔を横に向けると、にやけた相田さんの顔があった。


「そっか、そっか。へへ、なんか照れますな」

「照れるところあった?」

「あった。私が好きなものを褒めてくれたから」


 そうか、とまた納得した。自分の好きなものを褒められると嬉しい。そんな当たり前のことも、僕は言葉に出来ていなかった。だから、言われてから納得するのだ。


 僕は僕の思ったことを言っただけだ。

 それは僕にとってはただの事実の開陳に過ぎない。

 でも、どうしてだろう。今、僕は多分、喜んでいる。沈みに沈んだ強張った心が、解されたような気がしている。


 彼女が指を指して言う。「あそこに見える島に行ったんだけどね。すごく大きな蛸がいてね」潮騒に乗って、言葉が連なっていく。霞む島の話が僕の耳へと入っていく。僕は相槌を打ちながら、彼女の声を聞いていた。自分の内の変化を確かめながら、その理由を手探りで触れようとしていた。


「島には行ったことある?」

「ないよ」

「そう。じゃあ、きっと楽しいよ」

「そうとは決まってないでしょ」

「でも、初めて行く場所ってわくわくするでしょ」


 僕はその言葉に納得は出来なかった。転校初日の気分を思い出したからだ


「いつか、みんなで遊びに行けたらいいね」


 だが、笑いながらそう言う彼女に、否定の言葉は投げ掛けたくなかった。むしろ、そうなればいいとさえ思った。いつかクラスの人と一緒行けたら、だなんて、数日前には思いもしなかった考えが自分の中で魅力的に映る。

 その変化はいいものなのか、悪いものなのか。

 それ自体は悪くは感じないが、だが、それを認めてしまうと、自分の中の何かが崩れるような気がした。何かを諦めてしまうように思えた。同時に、諦める理由を探していたようにも思えるのだから、自分というものは複雑怪奇だ。


 矛盾は人の内ではさほど問題にならないと見える。

 と言うよりかは、様々な方向性を内包しているが故に、中には真逆に向くものもあるが、性質が異なるので切先が触れ合うことはないという感じだろうか。自分にとっては触れ合っていないだけで、端から見れば、大いにぶつかり合っていることもあろうが、そんなものは自分で気付くにはきっかけが必要だろうから、それはまだいいだろう。


 話を終わらせると、彼女はにこりと僕に笑いかけると、すくっと立ち上がった。


「そろそろ帰らなくちゃ」

「僕はもう少しここにいるよ」

「わかった」


 ジャージのお尻に付いた土塊を払うと、彼女は傍に置いていた鞄を手に取った。


「一人で家まで帰れる?」


 茶化したような物言いに、僕は軽く笑いながら返した。


「帰れるよ」

「本当?」

「何でそんなに懐疑的なの」

「なんか、佐竹くんって気がついたらどっか行っちゃいそうなんだもん」


 同い年の子にまるで子供のような印象を持たれるのは、何とも複雑な気分だった。

 しかし、人を避けて、気づかれないように過ごしていた身としては、思い当たることがあったので、そんなことはないとは言えなかった。


「あ、そうだ」


 何かを思いついたようで、彼女はくりっとした目を少し大きく開いた。


「多分、知らないと思うんだけど、おまじないがあるんだよね」

「お呪い?」

「行きたい場所に着けるお呪い」


 願いが叶うお呪いだとか、両思いになれるお呪いなんかが小学生の頃に流行った記憶があるが、そういった類だろうか。


「おとりさまって言う神様がいてね。その神様にお願いするの」


 そう言って、彼女は自分の左手を丸め、それを右手で包むと、目を閉じて呟いた。


「「おとりさま、おとりさま、どうか道をお教えください」って」

「それだけ?」

「うん。簡単でしょ」


 正直に言えば、拍子抜けした。

 こういったものは、例えば、用紙や十円玉を用意するこっくりさんだとか、どこか儀式めいた様式がそれらしい雰囲気を作るものだ。なのに、これは本当に唱えているだけだ。

 僕は一瞬、教科書に載っていた浄土宗を思い出したが、多分関係ないだろう。


「それで、おとりさまはどうやって道を教えてくれるの?」

「えー」


 薦めてきた割には消極的な態度で、彼女は口を真一文字に結んだ。


「んー」

「もしかして、ない?」

「人による?」

「人によるの?」


 お呪いに効力があるのか否かは、こういった時にはあまり重要ではなくて、なんとなく上手くいきそうな気がする、なんとなくいいことがありそうという、謂わば思い込みや棚からぼたもちレベルの御利益で充分ではあるが、かと言って、全く効果が見られない、少なくともその成果が不明のお呪いに需要はあるのだろうか。

 雰囲気を楽しむにしても、オカルティックとしてはあっさりとし過ぎている感じは否めないし、道を教えるというのも、思春期の子達に流行る恋愛とも絡まないし、日常場面において使える機会もなさそうだ。道に迷ったらお呪いするよりも、スマートフォンを見たほうがいい。倒れた棒の指す方向へ向かうよりも、機械的な音声の方が寄り添ってくれるのだ。

 予期せず、オカルトが現代科学によって追いやられている可能性に気付いたが、それはさておき、これはどの場面で使うのが相応しいのだろう。


「子供の頃に聞いた話だとね、親と逸れちゃった子がこのお呪いをして、親と合流出来たとか。進路に困った人がこれをして、その後、目に入った学校に進学したらいい感じだったとか、そういうのはある」

「あ、道って迷子だけじゃなくて、そういう、なんだろう。概念としての道もいけるんだ」

「そうそう。だから、効果はあるかはわからないけど、なんか上手くいきそうな、ちょっとだけ自信が湧いてくるような、そんなお呪いなんだよ」


 それなら、まだ使い道がありそうな気がした。お呪いに使い道という言い方がそぐわないのは承知の上だが、そういうことであるなら、方法が容易く気軽なのも納得出来る気がした。それほどの効果を元より求めてするものではないのだ。


「だから、なんか迷っちゃった時は唱えるといいよ」

「うん、そうする。いいこと教えてくれてありがとう」

「どういたしまして。じゃあ、また明日ね」


 今度こそ彼女は止まることなく、去って行った。


 静かになった桟橋には、僕だけがいて、潮騒だけが響いていた。

 耳の奥はもう、うるさくなかった。





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