第46話 停止線はなく

 溜め息を吐いて夢想した。


 重い息は目に見えずとも、地へと落ちていったのであろう予感しかしなかった。まるで、毒ガスのように地底で溜まり、多くを苛む。

 海へ落ちていたなら、或いは、かき混ぜられて、どこかへ向かえたかもしれない。千切れた海藻と一緒に海を旅するのも悪くない。

 だが、ここは教室で、床は古臭い木の板だ。経年故か、味のある色をしている。


 僕はホームルームが終わって暫く経った教室で、何をするでもなくぼーっと椅子に座り続けていた。

 周りにはもう誰もおらず、陽もだいぶ傾いている。

 もそもそとした動きで、引き出しの中の教科書類を鞄へと詰め替えていく。正直、持ち帰らなくていいだろうとは思うのだが、持ち帰っていなかったことが先生にバレた時が面倒なので、一応ちゃんと持ち帰るようにしている。

 無駄に重くなった鞄を肩に担ぎ、僕は立ち上がった。


 静かな教室に椅子を引く音が響いて、耳に痛かった。

 細かい床の傷が、傾いた光の加減で浮かび上がる。それをなんてことないように踏みつけて、僕は窓の外を見遣る。陽はまた呑まれようとしている。彼方の大蛇を夢想して、そこから連想される感情を噛み締めた。


 受け入れられたのだろうか。

 嫌われてはいないと思っていいのだろうか。


 一日中、繰り返している。


 まるで、好き嫌いの花占いのように、僕は問答を繰り返しては、ああだこうだと言って、その結果に文句を言っているのだ。いっそ、これに決めたとはっきりしてしまえればいいのに、自前の軟弱さが予防線を引かせようと足掻く。


 受け入れられたなら、嬉しい。

 でも、受け入れられていなかったら、思い上がった自分が恥ずかしい。

 でも、手を振り返してくれたのは、少なくとも嫌悪の対象にする行動ではない。

 でも、それは受け入れたわけではなくて、ただの軽い挨拶でしかなくて、僕の存在など、思考の上にも乗らないような取るに足らない所詮余所者なのかもしれない。

 でも、でも、でも、もしかしたら、僕と会うためにあそこで待っていてくれたのかもしれない。


 終わりのないでもでもだってを繰り返して、一つも答えが見つからない。

 こうすることに意味はあるのかと疑問に思うのに、止められない。答えが欲しくて、安心したくて、喜びたくて、最悪の周りをぐるぐると巡っている。足が止まるまでは、答えが決まるまでは、最悪はこちらに触れて来ない。


 遠くで鴉の声が聞こえた。

 もしかしたら、違う鳥かもしれない。

 ここに棲まう生き物は、僕の知るものと違っていて、呼び方も形も知らないままだ。

 知らない土地。知らない生き物。知らない人々。


 ぼんやりと窓の向こうを見遣る。


 臙脂色に染まる石畳を下りる人がいた。

 それが、僕の距離感なのだろう。


 がらりと、背後で大きな音を立てながら、扉が開いた。

 反射的に振り返ると、そこには現国の有坂ありさか先生がいた。手にはプリントの束がある。今日やったテストの解答だろうか。


 ここの人達は顔見知りが多いからか、人と人との距離感が近いが、彼の場合は初対面の相手にもそういう態度で接してくる。三十代半ばと見られるが、話し方はそれよりも若く感じる。

 夕方になり若干乱れた髪を直すことなく、彼は清潔そうなシャツの上のボタンを幾つか外して、ネクタイを緩めていた。授業中はきっちりしていた記憶があるから、生徒は皆帰ったと思ったんだろう。


 有坂先生は驚いた顔をした僕を見ながら、彼も驚いた顔を浮かべていた。


「まさか、まだ残っている奴がいるとはな。テスト前だから部活もないだろう。どうした、佐竹さたけ。何かあったか?」


 穏やかな声が、頭上から降ってくる。だが、それはいつぞやの誰某の桟橋のそれとは違い、どこか棘があるような声色に感じられた。

 理由は分からない。直感だ。


「居眠りでもしてたろ」


 茶化すように彼は言う。

 一瞬、返答に窮す。誤魔化すように、動かし慣れた音を出した。


「そう、です」

「誰か起こして行ってくれればいいのにな」


 そう言って、彼は少し眉を寄せた。


「なあ、クラスには馴染めたか?」


 気持ち小声で問いかけたのは、配慮だろうか。周りには誰もいないが、重要そうな話だという印象はつけられる。

 有坂先生は授業くらいでしか顔を合わせない。だが、彼は僕の置かれた状況について、いくらか知っているようだった。


「話すようになった子は増えました」


 僕は一番の懸念材料を排除して、最近のいい変化の部分だけを答えた。

 それを聞いた有坂先生は少しほっとしたように、顔の強張りを緩めた。近づけていた顔を離し、綺麗な姿勢へと戻ると、僕から見て、随分と高い位置に頭があった。

 比較的に若く、背も高く、かっこいい。女子の人気がありそうだ。前の学校では、女子の一番人気の先生はおじいちゃん先生だった。謎だった。マスコット的な好感度だったんだろうか。まだ、この学校の先生に慣れていないから、周りがどう思っているかわからない。


「そうか、それは良かった。慣れないことはまだまだあるだろうから、クラスの子でも、それが言いづらいなら俺のところに聞きにおいで」

「ありがとうございます」

「そういえば、数学の西村にしむら先生が佐竹のことをえらく褒めていたが、数学が得意なのか?」

「人並みです。授業で今やっている範囲は、前の学校でもうやってしまっていた範囲なので、他の子と比べると出来ているように見えるかもしれないです」

「そうなのか。内容の理解が出来ているのはいいことだな。まあ、無理せず、頑張れよ」


 ぽんぽんと僕の肩を叩いた手は、大きく、熱かった。爽やかな笑顔で先生は「そんで、早く帰れよ」とドップラー効果があまり出ない言葉を残して、教室を去って行った。

 靴音は遠ざかって行くが、はらりと彼の手元から落ちた紙が、舞うように地面へと落ち、僕の足元まで滑って来た。戻ってくる気配はないから、落ちたことに気づいていないのだろう。


 僕は届けようと、その紙を拾う。

 その時、ちらりと見えた名前に動揺して、紙を手から離してしまった。また、はらりと舞い落ちる紙は、傷だらけの床の上に落ち着いた。

 僕はもう一度、その紙を拾い、表面を捲った。


 名前の欄には、三島康二みしまこうじと書かれていた。

 そのプリントは見たことのない形式のもので、どうやら悩み相談をするために、自分の悩み事を書き出してみるような作業用のプリントのようだった。


 見てはいけないものだとわかった。でも、恐ろしい相手の弱点を知りたい。でも、悪趣味なゴシップに惹かれるのは行儀が悪い。でも、あいつの悩みを把握したい。ごちゃごちゃと思考が騒がしくなる。でも、結局の所は、そうしたら、自分があいつよりも上になれる気がするからなんだろう。

 あまり、褒められた理由じゃない。


 僕は名前の欄からスタートして、上から下へと目線を動かしていく。思っていたよりも簡潔にまとめられているので、深い内容はなさそうだった。

 想いを伝えるべきか、しまっておくべきか。自分はどうするべきか。そんな不安と迷いを相談したいとある。

 それだけでは、何についてかはよく分からなかった。三島には好きな人がいるのだろうか。それとも、進路の話だろうか。

 そんな様子は見たことがないが、彼等がいると俯いてしまう自分では気づきようがないだろう。


 思っていた程、重要そうな内容ではなかったが、人の秘密を知るのは蜜の味に近い。断片的でも見た、というだけでそれなりの満足感はある。

 僕は見てませんよという体で、プリントを持って職員室へと向かった。


 有坂先生は廊下の途中にまだいたので、さくっと渡して、僕はまた教室へと戻った。


 窓から差し込む茜色は、空気までも染めているようで、どこか懐かしい匂いがするようだった。優しくしていたい過去が掘り起こされるような心地がした。

 雑に机の上に忘れていた鞄を手に取る。


 別に教室に残る理由なんて、大してない。

 ただ、時間を合わせたかっただけだ。

 沈む陽を眺めるあの横顔が見たかっただけだった。


 でも、学校が終わってすぐに行くのは、何だか恥ずかしかったのだ。あの人に夢中になっていると、相手にバレてしまうのが怖い。まだ、秘めていたい。でも、曝け出したい気持ちもある。そうして、もし、拒絶されたら立ち直れないから、僕は秘すのだ。


 教室の扉を開けると、無人の廊下が左右に伸びている。西陽が差し込まないから、こちらは教室内に比べて全体的に暗く、鳴る音はどちらも殆どない筈なのに、何故だか静かな印象を持った。

 静謐な廊下の内に、今しがた開けた扉の形の橙が落ちる。四角の中には僕のシルエットが浮かんだ。扉を閉めれば、僕の影は周りの影と混ざる。


 僕達の教室は二階の中央寄りにあるので、廊下の両端にある階段を使うことになる。地味に距離があるのが不満だ。中央にも階段をつけて欲しい。三組の教室を縦にぶち抜いたら出来そうな気がする。


 並ぶロッカーを尻目に、僕はずんずんと廊下を進んで、突き当たりの北階段を降りていく。木造の階段は体重を乗せると、ぎいと小さく唸る。同じ木造の廊下では鳴らないので、組み合わせ方の違いだろうか。

 滑らかな手摺りを思わず撫でる。一体、いつからこの校舎は建っているのだろう。クラスの誰かが、老朽化のために近い内に建て替えられるか、廃校になって隣町の学校に行くことになると言っていた。どこから聞いた話かわからない以上、情報としての信用度は低いが、それでもこの味のある造りを見れば、それもやむなしと思うよりない。あまりにも古びている。そして、それを惜しく思うのもまた同じ心の内に湧く感傷だ。


 この町は嫌いだ。人も海も嫌いだ。

 だが、この校舎は美しいと思う。そして、ここから見える景色も美しいと思う。そう思う気持ちまでは否定したくない。


 階段を降り切れば、これまた古びた靴入れが並ぶ北玄関に出る。

 すっかり覚えた定位置へ真っ直ぐと向かい、色褪せたロッカーから革靴を取り出して、上履きから履き替えた。


 いつもは野球部が騒いでいる校庭も、テスト前の期間だからか、人気もなく、まるで違う学校のようだった。慣れ親しんだ訳でもないと思っていたが、あの声出しはいつの間にか僕の生活に溶け込んでいたのかもしれない。


 ふと視線を進行方向の校門に向けると、誰かが立っているのが見えた。シルエットからして男子だが、逆光になっていて、顔の判別までは出来ない。


 相手も近寄って来る僕に気付いたのか、海へと向けられていた顔をこちらに向けた。

 距離を詰めていけば、彼の短く清潔に整えられた髪型に見覚えがあった。三島だ。


 そうと気付いた途端に、身体の芯が棒になったかのように動きがぎこちなくなった。見えない何かが胸を締め付ける。それはあの人の前でも起きることだが、締め付けられる胸の内の色が違う。


 そうだ。情けないことに、僕は怖いのだ。彼の前に立つことが。


 三島は凭れかかっていた校門から体を離し、急に歩幅が小さくなった僕の方へとずんずんと近寄って来た。彼は体幹でも鍛えているのか、歩く時の体重移動が滑らかで、その立派な体格と合わせて、妙に威圧感があるのだ。


「佐竹」


 少し嗄れた声が間違いなく僕の名前を呼んだ。


 唾を飲み込んで、震える喉を落ち着かせる。


「何だよ、三島」

「あのさ、話があるんだよ」


 三島は僕の前で足を止めた。だが、僕はそれを無視して、校門へと向かう。すると、彼は慌てたように、後を追いかけてきて、隣に並んだ。


「話すことなんてないよ」

「待ってくれよ。俺の話を聞いてくれよ」


 いつもと少し、雰囲気が違っていた。こちらの反応を窺うような、何かに戸惑っているかのような、普段の堂々とした振る舞いとは違う柔らかさがあった。


「聞きたくない。あっち行ってくれよ」


 でも、僕は足を止められなかった。


 取るに足らない意地が、矜持が、そして、何より怯懦な心が、それを許さなかった。


 三島は足を止めた。遠ざかる僕をずっと見ている気がした。


「聞いて欲しいことがあるんだ」


 背中にかけられた言葉は酷く弱々しく、きっと、海の傍なら波の音で聞こえなかっただろう。弱いものは厳しい自然の中では淘汰されていくものだから、弱い感情も言葉も潰えてしまうのだろう。

 でも、この狭い井戸の中なら、充分聞こえる。聞こえたのに。


 僕は、足を止めなかった。





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