第45話 皿の上

 橋の袂まで行くと、音で気付いたのか、桟橋の先端に腰掛ける人はゆっくりと振り返った。


「また会ったね」


 静かな眼差しが僕の胸を射抜く。

 それは矢のように鋭くなく、ゆっくりと沈み込むように胸板を貫通していく。だが、ぽっかりと空けられた穴は、存外、すぐに埋められていった。

 この人を見た時にだけ僕の中で湧き起こる何かで満ちていくのだ。

 それは胸の内から今にも溢れ出しそうな勢いで、はち切れそうな細い血管を通り、脳内までをも容易く上っていく。僕は茹ったような、くらくらとする状態がばれないように、無表情に努める必要があった。

 顔が熱くなる。でも、向けられたその眼差しは冷たい。氷ではなく、夏に思わず足をつけたくなるような、尖っていながらもまろやかな冷たい湧水のようだ。

 衝動的で切なくて。留めておきたくて、でも、放出もしたくて。手に余る。でも、手放したくない。矛盾した感情が僕の心臓を締め付けながら解していく。

 まだ、これには名前をつけられない。つけたくない。未開の感情だ。だが、同時にその全てを詳らかに暴いてもしまいたいのだ。


「まさか、本当に来てくれるとは思いませんでした」

「ただ、海を見に来ただけだよ」

「ですよね」


 僕は何かに落胆した。また会えた、それだけでも喜ぶべきことなのに、おかしなことだ。


 その人は、僕の心の中を知っているのか知らないのかわからないが、座っていた位置から端に寄り、一人分空いた隣のスペースをぽんぽんと手で叩いた。

 恐らく、座っていいということだろう。


 僕は右足と左足のどちらを出して歩けばいいかだなんて、今更なことを考えながら、ぎこちなく傍へと近付き、その横に体育座りで座った。

 ちらりと横目で見ると、その人は裸足で、海にその真っ白で細長い足を浸していた。ぶらぶらと気怠げに動かして、小さく海水を掻き混ぜながら、遠くを見ていた。


 千切れた海藻か何かが渦に飲まれて、ふわふわと漂いながら中心へと巻き込まれていく。そして、それはどこかへ消えてしまって、見つからなくなった。

 その人は変わらず足を動かし続けている。海藻の行末どころか、存在自体も把握していなさそうだ。その目は彼方に向けられているのだから。


 僕は同じような場所へと、目線を動かした。

 遠く、彼方の水平線。さざめく水面のずっと先。燃えるような夕景は今に水底へと落ちていく。暗い、暗い水の底へと。


 沈みゆくあの眩い光を飲みこむ大いなる闇は、きっと目に映らないだけで、いつもそこにあるのだろう。闇を照らして、人の世界から夜を追い出そうとしても、この世からは闇は消えず、僕の形は影を生み出す。重なる影の濃さも、境界に揺らぐ影の淡さも、覚えていないだけでそこにある。そして、夜には世界の影と混ざって、僕らも闇になる。


 暗くて、冷たくて、吐く息の白さも見えないような真っ暗闇の中で、僕はどう足掻けばいいのだろう。


 目を落とし、背後へと辿れば、桟橋には僕とその人の伸び切った影が僅かに重なっていた。


 その人は僕の動きが気になったのか、僕と同じように振り返った。だが、特に目につくものがなかったのか、また海を眺め始めた。

 僕も同じように、また水平線へと顔を向けた。


 遠い。遠いと思う。


 地球が皿だったなら、あの水平線の先には何もない。だから、沈む太陽は闇に潜む怪物に喰われて死んでしまうのだ。だが、また朝になれば、東の空から新しい太陽が生まれてくる。そんな物語があったような気がした。

 もしかしたら、誰かが地球は丸いと発見しなかったら、そんな世界もあったかもしれない。知らないは未定だ。未開で未明、故に未熟で、そして、自由な世界だ。否定出来ない以上は、存在の余地も有り得るかもしれない。浪漫と吐き捨てられ、夢物語と鼻で笑われるような狭く広い曖昧さは、この現代社会においては、愚か者を指すかもしれないが、定義がまだなかった頃なら、或いは、それこそが真と呼ぶこともあったろう。

 別に、文明開花以前に戻りたい訳じゃない。

 それでも、枠の中に誰かの望む答えを書き続けることには、もう飽き飽きとしていた。


「今、何を考えてるんだい」


 横を見ると、その人はやっぱり遠くを見たままだった。陽射しを受けて、眩しげに細められたその薄い紫の瞳はきらきらしく輝く。白磁器のような肌と合わせて、その硝子玉のような目も穏やかな顔つきも、人のように滑らかに動くのに、どこか人の枠から外れている気がした。


 見惚れた心は何かを待っている。僕は答えた。


「変だと思われるかもしれないんですけど」

「変な方が面白いよ」

「世界が、世界がもし、お皿だったら、地平に沈む太陽はきっと怪物に喰われてしまうのだと、考えていました」


 一瞬だけ、ちらりと僕の顔を見た。

 どこか懐かしげに細めていた目は、すぐにいつものようにぱちりと開いた。口元には笑みが湛えられている。


「そうだね。あんなにも大きな光を飲むのだから、それはそれは大きな口をしているだろう」


 意外にもその人はこの素っ頓狂な会話に乗ってきた。


「どれくらいの大きさがあればいいですかね」

「ふむ、太陽の直径通りでなくても良いだろう。星を飲む、光を飲む、そういうことは口の大きな大蛇にでも任せると良い」

「蛇、ですか」

「大蛇は滅びの予兆だ。見掛けたら逃げたまえ。丸呑みされたら堪らない」


 大きな蛇が這いずった音は屋根に残るのだと、その人は続けて言った。僕は意味が分からなかった。だが、訊ねる気にもならなかった。自分の見えない世界を覗き込むような気がして、足が竦んだのだ。


 眼差しは今も尚、遥かなる水平線にある。


「どうして海を眺めるのですか? あなた、あなたは……」


 問い掛けようとして、僕は呼び掛けるための音を手に入れてないことに気がついた。というのは、正しくない言い方かもしれない。正しくは、とっくに気づいていて、知りたいと思っていたのに、尋ねづらくて、知らないままにしていただけだ。


 変わらず、その人は遠く、水平線の彼方を見ていた。穏やかな眼差しだった。寂しげな眼差しだった。

 滲む色の名前を僕は知らない。でも、それが美しいことはわかる。何を思っているのだろう。何を見ているのだろう。もし、誰かを想っているなら、僕ではないそれは、さぞ美しいのだろう。

 品のいい唇が微かに動く。


「何故を海を眺めるのか、ね」

「あ、言いたくなかったら、全然言わなくても」


 その人は微かに目を細めた。遠い過去を見るような目だった。

 そして、ゆっくりと瞼を閉じると、息を短く吐き出した。静かな吐息は湿気に溶けて、海へと沈んでいく。

 もう浮かぶことはない。救う手立てもない。なかったものとして、それは世界を彷徨い、擦り切れて消えるのだ。

 だから、貴方の息を吸ってみたいと思う。その眼差しから、その溜め息から、貴方の溢れた感情を集めたいと思う。


 寄せて返して、漣が時間を計る。白く泡立った波が三回程、足にぶつかった後、その人は呟くように言った。


「……行きたいところがあるんだ」


 疲れたような、呆れたような声色だった。

 だが、直後、こちらに向けられた顔にはそれらの気色はなく、柔らかな微笑みが浮かべられている。雑に結んだ三つ編みからほつれた髪が一房、頬を撫でて、また別の一房が僕の手の甲を撫でた。擽ったかった。手を伸ばさなくても触れられる距離だ。


 一つ、知った。海を眺めるのは、行きたいところがあるから。でも、また、分からないことが増えた。


「行きたいところは海ですか?」

「そうだね」

「じゃあ、どうして、海へ漕ぎ出さないのですか?」


 微笑みが陰る。それは不愉快さと言うよりは、悲しみに近い気がした。


「今の私の身体では辿り着けない。だから、眺めている。忘れないように」


 何か、病気か何かでもしているのだろうか。故郷が海外にあるから帰りたいが、病気が理由で帰ることが出来ないとか。ここら辺の病院と言えば、二つ町を越えた先にある総合病院くらいだか、そこからやって来たのだろうか。

 見た目だけで言うなら、白くて細いといった病弱そうな要素はあるが、人間離れした佇まいのためにそれらは儚さとして機能している。


 紫の瞳が、沈みゆく日を飲む海を捉えている。

 日が沈む。蛇に飲み込まれていく。


 皿の上の僕は、何も出来ないまま眺めることしか出来ない。睨まれるまでもなく動けなくなる僕は何のすくみになるのだろう。


 いつか、蛇は僕らの星をも飲み込むだろうか。

 この人は、蛇を見たことがあるだろうか。遠く、遠くを眺める人。懐かしそうに眺める人。

 次第に影が色濃くなって、いつかはこの人の顔を隠してしまうだろう。その時、僕は一緒に闇に飲まれるのだろうか。蛇の腹の中へ。それとも、明かりを灯すのだろうか、吹けば消えるような頼りない揺らぎとて、ないよりはましだ。目の前にいる人が誰かはわかるから。


 わからなくなるのは嫌だ。怖い。この人と繋がっていたい。見放されるのが怖い。手を繋いでいて欲しい。暗闇の中でも、それさえあれば孤独も恐怖も近付いたりはさせないものだから。


 忍び寄る影が、終わりを告げる。

 遠く聞こえる定刻のメロディには聞き覚えがなく、かといって、真新しいようでもない。きっと、何年も何十年もこの町に染み付いてきたお約束だ。

 それでも耳慣れぬメロディーで芽吹く郷愁は、一体どこから内へと忍び込んできたものなのか。もしかしたら、僕の体なんて穴だらけで、寄生虫だらけで、僕と呼べるのはほんの僅かしか残っていないかもしれない。

 それでも、この感情ばかりは誰にも触れさせない。


「また、会えますか」


 今度はすんなりと舌を滑っていった言葉を、その人は笑って受け止めた。


「面白い話を聞かせてくれるならね」


 冗談めいた声色は、耳へとすんなりと入っていく。

 その静かな声と潮騒とが混ざって、聞いたことのない遠い異国の音楽を思い出した。胸の内にある名もなきその国は、外からは誰も入れないのに、常に中には誰かがいて、大いなる恐慌に襲われたり、花が舞う穏やかな平和を享受しては、誰かの物語が終わりを迎えていく。

 小さい頃からある僕の王国は、僕の心の全てがある。具体性のない、ありとあらゆる何もかもがあるのだ。

 だから、きっとこの音楽は、想いは、僕の心の何かに触れたのだ。


「ジョークの一つでも身につけておかないとですね」

「いや、必ずしもそれが正解とは限らない。今日の話は面白かった」


 透き通った紫色の瞳が細められて、映る僕が暗くなる。


「世界が皿だなんて、今どき聞かないからね」

「いや、あれは何となく思っただけで」

「それでいいんだよ。聞き覚えのある決まりきった定型文なんて面白みがない。だから、それでいいんだ。君はそれでいい。そのままでいい」


 落ち着いた声が胸へと落ちていく。胃の辺りで止まったそれは、仄かに温かく、強張りが解けていく。上がっていた肩が下がって、深く息を吸えるようになる。涙腺も緩んだのか、泣き出してしまいたい気分になった。


 遠い眼差しは、また、海へと向けられた。

 思慕のような、諦念のような、曖昧に揺れるその横顔を僕は眺めていた。落日色が顔を染めて、濃くなる影は感情を隠していくようだった。


 あなたのその瞳を奪いたい。

 遠く想われる誰かに、僕がなりたい。

 その美しい心の内を僕だけで満たしてしまいたい。

 だから、知りたい。

 あなたの眼差しの先にいるのが誰なのかを。


 伸びる二つの影は、次第に重なり溶けて、闇に飲まれ、境目がなくなっていく。

 陽が水底へと降りれば、木々が落とす影よりも濃い、光のない闇が辺りに広がっていく。


 さざめく梢も、絶え間ない海鳴りも、昼間とは違う音になっていくような気がした。ただそこにあるだけのものに人格が見えるような、意思をもって襲いかかって来そうな、そんな怯懦な心に、情けなさを覚える。いつか柳の葉をお化けと呼んで恐れるかもしれない。茂みが多く、暗くて誰もいないここから家までの道のりを思うと、気が塞いだ。


 そんなことを考えていると、その人はやおら振り返り、少し微笑みながら言った。


「もう、陽が沈んだ。子供は早く帰るといい」


 迫り来る恐ろしい夜の予感も、この人がいれば、心躍る美しい月夜になるのだろう。現に、僕の心にあった恐怖はそよ風のような弱々しいものになっている。


「いいね?」

「はい」


 戯言のように返事をする。

 その人はそれだけ確認すると、また、水平線を眺め始めた。藍と橙とが混じり合い、ピンクじみた雲が浮かんでいる。


 僕は立ち上がって、軋む音と潮騒とを聞きながら、桟橋を渡った。

 そして、茂みのがさがさとした音を立てながら、歩道へと向かおうとして、名残惜しくて振り返った。


 佇む後ろ姿は、次の瞬きの間にいなくなってしまいそうな儚さがあった。

 まるで絵画のようだ。


 だが、思いがけないことに、その人は視線に気付いたのか、くるりと顔を向けて、僕に手を振った。僕が軽く振り返すと、また、海を眺め始めた。


 また、胸の内が騒めく。


 世界がお皿だったなら、あの人は何の役割を持つのだろう。

 メインディッシュにしては、パワフルさが足りないし、前菜やスープとするには勿体無いし、デザートとするには少々辛辣だ。言うなれば、皿に乗る前の木に実る果実のようだ。だから、皿に乗った時点で、死が迫っているのだ。期間の限られた貴重な果実、というのが、イメージに一番合うかもしれない。

 僕はきっと、添え物にさえなれない。皿の染みのようなものだろう。

 でも、あの人の乗る皿のほんの一部にでもなれていたらと思う。


 暗い道を抜ければ、いつも通りの寂れた港町がまた視界に入った。





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