第44話 仮橋
学校からは海が見える。
遠くに浮かぶ島も見える。
ここからだと、小さな粒のような海鳥が飛び回っているのも見えた。
きらきらと光る水面へ近付くと、空へと飛び上がる。何羽かが、それを繰り返す。陸には、身を寄せるでもなく、飛び立つでもなく、唯、ばらばらと動きながら群れて休んでいるものが殆どだ。
それよりも彼方にある島は、薄青い靄が掛かっているようで、とても遠くにあるように見えた。船で行けば十分程だと、どこかで聞いたことがあるから、僕が今、感じているよりは近くにあるのだろう。行く機会はなさそうだが、興味がない訳でもない。
更に遠く、島の向こう側を見遣る。
水平線が空と海とを分けていて、今なら世界が皿型だと言われても信じてしまいそうだった。それ程までにくっきりと分かれている。この星は球型だと当たり前のように知っているが、それは僕が自力で見つけたものではない。その知識は、誰かが発見して、検証したから、事実となっているのだ。
そういう意味では、僕は何も理解出来ていないのかもしれない。
誰かが見つけてくれた。誰かが確かめてくれた。それを広めてくれた誰かがいた。だから、僕は知っている。
僕は何の貢献もしていない。ただ、そこにあるものを口にしただけ。或いは、誰かが口に入れてくれた。食べるのが当たり前だから飲み込んだだけ。でも、その味を理解出来ているのかも分からないし、それがどうやって作られたのかも知らない。
こんなにも見る度に嫌になる海でさえも、輝く水面の下の世界がどうなっているかを知らない。僕は己の嫌うものの確かな理由を知らないでいる。口を開けて、与えられるのを待っている。
思考を少しずらそう。
海とは恵みである。
魚や貝類等の海産物だけではなく、海運による交易も大きな利益と交流を得るのだ。水運は陸路に比べれば、同じ力でより多くの荷物を運ぶことが出来る。
また、知識も海より来たる。遣唐使は海を渡り、知識を持ち帰った。歴史の授業でも、ペリーの来航は一大イベントだ。それはずっと国内での諍いと文化の歴史の中に、突如として現れた強大な外国というインパクトもあるが、その他にも全く新しい西洋の価値観が入って来た変化というのもあるだろう。
海とは恵みだ。それは海を渡ってやって来るのだ。
そう言われると、僕は宝船に乗った七福神しかイメージ出来ない。だが、言いたいことはわかる。
物も知識も溶け合って、交わし合って、ここまで来たのだ。その一端が、今、僕が開いている教科書なのだろう。先人達の模索の集大成とでも言おうか。それをこんな嫌々と眺めるのは失礼かもしれない。とは言え、やりたくないことを無理矢理やらされても、やる気は出ない。
教師が数式の解説をしている。
僕はもう、その授業を受けたことがあって、解き方もわかっているから、正直、退屈に感じていた。
神経質なチョークと黒板のぶつかる音と、気怠げな教師の声とは、まるで子守唄のようだ。だが、内容が既にわかっていても、居眠りなんてしたら怒られるに違いない。
目を開けたり、閉じたりしてみたり、手を摘んでみたり、太腿を抓ってみたり、色々試したが、一過性に過ぎず、根本的な眠気の解消には至らない。
教科書の文字に焦点を合わせるのさえ、難しい。
違う刺激を求めて、また、僕は窓を見た。
広い校庭には生徒が疎らに走っていた。生徒の数の割には、敷地が広い。僕が通っていた中学校は、大体ここの半分くらいしかなかったろう。敷地周囲に植えられた木々も、まるで、南国のような出立ちをしている。
山肌を切り抜いたかのような高い位置にある校舎からは見下ろす形に並ぶ、傾斜に沿って段々と建てられた古い瓦屋根の家々は、きっと僕が生まれるよりもずっと前から、何代にも渡ってここにあるのだろう。その家々の間をくねくねと縫うように通る道は大凡、石段だ。狭いこの町の道では車の利便性を以てしても、ここまでは辿り着けない。
より視線を遠く、下に向ければ、車が往来出来る国道があり、その先には堤防を挟んで、先程と変わらない青い海原があった。僅かに浮かぶ雲さえも貫くような、暖かな陽射しがあった。それを反射する水面は穏やかで、沖で船が動いているのが見えた。
ある人にとっては、ノスタルジーな風景かもしれない。若しくは、映えるような景色かもしれない。
だが、僕にとってはただの見慣れぬ景色だった。
現実味は膜の外にあって、まだここにある何もかもに触れられていない気がして、夢でも見ているような気分になる。ふわふわと、額縁の向こうを覗くように、僕はこの町を見ている。
だから、目を閉じたら、また、東京の学校に戻れるような気がした。
目立ってた訳ではない。どちらかと言えば、存在感はない方だ。
でも、仲のいい友達がいた。好きな先生もいた。気になっていた子もいた。休み時間になると友達と教室の隅に集まってくだらない話をしては、何がおかしいかもわからなくなる程に笑った。好きな先生の授業の時はわくわくしたし、気になる子と一言でも会話が出来たら、その日は浮かれて自室で踊った。
地味な学校生活だった。劇的なことはなにもなくて、ドラマチックな展開も演者も観客もいなかった。自分が何者でもないことも気付いてた。くだらない毎日だ。でも、楽しかった。今はまだ過去形にしたくないくらいには、未練が残っている。
ここは、退屈だ。
何もない。僕の欲しいものは何もない。
ここに来たから、僕は大切なものを手放さなくてはならなくなった。大切な時間はもう戻らない。くだらない日々は、もう僕の前にはない。
姉さんが死んでからだ。何もかもが変わり果てて、取り返しがつかなくなった。母はもう姉以外が目に入らなくなった。だから、父は僕等を追い遣った。黴びた蜜柑の傍にいたら、自分も黴びてしまうとでも言いたげに。でも、僕から見れば、もう全部腐っている。指先で触れたら、崩れて、きっと周りを汚して、虫を呼ぶ。
遠くで鳥が鳴いた。
「
聞いたことのない鳥の声だ。
「佐竹」
声に気付いて、前を向くと、先生が至近距離に立っていた。
「佐竹、ちゃんと先生の話、聞いていたか?」
「あ、聞いてました」
「そうか、じゃあ、問三を解いてみてくれ」
先生が開きっぱなしの僕の教科書のある設問を指差した後、黒板を指差した。問いをさらっと読むと、そこまで難しくなさそうだ。公式を当て嵌めれば、直ぐに答えが出そうだった。
僕はちゃちゃっと解くと、席を立って、黒板に答えを書いた。この数学の授業は、毎回、黒板に解答スペースが作られて、当てられた生徒はそこに答えを書いていくのだ。
何回も使っているのに、チョークというものはいつまでも慣れなくて、先生のような美しい字にならない。
崩れた数字とアルファベットの答えを見て、先生は「よし」と小さく呟いた。
「正解だな。流石だな。やはり、都会の人は勉強が出来る人が多いんだな」
僕は答えなかった。
急に周りの視線が刺さるように感じて、肩を縮こませながら、あまり音を立てないように席へ戻った。
下手に答えて、あの三人に絡まれるのが嫌だったからだ。それに、ここの学校の授業の進行度が遅いだけで、特別僕が優秀な訳ではなかったから、単純に反応に困った所もあった。
先生も、別に僕を困らせようとしてる訳ではないだろう。なんなら、僕が馴染みやすくなるようにしてくれている。ただ、それが裏目に出ているだけだ。
誰かが立てた音に僕はびくりと体を震わせた。
誰かが笑う声が微かに聞こえた気がした。
僕は静かに、静かに椅子に座った。
誰が悪いのだろう。
何が悪くて、こうなったのか。
わかっている。最初に失敗したのは僕だ。
でも、ここに来させられたことに、僕の意思の介入はない。僕をここに呼んだのは、追い遣ったのは、一体、誰なのだろう。姉か、父か、母か。それとも、運命なんてものなのか。
もう、犯人探しには疲れていた。
狭くて湿っぽい場所に閉じ込められて、体を冷やしながら、縮こまって耐えている。暗闇の向こうに問い掛けようとして出来なくて、いるかもわからない何かに怯えている。
そして、底にいる僕へと、上から差し出される手を待っている。
視界の端に白いものが一瞬、過ぎった。
はっとして、窓を見ると、白い鳥が眼下の海へと飛び去って行っていた。
その様は優雅で、無駄がなくて、そして、何より自由だった。遠く、遠く、海へと羽搏くその鳥は、いつしか粒のようになって、視認出来なくなった。
僕はまた、窓の向こうを眺めていた。
いつもと違う気持ちがあった。惰性でも諦念でもない気持ちだ。
僕は何かを探していた。
────────────────────
「ねえ、佐竹くんは何が好きなの?」
給食の時間だった。
僕はいつも通り俯いて、無言で食事をしていた。
この学校は近くの席の人と班を作って食べる形式なのだ。小学校に戻ったようで、少し懐かしさがなくもないが、今はそれよりも居心地の悪さが勝る。
声をかけてきたのは、名前の知らない女子だった。
黒髪のボブを片耳にかけて、短冊型のにんじんを口に運んでいる。そして、体育の時間でもないのに、小豆色のジャージを着ていた。
動きやすいからだろうか。この学校ではそういう生徒を度々見かけていたから、そこまで気になることでもなかったが、そのお陰で苗字だけは胸元の刺繍で判明した。
僕は返答に困った。彼女が何を話題にしているか分からなかったからだ。
「好きって何が?」
黙っていては相手も困るだろうと、僕は素直に聞き返した。
彼女はにんじんを咀嚼し終わると、空になった口を開けた。
「給食のメニュー。好きなやつあったかなって」
「あ、給食……」
話を意図が理解出来たので、僕は今まで食べた献立を思い出そうとする。だが、どれも印象深いとはとても言えなかった。
恐らく、そうなっている理由は、僕が一人で小さくなりながら、味わう余裕もなく、食道に流して込んでいるからだろう。
家でもそうだ。そういえば、ここに来てから、ちゃんとご飯を食べていない気がする。何の味も思い出せない。
「ないなら、普通に好きな食べ物でもいいよ」
相田さんが質問内容を少し変える。
僕が困っていると判断してくれたのだろう。それは有り難かった。
「ラーメンとか好きかな。インスタントのも好き」
「インスタントも美味しいよね。ここら辺にラーメン屋さんはないけど、あたしさ、最近出たカップラーメンの辛いやつ、名前忘れたけどあれが好き。佐竹君はどういう系統のが好きなの? 醤油? 塩?」
僕は昔、食べたラーメンを思い出した。
赤と黒を基調にした全国にあるお店だ。母と姉が外出していたから、珍しく、僕と父の二人っきりで一緒に昼ご飯を食べたのだ。夏だった。死にかけた蝉の鳴き声が、壊れたラジオみたいに流れ続けていた中を歩いて、家から数分の距離にあるそのお店に入ったのだ。
寡黙な父は、僕には最低限のことしか訊かない。だから、その時も僕は食べたいメニューだけを伝えた。初めて入ったから、一番お店が推してそうな定番を選んだ。父は定食にして、餃子を追加していた。
食器や金属の擦れる音、向こう側のテーブル席から聞こえるざわざわとした人の声、店内の角に置かれたテレビからは連日の最高気温についての注意事項を伝えている。あとは、空調の音だけ。
父はテレビに目を向けていた。だから、僕も特に興味もないけど、同じ方向を見ていた。
耳がたこになる程に聞いてきた熱中症の予防策を、また見ている。塩分も大切というなら、ラーメンの汁は飲み切った方がいいのかと、天邪鬼のように考える。
そうしている内に、注文の品が届けられる。
父のものはラーメンに半チャーハンと唐揚げが三個ついていて、美味しそうだった。
「あげるから、食べなさい」
僕の視線に気付いたのか、それとも、最初からそうするつもりだったのか、父は唐揚げの皿を僕の方へと置いた。
「いいの?」
「ラーメンだけだと、足りないだろう」
それだけ言って、父は僕のとは違うあっさり味のラーメンを啜り始めた。
僕は会話の続け方がわからなくて、同じように麺を啜った。初めて飲んだスープの味は、今までに味わったことのない味で、何と評価したらよいのかわからなかった。
だが、妙にその味は記憶に残った。ラーメンを啜る父の姿と共に。
僕は口を開いた。
「醤油とか塩とかはわかんないけど、昔、食べたお店のすごくスープがドロドロしたラーメンが美味しかった」
「お店の?」
「うん。チェーン店の」
「チェーン店いいな。ここら辺、本当に何もないんだもん」
「何でスープがドロドロしてるの?」
同じ班の男子が僕に問いかける。
「多分、何かがいっぱい溶けてるのだろうけど、それが何かはわからなかった」
「ええ、気になるな。食べてみたいわ」
そう言って、彼は茹でられたいんげんを箸で掴んだ。
「私、似たお店行ったことあるかも。すごいドロドロのスープだった」
「え、嘘。まいちゃんがあたしを裏切って……」
「違う、違う! 偶々、偶々家族と遠出した時に食べただけだから」
コッペパンを千切っていた、まいちゃんと呼ばれた女子が、相田さんの演技に笑いながら、軽く否定をする。そして、自分が食べた時の話を始めた。
僕は黙ってその話を聞いていた。
クラスの子達はわいわいと騒ぐ。それはいつも通りの給食の時間の光景ではあったが、僕に一つ違うことがあるなら、今日は食べているものの味がすることだ。
口に押し込むコッペパンの小麦の甘味がわかる。薄いコンソメのマカロニスープに入っているにんじんの味も、添え物のいんげんの苦味もわかる。感動するほどの美味しさではないが、どこか懐かしさや安心を覚える味だった。
話し上手なまいちゃんは、昼ごはんの時間いっぱいまで話し続けた。彼女と愉快な家族とのお出かけは、随分と事件が勃発し続けていて、飽きさせる気配は微塵もなく、僕もみんなも時折笑い声をあげながら聞いていた。
班を作る時にくっつける僕と彼等の机には、いつも隙間があった。その深い溝には水でも流れているかのようで、決して埋まることはないと思っていた。
いつか事実を突きつけられて傷付くかもしれない。束の間のやりとりに過ぎないし、溝が埋められたとも思えない。
でも、今だけ自惚れを許して貰えるなら、今だけ棒立ちでいなくてよいのなら、僕はここに来て初めて歩みを進められたと思えたのだ。
溝の上、そこに橋のようなものが架っている気がした。
橋の袂で、僕は向こう岸の彼等へと声を掛けた。
彼等は笑って返した。
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