第43話 白い宝石
行き先は決まっていた。
人のいない所だ。
この狭い町で行ける場所は限られていて、そして、住民達はその場所を熟知している。だから、どこに行こうと、彼等の目から完全に逃れることは出来ない。
口さがない彼等の口を閉じることは不可能だ。我が家の状況を、転校初日の段階で同級生も知っていたのだから、これについて否定出来るものはない。目があることは、悪いことが出来ないというのは利点やもしれないが、それはそれとして窮屈で居心地が悪いのも事実だ。
こんなにも出歩く人が少ないというのに、どうやって噂は広まるのだろう。いつの間にか目撃されていて、いつの間にか広まっている。輪の内に僕が入っていないからそう感じるだけで、実は綿密な情報網が張り巡らされているのだろうか。
いつかその全容を知る時が来るだろうかと考えた。だが、直ぐに打ち消された。多分、その時は来ない。僕はずっと鼻持ちならない都会から来た余所者のままでいるだろう。
それはつまり、これからも嘲笑われ続けるのだろうということは、頭の中でも言葉にしたくはなかった。だけど、僕の神経は無遠慮にそれを結び付けてしまう。言葉として成立する前に、概念のままに理解出来てしまう。体は海だと歌うなら、嫌なことなど砂浜に書いた文字のように、波で平されて消えてしまえばいいのに、どうしても一度浮かんだものはなかなか消せない。乾いた石に刻んだ文字はいつまでも残るのだ。酷く重くて硬くて、無機質な僕の頭に。
それが何だと言う。僕には関係ない。関係ないから、どうでもいい。馬鹿馬鹿しいやり取りなんてする必要がない。強気な言葉とは裏腹に、心は縮こまり固まる。だから、余計に強い言葉を言って、わざと心をほぐしながら片付けるしかなかった。その掴む力で痛むことには目を瞑って。
今まで通って来た道へと戻り、町の外へと歩く。
狭い世界を抜けて、山の方へと向かう。
増えていく雑木とその暗がりに、人の世界との隔絶を感じて、少し気持ちが楽になる。歩道も整備されていない、だが、車道を走る車もないから、そちらに多少飛び出しても特に問題はなく、僕はとぼとぼと車道と歩道の境目を歩き続けた。
目的地は桟橋だ。町から出て、東の方へ向かうとそれはある。町は海と山に挟まれている形だが、東側は山が突き出しているので、民家はなく、最低限の道しかない。道は山の上の方の学校へと向かう道、そして、隣の県へと繋がっている下の道とがあり、僕が今向かっている下の道は、途中に何もないので、基本、車の往来しかなく、僕のように歩く者はいない。
暫く歩くと、アスファルトの車道から外れた、草木に覆われて見つけづらい土の道が見えてくる。僕はそちらに足を向ける。
ほぼ掻き分けるようにして進むと、目的の桟橋がある。
ただ、土台の上に木の板を並べて、海へ突き出させただけのものだ。
簡素な造りで、土台に使われているのも木のようだが、海水に浸っていて、腐りはしないのだろうか。
僕は足を踏み出し、桟橋の上に乗った。見た目よりもしっかりしていて、揺れや折れそうな気配もない。三メートル程進めば、もう端に着く。
目の前には海がある。
曇り空のせいか、海水も些か暗く濁っているように見えた。だが、桟橋へと寄せては返す波は穏やかで、まるで僕のことなど気付いていないみたいだ。
周囲に人気はなく、漣と梢の擦れる音だけが響いている。
誰もいない。何もいない。僕だけがいる。
僕は息を吸った。
肺が限界まで膨らむまでだ。胸が上がる。ゆっくりと吐き出せば、少しずつ萎んで、いつもの厚みに戻る。
いつの間にか、猫背になってしまうから、肩が丸まって、呼吸が浅くなる。前はもう少しましだったけど、最近は気付くと縮こまっている。
原因が何かは分かっている。
思い切り、腕と背中を伸ばすと、筋がぐいんと伸ばされ、気持ちがいい。「あー」と息を吐き出しながら、挙げた腕を下ろす。
こんなこと、とても学校では出来ない。
自室ならやるけれど、声までは出さない。
ここは学校よりも家よりも解放されている。
誰に脅かされることも、誰に気を使うこともない。僕が僕のままでいられる場所だ。
鞄を脇へ置いて、僕は桟橋の上へと腰を下ろした。
膝を抱えて、ただ、物言わぬ海を眺める。
海は不快だ。それは分かっている。
でも、同時にこれは僕を追い出したりしないと知っている。変わり果てた現実の象徴でありながら、一番、僕に寄り添ってくれるものだ。きっと、そんな気はなくて、あるがままにあるだけなのだろうけれど、不快と同時に安らぎもあるのだ。
それも不快に感じる原因の一つではあるのだから、ままならないと思う。
「おや、先客だね」
背後から声が掛けられる。
突然の思いもしなかった来客に、僕は慌てて振り返る。橋の袂に人影がある。そして、その人を見て、衝撃が全身を走った。
動揺からか、手を付く位置を間違えて、空を押した僕はバランスを崩し、背中から海へと落ちて行った。
「おわっ」
久しぶりに出した大きな声は、惨めな程に貧相な悲鳴だった。
背中にやや水の抵抗を感じながら、僕は水飛沫を辺りに撒き散らかしながら沈む。ばたばたとみっともなく手足を動かし、浮上しようと踠いた。
だが、海自体はそれほど深い場所でもないと思い出し、僕は地面に足を着けると、すぐに安定した姿勢で海面に顔を出すことが出来た。
「大丈夫?」
そう問い掛けながら、慌ただしく駆け寄り、こちらに差し出される手がある。
細く、傷一つない、自然の景色が似合わない程に、白い腕だった。指は細長く、僅かに骨の質感が見えた。
視線を更に上げると、嫋やかな手の持ち主の顔があった。
僕は頭の中の言葉を忘れる。
ただ、目が離せなくて、それが自分の人生の意味のような気がして、一心に浴び続けることが最上の喜びかもしれないと思えて、息をするのも忘れて、僕は見入っていた。
美しい人だった。
白磁のような粗のない肌に、これまた真っ白な頭髪、睫毛や眉毛も真っ白で、紫水晶のような淡い紫色の瞳が目立っていた。きらきらとした澄んだ目だった。吸い込まれそうで、全ての罪が洗われるようで、同時に、僕とは全く違う生き物なのだと突き放されるような心地がした。
滑らかな曲線を描く輪郭も、つんとした通った鼻筋も、血の気のない唇も、この人を形成する全てのものが完璧で、作り物みたいだった。まるで、神様が自分のためだけに作ったようだった。
美しい。ひたすらに、美しい。
天上から降りて来たのか、それとも、海から上がって来たのか。人の世も陸地も似合わない。人が踏み入れられないような、美しい場所で生まれたに違いない。
少なくとも、これは僕だけに見える幻ではないことは確実だ。僕程度の脳では、この至上の白い宝石を思い描くことが出来ない。この人が存在する、それだけで神の存在を肯定出来る。
景色に馴染まない、浮世離れしたその人は、フリーズした僕を見て、少し困ったように笑いながら、まだ、手を差し出してくれていた。
「おーい、大丈夫かい。早く上がらないと風邪引いちゃうぞ」
「あ」
その人からの声に、僕は正気を取り戻した。
そして、触れることさえ烏滸がましいと思えるような、その美しい手を掴んだ。
「よっと」
見た目の割には力強い手付きで、その人は僕を桟橋へと上げてくれた。乾いた木に、暗い染みが広がっていく。
今もぽたぽたと垂れる水滴をあまり気にしていないのか、その人は構うことなく僕の背中を摩りながら「大丈夫?」と声を掛けた。
「あ、あの、ありがとうございます」
「思いっきり落ちてたね。背中とか頭は打ってないかい」
「だ、大丈夫です」
実の所、落ちる際に桟橋に引っ掛けた腕が少し痛かったが、言えなかった。
「ごめんね。驚かせたね」
「い、いえ。あなたのせいでは」
「私を初めて見る人は皆、驚くんだ」
「あ、そうなんですね」
「君も驚いていたろう」
「お、驚きました。すみません」
「あはは、何で謝るのさ。いや、それは置いといて、服、乾かさないと体が冷えてしまうよ」
制服はびしょ濡れになっていた。
しかし、服を脱ぐのは、恥ずかしくて躊躇われた。
この美しい生き物を前にして、自分の肢体を晒すのは、あまりにも無防備でお目汚しで、浮かび上がるその人との差異が死ぬまで僕を苛むようになるのが、手に取るように分かる。
僕は桟橋に体育座りした。
風邪を引かないようにとあれこれしようとしていたその人も、頑なな僕の態度に折れたのか、静かに隣に座った。
その動作から伝う衝撃は微かで、まるで、ドールでも置いたかのようだった。
全身から滴る海水がぽたぽたと落ちて、床の染みを広げていく。もしかしたら、この人の座る方にまで流れてしまうかもしれないと、僕は一歩分程、その人とは逆になる左へと寄った。
そのことに、その人は特に何も言わなかった。
「いつも、ここに来るの?」
「来るようになったのは、最近です。いつもでもありません」
「そう、じゃあ、ここに何をしに来ているの?」
僕は自分の膝から、目の前の海へと視線を向けた。日が暮れ始めた海は、水平線のあたりが橙色に染まっていた、重い雲の向こう、遠くに輝いているであろう太陽が、今に、沈もうとしていた。
僕はそれを見ていた。
響くものは何もない。胸の空洞は乾いた音をたてるだけだ。
問い掛けに対する答えが、僕の中にはなかった。
「何をしていたんでしょうね」
「海を見ていたのではないのかい」
「海は好きではなくて」
「好きじゃないのに見ていただなんて、変わった人だね」
ただ、そこにある。
それだけ。
「海が怖いと言う人は聞いたことあるけれど」
「怖いとも違っていて何でしょう。……気に食わない、というのが一番合ってるような」
「ふむ?」
遠慮なく、その人は首を傾げた。
自分でも説明が足りていないことはわかっている。
それは何も価値を持たなくともそこにあること、それ自体が、一つの癒しのような、動かずにいてくれることが支えのような。でも、それを認めることが、どうしても出来ない。僕の最悪な現実の象徴は、最悪なものであって欲しいのだ。
「すみません。上手く言えません」
絞り出すような弱々しい僕の声に、その人は柔らかい声で返した。
「気にすることではないよ。何事にも相応しいタイミングというものがあるのさ。言葉でもね。今はまだ形が掴めなくても、存外、するりと舌に乗ることもある。勿論、いつまでも霧の中ということもあるだろうけれどもね」
「前が見えないのは、嫌です」
「気持ちは分かるよ。だがね、正体の見えない怪物にいつの間にか自分が立ち向かえるようになる瞬間というのも、これはこれでいいものさ。君にもその時が来ることを祈ろう」
そう言って、その人は音もなく立ち上がった。
思ったよりも上背があり、座ったままだと、随分と角度をつけて見上げる必要があった。
長い絹糸のような髪が粘ついた潮風に揺れて、僕の頬を撫でた。さらさらとしていて、清水のような清廉な香りがした。生き物が溜まり、腐敗でもしているかのような、磯の香りとは全く違う。
束の間、白に塗れた僕の視界だったが、白糸の隙間からやはり真っ白な手が差し出され、僕の頬を撫でた。冷たい手だった。
「頬、冷えているね。もう帰りなさい。本当に風邪を引いてしまうよ」
その人は少し屈みながら、僕の顔を真っ直ぐに見た。
美しい目が、僕を見ていた。美しい瞳に、僕が映っていた。
美しい口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
手が離れると、名残惜しさが肋骨を破りそうな勢いで溢れた。
その人は惜しむ気配もなく、陸地へと向かって行った。
僕は思わず、立ち上がって叫んだ。
「明日!」
上擦った大きな声に、その人は不思議そうな顔をして振り返った。
「明日、また会えますか」
どうしてそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、縋りたい気持ちだった。ただ、首を縦に振るだけでいい。ただ、この熱量を否定しないで欲しい。
ただ、あなたともっと話がしたい。
溢れる鼓動を押さえつけながら、僕は返答を待った。
この世ならざる儚さを纏う麗人は、片側の口の端を上げて返した。
「気が向いたらね」
たったその一言だけを残して、その人は去って行った。
どこにいても目立って仕方ないその白さは、いつか草木に遮られて、見えなくなった。
僕は桟橋に立っていた。
背後には始めと変わらない海鳴りが響いていた。
そして、僕の心臓も慌しく叫んでいた。
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