アルカ

第42話 恥を提げる

 おとりさま、おとりさま。

 どうか、道をお教えください。


 三つ先、四つ角、落とした首を探せ。

 一つ前、二つ後、落とした足を探せ。


 おとりさま、おとりさま。

 どうか、道をお教えください。


 七つの体が追い付く前に。

 九つの穴が埋まる前に。


 おとりさま、おとりさま。


 どうか、家へ帰らせて。



 ────────────────────



 湿った生暖かい風を感じていた。


 海から漂う磯臭さにも随分と慣れて、今日はやけに匂いが強いと取るに足らない感想を抱けるようになった。


 肌へと粘つく潮風は絶えず、僕の頬を打ち、衣替えをしたばかりの半袖のワイシャツがばたばたとはためいた。風が服の隙間を通り過ぎるのは、心地がよいことの筈なのに、ここに来てからは、どうにもそれが不快だった。


 これだけじゃない。鼻につくこの匂いだって、本当は好きじゃない。夜になっても慌ただしく轟く潮騒も、荒っぽい漁師達の言葉遣いも、まるで小さな世界を至上だとばかりに、教室を我が物で歩く井の中の同級生も、監視するような諄い人々の視線も。


 全部、嫌いだ。


 汗と潮とでべたつく肌を指で撫で、その感触に舌打ちをしながら、僕は海から視線を外して、前を向いた。

 寂れた漁港には、誰の影もなく、時折、日向で微睡む三毛猫を見掛けるだけだった。

 彼等の仕事の時間はもう終わったのか。日が昇る前からする仕事は大変だろうが、漁が終わった後はどう過ごしているのだろう。


 僕がここに越して来たのは、約一ヶ月前だ。

 姉が死んで、精神的に参った母のために、彼女の故郷へと移り住んだのだ。今まで僕達が暮らしていた家に住み続けるのは、思い出が多過ぎて辛いのだそうだ。おかしな宗教の教えのようなものを口走るようになってから、父は母にはケアが急務だと判断したらしく、まるで、何かに追い立てられるように忙しなく僕達はこの寂れた町へとやって来た。

 母の生まれ育ったこの港町であれば、祖父はもう他界していたが、祖母はまだ健在であるし、何かと頼れるだろうと父は言った。

 だけど、僕は分かっている。これは母のために為されたことではなく、綺麗な言葉で隠された、唯の厄介払いだということを。そして、その厄介の中には、母だけでなく、僕もいることを。


 とっくに知っていた。彼の心の中には、僕達以外の人がいることを。でも、期待していたんだ。切り捨てるなら、母だけだって。僕は愛されているんだって。


 でも、結果はこうだった。


 父はまだあの家に暮らしている。仕事の都合で仕方ないと言って。


 僕は港の端の端の防波堤に当たって砕ける波の音を聞いていた。未だ見慣れぬ景色の中で、もう慣れてしまった匂いを嗅いでいる。この身には馴染まない異物のそれらは、今となればそこにあるだけであるなら、まだ我慢出来る。だが、いつかその音も匂いも、僕の身体に染み付いてしまいそうで怖い。

 染み付いてしまった人達とは仲良く出来ない。そんな人達と仲間になりたくない。


 友好な関係ってやつを期待していた。

 もしかしたら、都会から来たって、羨望の眼差しでも向けられるかもなんて、偶々生まれ育った場所が違うだけのことを自慢して回る想像をした。今なら分かる。僕は、まだ会ってもいない同級生達を下に見ていたんだ。一番凄いのは自分だなんて、それで歓迎されて当然だなんて、痛い妄想だ。僕より凄い人なんて世界中には沢山いる。尚且つ、僕が自慢げに振り翳そうとしていたものは、僕自身が作り上げたものではなかったのだから。

 僕はそんなことも分からないでいた。不安と期待と愚かさでいっぱいの転校だった。


 それはどうなったか。僕の学校生活は如何様であったか。


 僕は学校が終わった今、一人で海を見ている。


 誰にも見付からないように、誰にも揶揄われないように。身を縮こませて、辺りを気にしながら。嗚呼、なんて窮屈な場所なのだろう。


 また、風が髪を乱す。

 熱い顔がひんやりと冷たくなった。


 僕は目を拭って、港の外へ目指した。誰とも出会わないといい。同級生だけでなく、近隣住民にも。

 俯いて端を歩いていれば世界には誰もいなくなる。


 ざざん。ざざん。ざざーん。


 遠ざかる潮騒と磯臭さ。

 それでも、匂いが服からするような気がした。


 耳を塞ぎながら歩く。

 より大きくなる身の内の潮の音に嫌気が差す。


 家には帰りたくない。


 ここには僕がいていい場所はない。


 学校と家、それ以外なんてこの狭い街の中にはなくて、一方的に僕を知る人達は親切そうだが、見る目が明らかに余所者を見る目だ。受け付けないぞ、怪しんでいるぞって発している。


 じゃあ、もう、誰もいない場所に行かなくてはならないだろう。

 同級生も家族も街の人もいない、そして、潮騒から遠い場所だ。


 そこで僕は歓迎されて、皆のためになるようなことをして、褒められて、慕われて、出来ることをどんどん増やして、やりたいことを見つけて、大切な人と出会って、それから、それから。


 足を止める。

 目の前には砕けたアスファルトの道路があり、隙間から雑草が逞しく伸びていた。

 近くに視線を移すと、長いこと使われていなさそうな錆びたプレハブ小屋、荒れ放題の雑木、日に焼けた広告、アトラクションみたいな待ち時間が書かれたバス停があった。バスなんて走ってる所をここで見ただろうか。


 描いた安っぽい理想と一致する場所はどこにもない。その代わり、何よりもリアルな景色が無造作に置いてある。目を逸らしたって、ずっと視界に入り続ける。だが、目を閉じながら歩くことは出来ない。

 ここには何もない。いや、最悪だけがある。

 凝り固まった価値観で、本質を何も捉えない人達。それを当たり前だと受け入れる人達。ステレオタイプって言葉すら知らなさそうだ。それに、この匂いに音。


 こんなにも海が近いのに、彼等は井戸の中にいる。


「お、佐竹さたけじゃん」


 体がびくりと動いた。

 この一ヶ月で覚えた声だ。

 聞かなかったことにしたかった。無視して進めたら良かった。でも、そうしたら、また余計に騒ぎ立てることは分かっていた。

 途端に心臓が速く動き出したことを、相手に悟られないように、僕は無表情になることを努めながら、振り向いた。


「嗚呼、三島みしまか。何か用?」


 幸いなことに、相手は一人だった。三島は自転車から降り、いやらしい笑みを浮かべながら、距離を詰めてくる。


「別に見掛けたから声を掛けただけ。何もおかしくないだろ?」


 それはその通りだった。その笑みの中に嘲笑が含まれていなければだったが。

 僕は後退りして、近付いて来る相手と距離を取りながら、突発的に仕上げた虚勢で対抗する。


「一人なの? 浅倉あさくら矢田やだは?」

「別にずっと一緒って訳じゃないし、なあ、それより、方角同じだから一緒に帰ろうぜ」


 三島が更に距離を詰め、馴れ馴れしく僕の肩を抱いた。がっしりとした体格の彼に対し、僕はひ弱そうな体格をしている。何も出来ず、僕は身を縮こませた。


 彼等はいつも三人組で行動していた。

 リーダー格で一番がたいのよい三島、右腕ポジションの悪知恵の働く浅倉、それに、女子受けしそうな見た目だけど、常にマウントを取りたがる矢田の三人だ。僕は彼等三人に目をつけられ、転校初日に恥をかかせられた。


 初日の挨拶もそこそこに、僕は東京から来たのだということを武器に、友達を増やそうとしていた。

 勿論、それに飛び付く奴もいた。僕にとっては大したことないようなことに驚嘆され、憧れの目で見上げられるのは気分がよかった。

 だが、そんな僕を睨め付けて、浅倉が言ったのだ。


「鼻持ちならねえな。そんなに東京が偉いかね。別にお前が芸能人みたいに垢抜けてる訳でもなし、ひょろひょろのがりがりじゃねぇか」

「何だよ、その鞄についてるキーホルダー。くそだせえ。よくつけられるな? 俺は無理」


 浅倉の言葉に、矢田も悪口を乗せて来る。

 僕は何も言い返せなかった。確かに、垢抜けているとは言えないし、ここの人よりはましなだけで、都会のイメージにあるようなキラキラさは身についていない。キーホルダーも、特別人気なもの、有名なものではなくて、ウケ狙いでつけていただけで、だからこそ、そういう誹りを受けた時、何も返す言葉が浮かばなかった。


 言い返せない僕に、クラスメイトは味方をしてもなんの利もないと判断したのだろう。或いは、クラス内で最も力を持つ者達に逆らってもいいことがないと分かっていたのだろう。少しずつ、周りにいた人は減って行き、遠巻きに見るギャラリーばかりが増えていった。


 浅倉と矢田は距離を詰め、思わず俯いた僕にこう告げた。


「調子乗るなよ、余所者の癖に」

「聞いたぜ、お前とお前の母ちゃん、親父さんから捨てられたからここに来たんだろ? 可哀想になあ。でも、親父さんの気持ちも分かるぜ。だって、お前、なんかむかつくもんな。どうせ、お前の母ちゃんも、お前みたいにしょうもない性格で、しょうもない顔してんだろ」

「ちょ、ちょっと」


 流石にそれは言い過ぎではないかと思ったのか、委員長の三郷みさとという女子生徒が僕と彼等の間に入る。彼女は彼等への相手に慣れているのか、自分より背の高い相手に対して、怯えた素振りはなかった。

 僕はまだ、俯いていた。怖い、というのもある。だが、それ以上に恥ずかしかったのだ。ウケ狙いで空回りしたり、都民であったことを偉そうに話していたりしたことが、余りにも自分が空っぽで狭量だと言うことが分かってしまったからだ。


「どうしてそんな酷いことを言うの」

「事実を言って何が悪いんだよ」

「事実を事実として伝えることと、笑いものにしたくて挙げることは違うものでしょう。それに、触れられたくないことは誰にだってある筈でしょう。あんただって、宴会の度に小六の時に犬に吠えられて漏らしたことを、面白おかしく叔父さんに言われて、いつも嫌な気分になっているじゃない」

「それは」

「それだって、唯、事実を伝えているだけだから問題ないって言うの? もし、あんたがそれをやめて欲しいと思っているなら、他人に対してもやめるべきでしょう」


 矢田は返答をしなかった。バツが悪くなったのか、「五月蝿い」と言いながら、教室を出て行った。


 顔に全身の血液が集まるようだった。熱くて、くらくらした。

 三郷には悪いが、僕は庇って貰ったことに感謝するどころか、これ以上、注目を集めるようなことはやめてくれとさえ思っていた。


 その後のことはあまり覚えていない。覚えているかもしれないが、思い出したくない。

 兎に角、それから、僕はずっと俯きながら学校に通っている。

 時折、標的にされて、嘲笑われながら、早くその時が過ぎろと願っている。それでも、プライドがあるから、彼等の下になんてつきたくない。でも、やっぱり怖いし、息苦しい。


 固まったままの僕に、三島は首を傾げた。そして、ゆっくりと肩を組んでいた腕を外した。

 少しだけ距離を空けて、彼は僕を見た。


「悪い。急に馴れ馴れしかったよな」

「いや、別に。僕こそ、なんかごめん」

「いいよ。俺が詰め過ぎた。じゃあ、俺は先に帰るから、じゃあな」


 そう言って、三島は自転車に跨ると、こちらに手を振りながら走り出した。その大きな背中は、ガタガタと揺れる道の先で曲がり、見えなくなった。


 僕は胸を撫で下ろす。

 何かされるかと思って、本当は怖かったのだ。でも、今は彼一人だったからか、大したことはされずに済んだようだ。


 自転車で向かったなら、徒歩の僕と遭遇することはないだろう。だが、心配事は少ない方がいい。

 僕は踵を返した。そして、また俯いて、世界を狭めながら、気の進まない寄り道へと進んだ。






 ──────────────────




 しれっと再開していますが、ストックはないため、

 途中、途中にお休みが入る感じになるかと思います。

 読んでくださる方には申し訳ありません。

 よろしくお願いいたします。

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