第 4 話 潮騒と逃亡

「ねえ、今から海へ行こうよ」


 彼女は遠くを見ながら、そう呟いた。


 同じく何処でもない所を眺めていた私は、驚いて彼女の方へと顔を向けた。途端に、教室の開いた窓から初夏の風が吹き込んで、カーテンを翻し、彼女の姿を隠した。もう一度、顔が見えた時には、彼女は微笑みながら此方を見ていた。


「一緒に来てくれる?」

「授業は?」

「さぼろう。具合悪いから、早退しますって。どうせ、次は数学でしょ。五限は体育だし」

「二人一緒だと怪しまれない?」

「別に良いじゃん。怪しまれたって。本当に具合悪いかなんて本人にしか分かんないでしょって言えば良いんだよ」


 その計画は実に杜撰で、その後の学校生活にも影響を及ぼすんじゃないか、そもそも嘘を吐くのも嫌だと思ったけれど、学校を抜け出して、二人で遠くへ遊びに行くことがとても魅力的に思えた。そして、きっとそのきらきらと光る楽しみは、今しか味わえない予感もした。


 若さは溶けていく。分水嶺は近付いていく。

 今のままでいたい訳ではないけど、今が終わるのが怖い。矛盾しているのは分かっている。でも、忍び寄る現実をまだ直視していたくない。モラトリアムの中で、揺籠の中で、或いは牢獄の中で、誰にもなれないまま、だけど誰かの特別でいたいのだ。そして、時折、この牢獄から無性に抜け出してみたくなる。

 だから、この提案に私は堪らなく惹かれるのだ。


 秘密を共有するように、がやがやと騒々しい教室の窓際でこそこそと話しながら、私はその提案に頷いた。すると、彼女はまた微笑み、私の手を取って駆け出した。


 強引に養護教諭を丸め込み、担任教師から渋々了承され、私達は校門の外へと踏み出す。

 三限が終わったばかりの外は、陽が高くて、道は広くて、今朝より空気が吸いやすい気がした。当然のことながら、周りには制服を着た子はおらず、すれ違う人は訝しげに私達を見た。一人なら居心地の悪いその視線も、今なら跳ね返せるような強い気持ちでいられた。


「何処まで行くの?」

「んー、取り敢えず、かなでちゃんに任せなさい。スペシャルな海へ、美晴みはるを連れて行ってあげる」

「わー、楽しみ」

「滅茶苦茶、棒読みじゃん」

「だって、奏が自信満々にそう言う時は、絶対何かが起きるんだもの」

「そんなことないよ。そんなことないよ?」

「自信ないんじゃん」


 仮病のふりをするのも、もう忘れて、私達は軽やかに歩きながら笑い合う。狭い歩道を過ぎて、アーケード商店街を抜けて、駅前広場へ辿り着く。最近出来た、商店街から駅まで続く屋根の下を通って、改札前まで辿り着く。


「中央線に乗るよ」

「待って、チャージさせて」

「あ、私もしておこう」


 一歩踏み出す度に揺れる、彼女のポニーテールを、つい目で追ってしまう。

 栗色の髪は、眩しい太陽光を反射して艶々と綺麗だった。白い肌に映えるその長い髪が、私はずっと羨ましくて、真似して伸ばしてみたけど、寄せれば寄せる程に違いが浮き彫りになるようで、結局、短く切り揃えてしまった。

 諦念の果ての髪型を見る度に、少し落ち込んでいたのに、それも「似合う。超可愛い」と彼女が興奮気味に言って来たから、すっかり私は気に入ってしまって、悔しさや劣等感も形を潜めて、ポジティブな気持ちが胸に溢れたものだ。


 いっそ嫌いになれたら、楽だったろうに。私は彼女のそんな所が大好きで、憧れていて、彼女みたいになりたいと思うのに、全然指一つも引っ掛からない。でも、私が腕を伸ばしていると気付くと、彼女は笑いながらその手を取ってくれる。そして、私はその手の温もりに安堵して、同時に、振り向いてくれなかったら、諦めて離れられたのにと思うのだ。

 私はなんて面倒臭い人間なのだろう。そして、どれだけ卑怯者なのだろう。何をするにも彼女を原因にしようとしている。

 嫌いじゃない。大好きだ。ずっと傍にいたいと思える。でも、偶に不安になる。こんな素敵な子が、何で私なんかの相手をしてくれているんだろうと。申し訳ない気持ちも芽吹いて、それを否定してくれる彼女の声を待っている。


 ホームに上がると、耳に痛い金属音を響かせながら、オレンジ色の車両が駅に滑り込んでくる。行き先は東京と表示されている。


「取り敢えず、東京まで行きます」

「うん」

「その後は適当に」

「はいはい」

「海行きそうな列車に乗ります」

「東海道本線ね」


 スマートフォンで経路検索した結果を読み上げる。

 すると、「見てるなら教えてよ」と文句を言って来たから、笑って誤魔化した。


 乗り遅れないように車内に入ると、お客さんはそこまでおらず、空いていた座席の真ん中辺りを、二人並んで座る。

 間もなく扉が閉まり、緩やかに電車が動き出す。


 列車の傾きに従って、体も傾く。彼女の薄い肩に私の肩が当たる。特に意味のないそれにも、顔を見合わせて微笑み合った。


 揺られて、話して、笑って。乗り換えて、また話して、笑って。見慣れない景色を指差して、期待に膨らむ胸を隠さないで、遠く遠くへと向かう。


「ねえ、見て。海、見えた」

「あ、本当だ。海って意外に近いんだね」

「彼処の桟橋、いいな」

「先端に座って、海眺めるのも良いかも」


 暫く座っていると、車内アナウンスが目的の駅名を伝える。

 わくわくが抑えられないでいるのが、自分でも分かる。こんなに胸が高鳴るのはいつ以来だろう。


 開く扉を潜って、ホームへ降り立つ。

 初めて来た駅に二人してきょろきょろとしながら、改札を潜り抜けると、燦々と太陽が降り注ぐ外へと出た。空気が澄んでいる。匂いが違う。学校の付近は兎に角ごみごみとしていて、雑多な匂いがしたものだが、此処は落ち着いているように感じる。


 此処からでは海は見えないが、先程まで見ていたから、どの方向にあるのかは分かる。私達は何となく賑わっていそうな方向へと歩き出した。


 駅前には足湯が設置されていて、疎ながら何人かが寛いでいる。

 アーケードの商店街は、学校傍にもあったが、其処よりもお土産屋さんなど、観光客向けの食べ物を売っている店が多い印象だ。食欲を誘う美味しそうな匂いが漂って来る。


「あれ、美味しそう」

「でも、買ったら、絶対家に帰れなくなる」

「お小遣い増やして欲しいね」

「本当にそれ」


 懐の寂しさを抱いたまま、アーケードの商店街を抜けると、また商店街が見えて来る。ぶらぶらと中を覗きながら、坂道を下って行く。

 暫く歩いていると、段々と宿の数が増えて来た。


「ねえ、こっちの道、行ってみようよ」


 彼女が細い路地を指差す。狭いが太陽が中天にあるので、薄暗い雰囲気はない。


「良いよ」


 道の先には階段があった。高低差が結構あるため、向こう側に青い海がきらきらと陽光を反射しているのが見えた。


「海だ」

「行こう、行こう」


 待ち望んだ海が間近に迫って、私達は燥ぎながら、階段を降りて行く。手は繋いで、足は小走りに。海に近付くにつれ、土地の勾配は緩やかになっていく。

 逸る心のままに、道路を渡って、白い砂浜へと駆け出す。


「着いた!」

「本当に着いた」


 革靴で砂を蹴り上げながら、海へ走る。

 時期のせいか、時間のせいか、周りに人はいない。


 海風が髪を靡かせ、波が寄せては返す度に潮騒が聞こえる。広い海原は何処までも続いていたが、それを遮るように堤防が横に伸びていた。


 水平線は遥か彼方。霞む海の果てに思いを馳せようとしてやめた。それは今やることではない。もっと、時間を割くべきことがある。もっと、脳のリソースを費やすべきものが。

 遠くにあてた焦点を、手前へと引き戻す。

 海は何度も見たことがあった。けれど、今日見たこの海が、一番美しいと思えた。それはきっと、海を輝かしく見せてくれるものがあるからだ。


 彼女が靴と靴下を脱ぎ捨てて、砂浜を駆ける。彼女の髪が、スカートが揺れて、その躍動感に心を奪われる。私も靴を脱いで、走って追い掛けた。砂に足が沈む。水を吸った砂が足に纏わりつく。

 彼女は海に足を入れた。燥いだ声で「冷たいよ」と報告して来る。同じく足を入れた私も「嗚呼、冷たいね」と燥いで返した。透き通った海水を通して、屈折で歪んだ彼女の白い足が見える。左の脹脛にある紫の痣も、水紋に揺れて目立たない。


「えい」


 彼女が右足を蹴り上げて、私に水を掛ける。


「ちょっと、やめてやめて」


 言葉とは裏腹に、私はお返しに蹴り返して、彼女にも水を掛けた。腕で防御しながら、彼女は鈴を転がしたような笑い声を上げた。

 飛沫が散って、きらきらと光る。でも、その煌めきよりも、もっと輝かしいものから目が離せなかった。心が鷲掴みにされていた。

 私はずっと彼女の花が咲いたような笑顔を見ていた。

 こっそり塗られた色付きリップで仄かに赤く染まる唇も、その隙間から覗く綺麗に並んだ歯も、細めた色素の薄い焦茶色の目も、切長な目尻も、左目の下にある泣きぼくろも、細い首も、揺れる髪も全て、網膜に焼き付けるように、私は見ていた。


 いつも笑っていて欲しい。楽しいことだけをしよう。嫌なことを全部、忘れられるような楽しいことを。いつかは逃げ切れる筈だと夢見ながら、束の間の逃避を楽しもう。

 今の私にはまだ、こうして一緒に燥ぐことしか出来ない。貴女を苦しめる全てを振り払えるくらい、私が強くて、頭も良くて、何より大人だったなら良かったのに。


 波打ち際で、海の見える歩道で、ベンチで、絶え間なくお喋りは盛り上がる。他愛のないことも、大切なものも、一緒に壊れないように見せ合う。そして、美しいねと、悲しいねと言い合って、お互いを慰め合う。

 それは場所が変わった所で何も変わらないやり取りではあったけれど、いつか旅の記憶と共に私の中で眠るものなのだろう。そして、硝子玉のような、綺麗で淡い、傷ましくも懐かしい思い出として、年を取った私達が語り合うのかもしれない。

 今はまだ、描けない未来ではあるけれど。


 暮れて、水平線へと陽は落ちる。燃えているような雲が流れていく。次第に迫る宵闇の気配が、私達の逃避行の終わりを告げていた。

 抗うように、何度も唸るスマホを無視して、二人でいつまでも黙って海を眺めていた。


 ふと、横に顔を向ければ、茜色に焼けた彼女の顔があった。遠くを見つめるその横顔は、何処までも透明に澄んだ危うい雰囲気を纏っていた。

 今なら、胸に閊えた言葉が出て来そうだった。


「私、何も出来ないのに、奏と一緒にいてもいいのかな。だって、本当に何も出来ないの」


 絞り出した言葉に、少し考えるように目を閉じた後、彼女は泣きそうな顔で微笑んで返した。


「それで良いよ。一緒に来てくれるだけで良いの」


 耳に心地良い声が小さな口から奏でられる。

 真っ直ぐに私を見る目は、光に透けて、明るい茶色に見える。どんなに暑くても長袖を着る彼女は、珍しく腕捲りをして、白い腕の内側を晒していた。


「それだけで良いの?」

「それが私にとって一番大切なことなの。美晴は何も出来ないって思ってるかもしれないけど、私は凄く大きなものを美晴から貰ってる」


 傷だらけの小さな手が、スカートを掴んでいた。一瞬、俯いた彼女が顔を上げて、遠く海へと視線を向けた。

 教室にいた時と同じ遠い眼差しは、いつものころころと変わる表情からは窺えない硬い表情だ。

 目線を同じく、海へと移す。船着場なのか、釣り場なのか、長い堤防が変わらず伸びている。彼女はこれを見ているのだろうか。


「彼処まで行けるかな。ねえ、私達、何処まで逃げられるのかな」


 今にも泣き出しそうに呟く言葉は、潮の香りと共に私の元へ届く。


「見逃されたいのに」

「きっと、いつかは連れ戻されるよ。楽しみの終わりが来れば、またいつもの今日が始まるの」

「どうしようもないかな」

「どうしようもないのかもしれない。けど、どうにかしようと足掻くことは出来ると思うの」

「どうしたら良い?」

「どうしたら良いんだろうね。どうしたら、思い切り息が吸えるんだろう」


 ぽつり、ぽつりと細切れの言葉達が波に攫われて行く。足元に寄せては、全部海へと返される。

 せめて、彼女だけは攫われないように、私は顔を抑えてた彼女の手を取って、いつもよりも強く握った。

 一瞬驚いた彼女だったが、直ぐに頬を濡らしたまま、握り返した。


 もし運命の糸があるのなら、きっと、私達を繋ぐ糸は黒色をしていた。


「海に行けば、解放されると、なんとなくそうなったら良いなって思ってた。あーあ、逃げ道なんてなかったね」

「私達はずっと息切れしてなくちゃいけないのかもね。でもね、駅を降りた時のあの解放感は、奏と来なきゃ、きっと体感出来なかった。それだけで、来た価値はあるって思えるの」

「変な所で美晴はポジティブね。うん、あんなに燥いだのは久し振りで楽しかったな。いつまでも、あんな時間が続けば良いのにね」

「うん」

「本当に」

「そうだね」

「ずっと一緒にいられたら良いのに」

「ずっと一緒にいようよ」

「美晴といる時だけ楽しいよ」

「私も奏といる時だけ、息が出来るの」

「うん」

「……」

「ずっと続くのかな」

「神様に祈ってみても」

「叶う訳ない……なら、いっそ」


 言葉は途切れた。でも、その先に何が続くのかは分かっていた。何故ならその提案は、私も毎日考えていたことだったからだ。


 遠く、彼方に漁火が見えた気がした。


 残火の空に照らされて、赤くなった目で、彼女は私を真っ直ぐに見た。


「ねえ、一緒に来てくれる?」


 陽は沈む。空は燃える。闇は影を掴む。


 潮騒が、堤防が私達の世界を閉じていく。


 垂らされた一縷は、暗黒の内で星のように煌めいた。叶わぬ願いを持て余し、絶望に身を浸す私達は、今にも切れそうな美しい糸を見付けたのだ。それは此処から逃げ出す最後の機会だった。


 だから、その誘いに対して、あの時、私は。





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