第 5 話 海辺の町の話
店主は色々な話を知っている。
それは少し怖かったり、後味の悪いものが多いけれど、同時に、まるで知らない本を読み聞かせられるようで、幼い時分を思い起こされる。それでいて、唯の読み聞かせではなく、まるで、それを体験して来たかのように温度の籠った語り口をすることもあって、私は懐かしさと同時に新鮮さも感じながら、いつも聞いていた。
光のどけき店内で、穏やかなその口調は酷く心を安らかにしてくれる。此処には清廉さと寛容さがある。眩しい訳ではないけど明るくて、輪郭が分からない程ではないけど少し暗い。曖昧であることが許されている、そんな気がする。
店は新しそうに見える。元が古民家だから、素材自体は古いのだが、配置されている家具や増築されたと思わしき部位には真新しさがあった。色合いも最近のもののように見える。
改築されたのは最近なのだろう。窓が大きく、光を遮るものもないので、古い家屋にありがちな狭苦しさはなく、解放感があり、それがこの光の柔らかさを作っていると思われた。
その店の主である店主も、店と同じく、年を経ているような、年若く見えるような、どちらともつかない年齢不詳さがあった。ぱっと見では二十歳半ばくらいだろうか、そのくらいに見える。
その割には、随分と落ち着いた雰囲気を漂わせていた。偶に、発言の内容も年寄り臭いものがあったりして、いまいち実年齢が定まらない。
見た目は一見すると地味だ。街中で擦れ違っても、景色の中に溶け込んで、目を向けることさえしないだろう。
でも、よく見れば、比較的綺麗な顔をしている。短い黒髪はさらさらとしていて、眼鏡の奥の睫毛は長く、パーツ自体の存在感はしっかりあるけど、清潔感のあるさらっとした印象も受ける。何処かふわふわとして、浮世離れした雰囲気もある。それでいて、まるで近所の親戚の人のような親しみやすさもあり、今までに会ったことのない、不思議な人物だと思う。
名前も歳も知らない。何故、色んな話を知っているのかも分からない。私はこの人のことを店主だと思い込んでいるが、それは店主以外の従業員を見掛けたことがないからで、実際のところ、此処の店主かどうかも分からない。
店主だと思うと、随分若いようにも思うが、どうにもこちらの手持ちの物差しで測れるような気がしない。捕まえようとしても、指の隙間から逃げ出して行きそうな予感がする。
尋ねてしまえば一番簡単なのだろうけど、今の互いの名前も知らないような関係が心地良くて、踏み込むのが少し怖いのだ。
店主は私が学校をさぼることを否定しない。「嗚呼、いいね」「最高だね」と適当に歓迎してくれる。そして、美味しいミルクティーを淹れてくれて、話をしてくれる。
それだけだ。奇妙ではあるけど、浅い関係だ。しかし、得難い関係だ。
「今日の話はね、どうしようかな。怖い話でもしようかな」
「ホラー結構好きです」
「なら、良かった。うーんと、あれにしよう。始まりはね、ある事件からなんだ」
おどろおどろしく語り出すが、あまり向いていないのか怖さはない。明るいティータイムという環境もあるし、店主の声が優しいので、絵本の読み聞かせのようにも聞こえる。
「ある海辺の町があってね。小さな町なものだから、住人は皆顔見知りだし、言っちゃ悪いけど、退屈なくらい平和な場所だった。小さいけど漁港もあって、観光地にはなっていないけど、新鮮な魚をいつでも食べられるような素敵な所だったんだよ。鯵が美味しいんだ。お刺身でも良いんだけど、アジフライも最高でね」
私は想像する。海の見える町、きらきらと揺れる水面が光り、潮風が髪を靡かせる。錆びた標識に、波飛沫に濡れる埠頭、そう見えるような見えないような名前の岩としめ縄。子供の数は少なく、老人の数が多い。擦れ違えば、誰もが挨拶を交わす。港には猫もいるかもしれない。
店主が声を低くする。
「ところが、そこで子供が一人、行方不明になったんだ」
穏やかな日々に差し込まれる不穏なニュースに、私は少し身構えた。
「小学生の男の子だった。大人しくて、いつも本を読むような子で、山や海なんかを一人で冒険したりするタイプじゃなかった。突然の事件に町は騒然としたよ。そう広くない町だし、それに皆顔見知りってことは、何か異変があれば直ぐに噂が立つってことだ。でも、それもない。だから、男の子を誘拐した犯人は町の外の人間だと、皆が考えていた。誰も誘拐犯を見ていなかったのに、決め付けられていたんだ」
密接な人間関係というものは、潤滑であるなら、お互いに助け合える素晴らしい関係だろう。信頼し合い、成長し合うようなものだ。だが、近過ぎるが故に、過干渉になることも、監視のようになることも時にはある。
身近な例を出すなら、親子の関係だ。
その言葉を思考に浮かべると、心の端に影が伸びて行く。頭を振って、私は目の前の人に意識を向ける。
「男の子はどういう状況でいなくなったんですか」
「学校の帰り道だと考えられていたよ。彼は一時間程掛けて、徒歩で小学校に通っていた。道中は人気がないから、正確な誘拐の時間は分からないが、彼の両親が通報をしたのは午後七時だった」
学校が終わって帰って来る予定の時刻になっても戻らず、不審に思って探し回った後、どうしても見付からないと警察に連絡したのだとしたら、このぐらいの時間になるだろうか。
田舎には数回、旅行で行ったことがあるくらいだが、場所によっては本当に人気がない。駅前なのに人がいなくて、まるで別世界に迷い込んだような心地がしたことを覚えている。人が溢れんばかりに出歩いている光景を見慣れていると、駅も店舗もあるのに全く人がいない光景がとても異質に映るのだ。
その海辺の町がどの程度栄えている場所かは分からないが、私が行った所では、夜、散策に出た時には街灯も人家の数も少なく、暗闇が世界を覆っていて、重なる虫と蛙の声だけが響いていた。父と二人だったが、一人だったら歩くのを躊躇っていただろう。夜というと静寂の時間に思われるが、人の声に限らなければ、田舎の夜はとても賑やかだ。
それはさておき、人気のない道がずっと続いているというイメージは湧いた。
十分、二十分程の通学であれば、家と学校の二か所で、親や教師、友人などから男の子の目撃情報が得られて、ある程度犯行の時間を絞れるが、こういった状況であるなら、男の子が誘拐された正確な時間が分からないというのも頷ける。
「まずは、山とか海で迷子になった可能性を潰していくことになった。応援として、近辺の警察の人も捜索に回った。でも、山には形跡がなかった。次に、海の周辺、テトラポッドの隙間にでも落ちてやしないかと捜索したけど、やはり、見付からない。君も彼処は近付いちゃ駄目だよ。落ちたら這い上がれないから」
「じゃあ、誘拐犯による犯行ってことに」
「そうなったんだ。元々、町の人達はその可能性を一番に疑っていたしね。だから、ここ数日、町で普段見掛けない人物を見なかったかと、しらみつぶしに聞き取り調査を始めたんだ。すると、もしかしたらって言う証言が取れたんだ」
「おお、じゃあ、その人が犯人?」
「と言う訳にはいかない。証言者から聞き取りしたお巡りさんが聞いた所によると、行方不明事件が起きる二日前に、グレーのワゴン車が何処そこに停まっていたと。見掛けない車だったからよく覚えていると言うんだな。でも、運転手は見ていないと」
「ナンバーが分かれば」
「それも覚えてないと言うんだよ」
「うう、折角の情報なのに。でも、多分私が証言者だとしても、車のナンバーなんて覚えてないだろうなあ」
特に目に止めるものでもないし、そもそも番号が長いので、瞬時に覚えることが出来ない。更に言うと、車種についても詳しくないので、もし何か起きたとしても、上手く説明することが出来ないだろう。
「近隣から、と言っても山を越えた先なんだけど、応援に来たお巡りさんは何人かいたんたけど、その内のある一人は熱意に溢れていてね」
そう言って、懐かしそうに目を細める。
此処に通い始めて一週間だが、この表情の理由が分からないでいる。人から聞いた話ではなく、実体験の話なのだろうか。
「お巡りさんは地元の出身ではなかったけれど、とても勤勉で親切であったから、その町の人と直ぐに馴染んだんだ。だから、町の人達のためにも絶対に解決してみせると意気込んでいてね」
「熱血キャラですね」
「そうして、沢山の人の捜索の結果、さっきの車は住人の親戚の車だと判明した」
「部外者の犯人説が崩れた?」
「高齢の住人の顔を見に来たらしくて、近隣の住民にもその人を知る人もいたし、何かをしたという証拠もないから、犯人ではないとされたよ」
有力な線がなくなってしまった以上、他の犯人を探さなくてはならないが、そもそも、本当に町の中に犯人がいないと言えるだろうか。全てが疑わしく思えてくる。
店主が不意に真顔へ戻り、硬い声で続けた。
「そして、時を同じくして、行方不明になっていた男の子が見付かったんだ。少し欠けた状態で」
欠けた、という言葉にどきりとする。
「何が欠けていたんですか?」
震える声で問い掛ける。
店主は少し悲しそうに微笑みながら、答えた。
「頭だよ」
私はクッキーを持ったまま、動きを止めた。頭の中が一瞬、フリーズする。
「首から下は見付かった。海岸の岩の陰にあった。でも、何処を何度探しても、その時は頭だけが見当たらなかったんだ」
猟奇的と一言で言えば、それだけで済むかもしれない。だが、人が人たらんとする要素として、知能や理性があげられるならば、その象徴とは脳であり、また、人の高度な文化圏の成立が、集団による社会の形成にあるならば、高度で複雑な会話も人であることの要素の一つになろう。対人に於いての象徴とは顔であろうから、それらを纏めるなら、人の象徴とは頭と言えるのではないか。
それを奪い取るというのは、人としての尊厳を奪い取るも同然だ。そして、個人の区別も失わせる。
部位の欠損とはそれだけで、眉を顰めてしまうものであるが、故意の頭の損壊はグロテスクということだけでなく、それ以上の文化的な意味合いが出て来るように思う。
「なん、で」
「さあね。殺し方に拘りがあったのか、偶々そうなったのかは、犯人に訊かないと」
「その後はどうなったんですか?」
「迷宮入りってことになったさ。ワゴン車の持ち主も今回の件とは関係なかった。振出しに戻ったんだ」
怖い話と言えば怖い話だが、思っていたのとは少し違っていた。グロテスクではあるが、耳だけで聞くなら、そこまで怖いとは思わない。と思っていると、店主が「でもね」と言葉を続けた。
店主は一瞬、窓の外に向けた目を、此方に戻す。睫毛に囲まれた澄んだ灰色がかった黒目が、私を捉える。
「お巡りさんはどうしても諦めきれなくて、捜査を継続したんだ。一人で」
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