第13話 行き止まり

「あいつは」

「大丈夫だ。海の外へは出られない」


 常連客が水面を覗き込みながら答える。


 同じく引き上げられた店主は肩で息をしながら、同じく荒い呼吸を繰り返す私の傍、放り投げられたと思わしきカーディガンの落ちている地面の近くにそのまま座り込んだ。


 全身びしょ濡れになっており、髪の先から絶え間なくぽたりぽたりと雫が垂れている。シャツも張り付いてしまって、「びしゃびしゃだ」と呻きながら裾を軽く絞ると、ぼたぼたと海水が、地面を濡らして、海へと向かうように道を作った。

 顔に張り付く髪を、軽く指で弾きながら、店主は問い掛ける。


「怪我はないかい?」


 私はまだ状況が飲み込めなくて、直ぐに答えられなかった。


 奇妙なことが起きたように思える。確かに先程まで喫茶店にいたのに、何故、私は海にいるのか。そして、其処に何故、店主達がいたのか。店から海までの距離を考えれば、このような短時間で移動出来る筈もない。

 説明の出来ない奇妙なことが起きている。


 だが、此処は海だし、目の前にいるのは店主だし、私も其処にいる。


 私が気付いていないだけで、何時間も経っていたのだろうか。或いは、私が二人に分裂していたのか、もしくは、店主達は瞬間移動でも行ったのか。


 そこまで考えて、思考をやめた。この後に及んで、目を逸らす必要はない筈だ。少なくとも、私に関する答えはもう分かっている。


「怪我は、していません」

「そうかい。何よりだ。それで……」


 言い掛けて、店主が口を噤む。

 下唇を噛んで、今にも泣き出すんじゃないかと思えてしまうような、辛そうな表情を浮かべた。それを見て、その感情の正体も知らないのに、私は嬉しくなった。

 私の何かに対して、この人はこれ程なまでに心を痛めている。私の言葉に耳を傾け、傷の痛みを想像してくれて来た。そして、囚われた私を救って、引き上げてくれた。

 優しい人だと思う。不器用だとも思う。この人の傷にならなければ良いと思いながらも、私という存在が傷であっても店主の内に残るなら、仄暗い喜びが満ちよう。


 もっと早くに会えていたなら良かったのに。


 心の底から、そんな言葉が湧いた。

 そうしたら、私達は抱え込んだ澱みを吐き出せて、どうしようもないことを解決出来なくても、こんな果てまで来ずにいられたのかもしれない。


 店主が何かを発言しようと、僅かに唇を開いた。


「驚いたよ。いきなり飛び込むなよ」


 先に声を発したのは常連客だった。彼は店主の靴を軽く蹴りながら文句を言う。その太腿を静止するように叩きながら、店主は軽く息切れしたまま、言い返した。


「やむを得ない状況でした」

「せめて、一言言ってから行けって」

「何も言わなくても、貴方なら分かるかと思って」

「それ、信頼じゃなくて甘えだろ」

「甘えてはいけませんか? 信頼も込み込みなのに」

「はあ、全く」


 男は溜息を吐き、眉を寄せながらも、満更でもない顔でしゃがんだ。そして、特徴的な灰色の目を私に向けた。

 私はどきりとした。夕焼けを背景に佇むその人の気配が、まるで触れたことのない異質な質感をしていたからだ。その眼差しは店主に向けるものとは違い、冷たく、昏く、それでいて、生きている熱がちゃんと宿っている。

 夕闇に溶け込みそうなその人は、静かに口を開いた。


「何が起きたかは分かっているね?」


 私は黙って頷いた。


 彼はそれを見て、「そう」と呟いて、また立ち上がった。


「僕は海にいる奴の対処をしてくるよ。そっちは任せたから」

「ついでに、私の眼鏡探してください」

「無茶言うな。それにどうせ伊達だろ」


 そう言うと、彼は何もない空間から大きな鎌を取り出すと、迷わず海へと飛び込んで行った。水柱が立ち、飛沫が周辺へと飛び散った。

 海の中にはあれがいる。私が慌てて、腕を伸ばすと、店主は大丈夫だよと声を掛けてきた。


「彼は強いから」

「でも」

「あの程度なら全然問題ない筈さ。だから、私達は話をしよう。大事な話だ」


 嗚呼、もう逃げられないんだと悟った。同時に、もう何も隠さなくても、目を背けなくても良いのだと感じて、怖いけれども安心していた。落ち着いていられる。これでお終いだと分かっているからかもしれない。

 終わらない日々程、絶望を感じさせるものはない。


「私は、机の上にあった花瓶は貴方を傷付けるためのものではないと言ったね」


 教室の私の席に置かれていた花瓶は、白い百合の花が生けられていた。あの時は動揺してしまったが、今ならその意味も分かる。きっと、母が泣いていた理由もだ。


「はい。だって、あの日死んだのは」


 声が震える。


「奏ではなく、私の方だった」


 救われなかったと言えば良いのか。救われたと言えば良いのか。やはり、私は救われたのだと思ってしまう。

 辛い現実から私は逃れられたのだろう。居場所のない家庭、居心地の悪い学校、どうしようもない閉塞感もやるせなさも、内より苛む罪悪感も情けなさも、こうなってしまえば、もう関係ないと言えるかもしれない。そういう意味では、私の望みは叶えられたのだ。些か、方法は取り返しのつかないものではあったが、息苦しさを覚える原因を物理的に断ち切れたのだから。

 でも、それを断ち切っても尚、私の心は現実からは逃れられなかった。

 生前の苦しみは未だに私の首を絞める。絶望の淵が目に見える傍まで来ている。

 私の身体は浮かぶことなく、沈んだままだった。

 生から抜け出した私は、自由になれた筈なのに、同じような日々を繰り返しては、同じように苦しんでいた。


「だから、あの花は、私を悼むもの。悪趣味な悪戯ではなくて、私がいないのと同然に扱われたのも、無視された訳ではなくて、単に私が既に死者で、彼女達の目に映らないからそう扱われただけ」

「そうだね。貴方は自分を救われた側だと思い込んでいたようだけど、あの時、貴方達に気付いた近隣の漁師が救えたのは奏さんだけだった」


 今、目を背けてきた現実が突き付けられている。いつもなら逃げ出したくなるのに、何処か嬉しいと思えるのだ。思い悩んだものも、膿のように溜まっているものも全部、吐き出したくて堪らなかった。


 海に落ちた私は、底に潜む何かに捕らえられた。


 あの日、右手が離された時、私は下へと落ちていた。誰かに掬いあげられた彼女の手が、力なくするりと抜けて離れたのを感じながら、なす術のない引力で底へと向かっていたのだ。


 そして、喰われるのを待つだけだった。だが、逃げ出したかった私は、魂を分割することで、その一部を包囲から抜け出させた。

 抜け出た魂は、家へと戻り、海にいることを忘れようと努めながら、日々を過ごした。目を逸らし続け、自分が死んでいることを認めず、私ではなく彼女が亡くなったのだと誤認さえもしながら、生活を取り繕っていた。


「奏はどうしていますか」

「貴方のことがショックで学校に来られていないみたいだ。だけど、最近は散歩に出たりして、少しずつ外に出るようになったみたいだよ」

「何で詳しいんですか」

「情報を得るためであって、如何わしい理由などでは……そう睨まないでよ。本当に仕事だったんだ」

「仕事?」

「そうだよ」


 体が冷えたのか、思いっきりくしゃみをしながら、店主は話を続ける。


「私は死神でね。彼もそうだ。私達は貴方のように彷徨う魂を回収するのが仕事なんだ。あの店もそういう人が集まりやすい作りになっている。唯、貴方の場合は、魂が分割されていたから、もう片方の魂が何処かを探していたんだ」

「死神……」

「奏さんから話を聞けたら、何かヒントになるかなと思って、声を掛けるタイミングを図っていたんだ。結局、話せなかったけれど。それで少し詳しくなっただけで、本当に不審者ではないから」


 ちょっとした揶揄いだったのだが、思ったより長文でしっかりと否定されてしまった。勘違いされたままだと、不都合なことがあるのだろう。確かに、面識のない女子高生の生活に詳しい人がいたら、よろしくない誤解を与えてしまうかもしれない。


 それよりも、死神とは、とも思うが、現状死亡している自分と対話出来ている時点で、普通の存在ではないのだろう。だから、その概念は不思議とすっと頭に入った。

 そもそも、どういう存在であれ、私にとっての店主の印象は変わらないのだから、瑣末なことかもしれない。


 あの店に辿り着いたのは、偶々だった。

 散歩していたら、偶然目に入って気になっただけだが、今にして思えば、光に寄り付く蛾のように、私は誘われたのだろう。


「店で貴方と話をしながら、分たれた魂の居場所を探していたんだ。新聞には何処の海かは書いてあっても、どの位置かは分からなくてね。意識は全て貴方が持って行ったようで、海に残っている方は存在が希薄なんだ。実地で見て回ってみても、普段は海の底にあれは沈んでいるらしくて、見付からなかった」

「海のあれって、あの髪の毛の」

「そう。あれは海難事故を引き起こし、その魂を喰らおうと待ち構える悪霊だ。力が強い割には、詳細が不明でね。それ以上は分からない」


 海の底で餌を待つもの。

 悍ましく、恐ろしく、伸びる触手のような髪で獲物を捕らえて喰う。かつては人であったのか、元より怪物であったのか、或いは、いつかは神に等しい何かだったのかもしれない。


「貴方はあれに連れて行かれたんだ。囚われた其処から抜け出そうと、魂の半分を貴方は飛ばして、それは最も慣れ親しんだ家へと戻った。そして、あの店へと辿り着いた。……あれは貴方の魂を全て揃えようと考え、逃げた魂を探していたようだよ。ほら、海の傍の町の話をした時に、話の縁を伝ってやって来たろう」


 脈が跳ねる。あれは幻覚ではなく、店主の目にも見えていたのか。全く動じないから、私だけが見えているものだと思っていた。


「見えてたんですか」

「ああいうのは目を合わせたり、話し掛けたりしないのが定石でね。気付かれないように結界を張って、追い出したんだ。正直、彼処まで追いかけて来るのは予想外だった。そのお陰で得たものもあるけど、あれは私のミスだな。怖い思いをさせてごめんね」

「良いんです、それは。それより、得たものって?」

「位置だよ。あれのいる場所が分かった。こうして間に合ったのも、あの時にある程度の位置が分かったからだ。それで、海に残る貴方の魂を回収に行く準備をしていたら、貴方が駆け込んで来たんだよ」


 今にして思えば、被害者意識満載の駆け込みだった。当然の扱いを、殊更大きく傷付いたように見せていた。


「貴方の話を聞いて、これは既に死亡しているという事実を突き付けなければならないかもと思ったんだ。そうすれば、花瓶の件で付いた傷はなくなるだろうと。だけど、どうにもならない事実も、また、貴方を傷付けるかもしれないと。いつかは理解して貰わなきゃいけないものではあるけど、今で良いのだろうかとまごまごしていたら、貴方を追い詰めてしまって、その勢いで海の魂へと戻って行ってしまった。だから、慌てて駆け付けたんだ」

「……どうやって此処まで来たんですか」

「ちょっとした裏技があってね。空間転移というか。まあ、それはさておき、間に合って……いや、間に合ったのかは分からないが、……食べられる前に助けられて良かった」


 そこまで言って、店主はまたくしゃみをした。





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